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読書記録「星の王子さま」

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

今回読んだのは、サン=テグジュペリ 河野万里子訳「星の王子さま」新潮社 (2006) です!

サン=テグジュペリ「星の王子さま」新潮社

・あらすじ
僕が「星の王子さま」に出会ったのは、操縦していた飛行機がサハラ砂漠に不時着した時のことである。

この広大な砂漠で、僕は飛行機の修理をしなければならなかった。食糧や水はもって1週間。生きるか死ぬかの問題だった。

その時、突如として男の子から声を掛けられる。こんな人が住む場所から数千マイルも離れた場所で、「ヒツジの絵を描いてほしい」と頼まれる。

少しづつ話をしていくうちに、彼は〈よその星〉からやって来たのだと知る。

小さな、小さな星からやってきて、7番目にたどり着いたのが〈地球〉だったらしい。

聞けば、彼の星に咲いた1輪のお花が、あまりにも我が儘で、愛おしくて、でもプライドも高くて、、、とにかくうんざりしていた。

だから星から旅立ったのだけれど、地球にたどり着いて驚いてしまう。

自分の星に咲いたお花は、特別なお花でもなんでもなく、どこにでも咲く何の変哲もないバラだったのだ。

意気消沈していた星の王子さまだが、とあるキツネに出会って教えられたのだと言う。

もしきみがぼくをなつかせたら、ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって、世界で一ひとりだけの人になる。ぼくもきみにとって、世界で一匹だけのキツネになる……

同著 100頁より抜粋


読書会という「おすすめの本」を紹介する場で度々語られたのをきっかけに、実家の本棚から持って帰り、数年ぶりに紐解いた次第。

出版社・翻訳者によるニュアンスの違いなどはあれど、何だかんだ新潮社は河野万里子さんの翻訳が一番だと、かつてお会いした元書店員さんが話していた。

お恥ずかしながら、私は辻村深月さんの「傲慢と善良」のごとく、恋愛とはなんぞや、人を愛するとは?で既につまずいている人。

そのため、この物語の軸となる、大多数の「その他大勢」の中から、たった一人の「最愛の人」を見つけるという感覚が、未だにピンときていない。

ゆえに、いつも通り私の解釈で感想を記す。


前に読んだときから、星の王子さまが地球にたどり着くまでに出会った、6人の人々が印象深く残っていた。

王さま、大物気取り、酔っぱらい、実業家、ガス灯の点灯人、そして地理学者。

以前は「点灯人」のような、与えられた指示通りに生きざるを得ない人に共感していたけれども、改めて読むと、「酔っぱらい」の気持ちが分からなくもない。

「恥じているのを忘れるため」に、酒を飲む。人生ってこんなものよねと、ちょっと考えちゃう自分もいる。

酒じゃないにしても、何か幸せを感じるためだとか、嫌なことを忘れてリフレッシュするためだとか、大人になると、ここではないどこか・・・・・・・・・に求めがちではなかろうか。

人間たちって…… 特急列車に乗っているのに、なにをさがしているのかもわからないんだね。だからせかせか動いたり、同じところをぐるぐる回ったり……。そんなこと、しなくていいのにね……。

同著 118頁より部分抜粋

以前読書会に参加された方が「幸せとは?」について語っていたことでもあるが、我々は日常と非日常を分け過ぎではないかと。

テーマパークを訪れたり、特急列車や飛行機に乗って遠くに行かないと、幸せを感じられないのではないか(それらが悪いわけではない。むしろ好きだし)。

何が言いたいのかと言うと、幸せというものは、ありふれた日常の中にでも感じられるものであり、「見つける」のではなく「見出す」ものだと。

とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。

同著 108頁より抜粋

しかし、この「心で見る」という感覚を、つまり「こういうことだ」と言うのは非常に難しい。どうしても「視覚」に頼ってしまう。

強いて言えば、前に読んだレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」に近いものを感じる。

自然を感じるために、わざわざ遠くに行く必要はない。自然の神秘さは、どこにいても見る(感じる)ことはできる。

何を見たのかよりも、心の動きに注目する。

どう思ったのか、どう考えたのかは、自分だけが感じ取ることであり、唯一無二である。

だからこそ、大多数の中から1つ、あるいは1人を私たちは選ぶことができる。

世の中にある数々の本の中から、たった1冊、自分のための本を見出すように。

それはきっと、目で見たのではなく、心で見たのだろうからね。それではまた次回!

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