未だ描きえぬ肉声——佐藤厚志『象の皮膚』について
「暴力」という言葉はしばしばその内実を曖昧にぼかされたまま口にされる。物理的な暴行であれ性的な加害であれ、あるいは言葉によるものであれ、思い返してみるといつ誰にどのようなことをされたのかという被害体験を詳らかに語られることは意外なほど稀だ。人がそのような体験を告白し得るのは共に苦しみをわかち合えるような大切な他者を前にしたときのみだからである。毎日の報道がある、と人はいうだろうか。しかしそれは客観性を装ったキャスターの言い回しによって吐き気を催すようなリアリティが希釈された後のものであり、いわば「暴力」の残滓を伝え聞いているに過ぎない。僕たちの日常は誰かが受けた被害を詳細に語ったりそのときの悲しみや怒りを言葉にしたりする機会をなんとなく避ける空気で満ちている。それは反暴力を訴えていながらその随所に当の「暴力」を潜ませている結構な社会に僕たちが暮らしているからなのだが、『象の皮膚』はこの「暴力」と格闘して至るところで血を流している異様な作品である。
たとえば作品の冒頭、小学校低学年だった主人公の凛は母親に付き添われ、周りの児童と共に健康診断を受けるのだが、アトピー性皮膚炎に覆われた全身の赤い皮膚を見せたところ、医者から「みなさん、これはカビです」と宣言されてしまう。後に誤診だったことが明らかになるのだが、このことをきっかけに美しい肌を持ったクラスメイトたちに「カビ」と囃し立てられるという脂汗の伝うような嫌なリアリティを持ったエピソードが描かれる。この場面が残酷なのは子供たちが凛を囃し立てるからでもそれを容認して笑っている大人たちの姿が垣間見えるからでもなく、社会の——他者の——言葉を凛が内面化してしまうところにある。言葉の暴力とは単に内容が暴力的だからそうなのではない。ぶつけられた人がその言葉を内面化してしまうがゆえに暴力なのだ。
学校という社会から受けた「暴力」である「おまえはカビだ」という言葉は家庭の中で訂正されるどころか追認されることになる。健康診断で宣告された「これはカビです」という診断が病院に行った際に間違っていたと判明したとき、凛の母親は「よかったねえ」と喜ぶのだが、つづけて「水虫だったらお風呂の足ふきマットもタオルもスリッパも気をつけないといけなくなるからねえ」と安堵する。それを見て「潔癖症の母親が心配していることが、自分の疾患より家族の衛生だということに凛は思い当た」るのだが、このような娘の疾患より自分の衛生が大事といったエゴは凛の家族が持つ基本的な姿勢であり、凛の心の傷といったようなものが配慮されることは一切ない。凛と同じ小学校に通う兄が凛のあだ名を家庭に持ち込み、弟もそれを真似て凛を「カビ」と呼ぶ。父親はそれを止めるどころかおもしろがるという始末である。
教室には凛の他にもアトピーの生徒がいたが、お互いが暗黙のうちに避け合うことになる。何気なく書かれているがここは重要な指摘であり、マイノリティとして言葉の暴力を受けている者は背負わなくてもいい負い目が原因で似た境遇の他者と連帯することができないのである。SNSで容易に連帯が叫ばれる昨今だが、この風潮にはマイノリティが連帯することが持つ根本的な困難を見えにくくし、声を上げられないマイノリティに対してさらに負い目を抱かせるような加害性がありはしないだろうか。実際、凛は苦しみを誰とも共有することもなく成長し、二十年の間おなじ苦労を重ね、契約社員として書店で働くようになっても孤立しつづける。アトピー性皮膚炎が治ることはなく、夏になっても半袖を着ることがない。人からそれを不思議がられると、凛は慣れた調子で「寒がりなんです」と嘘をつくのである。
ここまで被害者としての側面が強調されてきた凛だが、それだけが描かれるわけではない。この作品はアトピー性皮膚炎の当事者にとって社会がいかに残酷かを描くというそれ自体重要かもしれないが退屈な告発文にはならず、凛の加害者としての側面も同様に強調してくのである。たとえば書店員になった凛が職場で万引き犯の男を捕まえた場面で、凛は後ろから男を裸締めにし、男が逃げることを諦めても締めつづける。突発的に生じて暴走したこの力を凛は緩めることができない。頭の中に「絞め殺せ」という声が響く。店長に止められてようやく凛は万引き犯を解放するのだが、このような瞬間に顔を覗かせるのは溜め込んできたルサンチマンを無反省に放出する人間の姿である。この姿は客に対するちょっとした呼び方にも反映している。凛は中学生のときに肌が象のように薄黒かったことから「象女」という蔑称で呼ばれるという経験をしており、人を外見で呼ぶ暴力性を嫌というほど知っているはずなのだが、若い店員にセクハラ紛いのことをしてくる中年男性の客に対しては平気でその見た目の特徴から「油男」という蔑称を使うようになる。アトピー性皮膚炎に関しては被害者である凛も自分より劣った他者を目にすれば平気で加害者に転じ得るのだ。
凛の加害性は中学のときに同じ教室にいたソノコというクラスメイトとの関係においてより顕著に現れる。ソノコはいじめられて泣いている生徒をよく慰めており、容姿が可愛らしくて級友に好かれていた。そんな彼女から声をかけられると、「ソノコにそんな意図がみじんもないと知りながらも高いところからものを言われているようで不快だった」と回顧する凛は、男子生徒からいじめられていたのをソノコに庇われたとき、皮膚炎に覆われた自分の腕にそっと触れられてゾッとし、彼女のつま先を踵で踏んづけるという暴挙に出る。ソノコが泣き出したために担任教師にひどく説教されることになるのだが、凛は反省するどころか男子に向けるべきだった憎悪をソノコに向け、「ソノコのせいで男子の前で恥をかいて担任の説教を受けたと思」い、「虐げられた凛はもっと腕力の弱く、体の小さいソノコに当た」ることになる。もちろんソノコが意図的に凛を加害しているわけではないが、級友にも容姿にも健康な肌にも恵まれた小柄で可愛らしい彼女は凛にとってその存在が脅威であり、羨望の対象なのである。一方、嫉妬を引き起こすその身体的特徴がそのまま自分よりか弱くいくらでも痛めつけられる者であることを意味しており、凛にとって、ソノコは自分より上の存在(加害者)であると同時に自分より下の存在(被害者)でもあることが窺える。この構図はソノコと凛の関係に留まらない。先述の「油男」が客としてレジに現れ、アルバイトの女子大生に執拗にからんで過呼吸を起こさせるという場面があるのだが、ここで「油男」を止めようと躍起になっていた凛の元に千鳥という美貌の同僚が通りかかる。「油男」は標的を千鳥に変え、凛が再びそれを止めようとすると、千鳥からかまわないと言われて引き下がることになる。ひとしきりセクハラめいた言葉をなめるように絡みつかせた「油男」が去ると、「凛は「ごめんね」と千鳥の袖に触れ」るのだが、この動作はソノコが男子から庇った凛の腕に触れる素振りと対称的であり、千鳥にとっては凛がソノコのような存在に見えていることを暗示している。この作品においては誰もが少しずつソノコに似ているのだ。悪意の有無に関わらず、いやむしろ悪意のないところでこそ、人は誰かにとっての加害者であり、同時に被害者でもあるような存在として描かれているのである。
過去と現在の生活が交互に描かれていた作品の流れを断ち切り、仙台に住む凛のもとに震災がやってくる。東北では発生した地震は凛たちの日常を食い破って人間のエゴを露見させていくのだが、それ最も顕著に現れるのが被災後にいち早く営業を再開した書店での様子である。「こんな時、誰しも本を読むどころじゃないだろう、という従業員一同の予測は外れ、午前十時にオープンした善文堂仙台シエロ店に大勢の人が押し寄せ」る。凛はこの対応に追われることになるのだが、現場はもはや無政府状態であり、大混乱の様相を呈すことになる。凛は目の前の光景にショックと憤りを覚え、次のような反感を抱くに至る。
作者には人間のエゴが鮮明に見えているのだ。たとえ大震災が起きた直後だとしても、自分の身の安全さえ確保されれば他人がどうであろうとかまわず、娯楽に走ることに躍起になる人間のエゴがくっきりとしているのである。「食うことよりも、眠ることよりも、寒さで震えながら家族や友人の安否を祈る人」にとっては津波そのものよりも破壊的なものに映るかもしれない。このエゴはもはや暴力なのだ。一方、前述の通りこの作品では誰かが一方的な被害者であることはなく、加害者としての側面も書きつけられることになっているのだが、この場面の場合、それは常連客だった女子大の女教員から理不尽なクレームを受けている際に、凛が彼女の首を絞める自分を想像するという形で描かれる。「女の顔がみるみる紫色に変色していく。口から泡が漏れる。ぶるぶるっと全身を震わせたかと思うと、一度に力が抜ける。大きな鼻の穴から血が流れる。女教員は崩れ落ちる」。震災によってもたらされた混乱の中、クレームという暴力をぶつけられる側も想像力によって加害者になっている、という現実が作者によって告発されているのである。作者の手は義憤によって震えている。印字された文字にすらその痕跡が窺えるほどである。
作者の怒りは正当だ。僕も同じ立場に立たされて同じものが見えていたなら同じ感情を抱くにちがいない。しかし、そう思うからこそ慎重にならなければならない。作者の意図がどうであれ、この作品において震災は人の暴力を浮き彫りにするための装置として機能しているのだが、実際に大勢の死者が出て今も多くの人が苦しんでいる現実をそのように扱うことには間違いなく暴力性が潜んでいる。震災をフィクションに導入することで、書店に殺到した人々が他人の命より自分の娯楽を優先したのと同じ暴力性を作者が持ってしまっているのだ。
先の場面の後でも作者の告発はつづいていく。被災後にいち早く営業を再開できたことで大きな売り上げを得た凛の職場に、おそらくは関東にある書店の営業本部から島袋という人物がやってきて御託を並べる。「四月は前年比にして倍に迫る売上を達成することができました」と意気揚々と喋る彼は、「この調子で引き続き好調を維持していきましょう」と朝礼を絞めるのだが、凛は「好調」という言葉に躓く。「困憊しながらも踏ん張って出勤して、食うものも食えず、震災と安月給に苦しむ書店員」を鼓舞したこの男には被災地の何が見えているのか。自分は安全な場所にいて苦しんでいる現場のリアルを無視する、ある意味では大いに資本主義的なこの身振りがいかに暴力的かが凛には鮮明なのだ。他にも震災後に実家の様子を見に行った凛に対し、はじめて無事を確認した父の一言が「なんだ、おまえもいたのか」というあまりにも残酷なものであったことや、大津波の迫った沿岸部に実家のある千鳥に対して職場の誰もが噂する程度のことしかできない現実が書き加えられていく。これらの場面を描く作者の手は怒りに震えながらも鮮やかだ。しかし、明確に描かれたこれらの場面に対して思うのは、他者の暴力を告発するそのときにこそ自分の言葉が誰かにとっての暴力になっていないか見極めなければならないのではないだろうか、ということである。
この疑問があるから、作品の終盤に対比的に配置された二つの場面はどこか白々しく見える。その場面の一つはモーリス神田というアイドルが凛の職場でサイン会を開き、そこに握手権を狙った転売屋やファンが詰めかけてパニックが生じるというものなのだが、人ごみの中、男の子を連れた母親が悲鳴をあげて倒れ込み、男の子がそれを助けようとして母親の上に覆い被さると、転倒した他の客がそこに雪崩れ込んで将棋倒しが発生する。事態をどうにか収めようとしていた凛は猛り狂う群集の被害者になるわけだが、この後で、今度は人気アイドルのイベントに出かけた凛が数量限定のグッズの奪い合いに参加する場面が描かれる。職場で暴徒と化した人ごみの醜さを思い知らされているはずの凛が、ここではグッズを手に入れるための争奪戦の中で無反省に暴徒となり、目の前で少女が倒れると、そこを人ごみを突破してグッズを手に入れるための活路だと判断して倒れた少女の肩甲骨を踏みつけていくような振る舞いに出る。くり返しになるが、この作品では誰かが一方的に被害者であることはあり得ないのである。一方、男の子と少女という違いはあれ、欲望に狂った人々が転倒した子供を踏みつけるという同じモチーフの対比的な配置はいささか技巧的に見え、器用に振る舞う作者に震災をフィクションに導入したことの加害性を問うてみたい気持ちを抱かせられる。
『象の皮膚』はありとあらゆる種類の加害性が描かれ、まるで「暴力」のデパートのような作品なのだが、実は作中に「暴力」という言葉は一度も出てこない。これはなぜだろうかと考えたとき、この点に、「暴力」という言葉を回避した作者が、震災をフィクションに導入することの加害性と向き合うことから逃げているという姿勢が現れているのではないかという疑問が湧いてくる。
苦しんで書いたであろうことは想像に難くない。キャッチーなテーマだからという不純な動機で震災を導入したわけではないこともわかる。震災という現実が露わにした暴力性に本当に苦しんだ人だから書けた作品だということを僕は微塵も疑わない。その上、おまえに震災について何が言えるのかと反問されれば押し黙るしかないのが正直なところだ。そのような僕もまた書店に殺到したあの醜いクレーマーたちの一人に過ぎないだろう。それで大いに結構だ。文学は未だあの震災を十分には描きえていない。それは苦しんでいる人が現実にいる問題をフィクションという娯楽に導入することが孕む暴力性に真摯に向き合うことの困難さに由来するだろう。ただ一方的な被害者など存在せず、誰もがなんらかの形で加害者なのだという洞察を持った作者ならこの困難に再び挑戦することができるかもしれない。僕は一クレーマーとしてそれを期待している。
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