かわ

看護師23年が脊損患者の家族になったら

かわ

看護師23年が脊損患者の家族になったら

最近の記事

父の葬式にて

通夜と葬式の打ち合わせ、家と葬儀場の往復、年老いた親戚の送り迎えなど悲しむ暇が無かった。朝から何も食べていなかったため、母と弟におにぎりを握り、私はカップ焼きそばを食べた。いつ食べれるかわからないし、なんだかんだで腹が減っている。母や弟には「よく父が死んだ後に食べれるね」と言われたが、むしろ今食べておかないと。夜は弟の希望で父の好きな鶏のタタキを備えたいと言われた。このご時世持ち帰りは制限。同級生の店に頼み込み、お供えした。夜は眠れないと言いつつも寝ている母と弟のいびきの合唱

    • 父の死

      10月28日5:48 父が死んだ。 電話を受けてすぐ病院に駆けつけたが間に合わなかった。涙は出なかった。人工呼吸器とモニターの電源を切らせてもらい、死後の処置を手伝わせてもらった。最期の親孝行。生きているうちに、いや事故の前にもっと親孝行をしておけばよかった。父の望むように小遣いはあげていたが、お金ではなく、旅行やかまって欲しかったと思う。しかし、人の話をよく聞くかない父はどうしたいのかおそらく言わなかったと思う。死の直前に渡した小遣いでどこに何しに行ってたのかどんな気持

      • 父危篤

        10月に入り、父の容態がよくない。弟から泣きながらどうしたらいいか連絡があった。救命処置はしないと決めていたが、いざとなるともう9ヶ月もあっていない私をそのままにしていいものか迷いが生じたらしい。 薬剤投与だけすることにし、すぐに実家へ向かった。運転する4時間。。。未だに父の事故の連絡を受けた緑川PA付近では動悸がする。PAには罪はないがこのPAでは降りないと決めている。 3日ほど休みをもらい、悪いなりに安定はしていたため一度帰福。この時も父には結局、県外の看護師というこ

        • 気がつけば。。。

          そう、あれからどれくらい経っただろうか。 コロナが流行り、県外の行き来ができなくなり。。。ようやく、9月に帰省したものの、父へ面会できず、5月に死んだ祖母へようやく線香をあげることができた。 実家は弟がいるとはいえ、汚い障子にフスマ。時が止まっていた。母は父の物を捨て始め、父の部屋にあった父のものはほぼなかった。葬儀の時に着せるような物は取っていたが、本当に何もかもなかった。 もう自宅に帰ることはできない父の準備をしているのか、そうやっていつか来る父の死を待ち受けている

        父の葬式にて

          コロナの自粛で

          コロナが流行り、県外移動は制限。父は未だ人工呼吸器つけて入院中とはいえ、安定していることから実家に帰ることは不要不急になる。家族自体、宮崎でコロナが流行ったのは福岡の人が宮崎に帰省したから流行り出したと思われている節があり、帰ってきて欲しくないらしい。2月に帰ったのが最後。時々実家へ電話はしている。母は電話口で父の洗濯物のタオルに抜け毛が多くてそれをきれいにすると涙が出てくるとのこと。あまりストレスをかけたくないので、タオルを大量に送り、髪の毛がなかなか取れないのは捨てなさい

          コロナの自粛で

          コロナの影響

          もうすぐ父が事故に遭い3ヶ月が経つ。 コロナが流行り面会謝絶になり、最後に父に会ったのは1カ月以上前。電話では様子を確認。胃瘻を作り、未だ人工呼吸器は外れず。母に電話をしたところ、生活費が足りないから父の年金の一部を使って良いかとの確認。父は病院に入院しているが実際は75歳ということで、介護病棟に入ることになり、事故の入院ではあるが医療費がかからないというわけではない。つまり、それなりに支払いはある。オムツや食費など実費もいる。半年は事故の保険で支払いは無いようだが、半年後

          コロナの影響

          抑制と倫理の狭間に

          父は手を抑制をしている。というより、抑制をお願いしている。無意識に気管内チューブを自己抜管しかねないからだ。モニターも付いていないのに、呼吸器のアラームに気づいた時は死んでいることがありうるからだ。母や親戚に「あんたはよく平気な顔してお父さんの手を縛るね」と言われる。父にも口パクで「なんで手を縛ると。きつい。」と言われる。私も好きでやってるわけではない。今どき抑制なんて倫理的に問題がある。ましてや意識があるのだから。。。誰かずっと見守るのなら良い。面会時間は10分なのだから、

          抑制と倫理の狭間に

          医療格差

          2週間ぶりに会った父。気切が痛々しい。生きるために仕方ない。リハビリのために仕方ない。急な転院となり、転院した病院は選択肢がなく、そこしかないとのこと。受け入れてもらえるだけありがたいと思うしかない。呼吸器専門の病院。人工呼吸器が外れなければ何も始まらない。脊損のリハビリはないが仕方ない。大学病院の救命センターではモニターが常に監視していたが、ここではモニターは付けられない。あるのは人工呼吸器のアラームのみ。転院する時に予期せぬ死亡もありうると説明されたとのこと。つまり、痰が

          医療格差

          漠然とした恐怖

          2月1日。 先週は、色々雑務があり、帰れず。月2回ぐらいにしようとは思っていたたため、ちょうど良いと感じていた。しかし、水曜に転院の話があったと言われてもう木曜に転院。呼吸器のついた父を受け入れてもらえるところは一カ所しかなく、そこへ。脊損のリハビリを夢見ていたが、現実は甘くない。呼吸器が付いた患者を受け入れる病院に行くしかない現実。考えようによっては呼吸器外れることを目標にして、外れたらまた転院になるわけだ。明日、当直のため、日帰りで。バスに揺られている時間の方が長いが、

          漠然とした恐怖

          父、16日目

          1月19日。父が運ばれて16日目。 人工呼吸器が外れると淡い期待をしていたが、叶わず。気管切開決定である。 ともあれ、気管切開する事で少しリハビリもADLも上がるのだ。もう父の声を聞くことは永久にないかもしれないと思うと父の声が思い出される。なにより少し意識が戻ってきている。贅沢だが、手もおろか足に関しては全く動かない、家に帰ることができない真実を知ることになるため私と弟は少しぼんやりぐらいの意識の方が良いと思ってしまった。。。神様ごめんなさい。

          父、16日目

          希望の光

          1月18日。父の病院へ。声かけにうなづくもどこまでわかっているのかは不明。相変わらず人工呼吸器に繋がれている。自発呼吸はあるのだが。。。腹筋がないのと頸椎の影響か咳嗽反射がない。しかし、呼吸訓練中で明日抜管トライするとのこと。再挿管の可能性は大。その時は来週早々に気切予定。 今日は土曜日というのに大学病院の救命センターの急性期のためリハビリが行われる。母と父の姉が帰ろうと言うが、私自身どこまで父が回復しているのか見たくて、リハビリが終わるまで見守ることに。リハビリの先生の指

          希望の光

          一週間を終えて

          宮崎から福岡に戻り一週間が終わった。所属の部署のみんなのおかげで、当直も夜勤もなく、毎日日勤で帰らせてもらった。働くことで普通にお腹が空き、無理して何かを食べるというより、食べたいものを少しずつ食べるようになった。眠りは浅く、起きるたびに夢だったらいいのにと思う日々ではあるがそれでも気がついたらいつのまにか寝ていた。スタッフには感謝しかない。 親戚から看護師なら宮崎でも出来るだろう、親を捨てるんかとか言われてはいるが、今の仕事を辞めたくはない。地位やキャリアなんて元々不要と

          一週間を終えて

          後ろ髪ひかれる思い

          1月13日、父は未だ人工呼吸器に繋がれている。肺炎は少し落ち着いてきたのか、熱は下がり始めた。抜管していると家族も安心なのだが、今のところ見通しがつかない。おそらく今週。。。もしかしたら気管切開かもしれない。いずれにしろ、声かけの反応もスムーズにはなってきている。気になる母の生活や保険会社とのやりとり、家族の誰も知らなかったが父が身寄りのない父の兄を世話していたらしく、そのお金の問題など解決。母も弟も少しずつ人間らしい生活は取り戻してきている。幸い?母の車が壊れて部品が届くの

          後ろ髪ひかれる思い

          知らなかった父の一面

          1月12日。父の姉も一緒に病院に連れて行く。今日も疲れていることを心配する弟が乗せて行ってくれた。行きも帰りも父の話。父は人の面倒を見るのが好きだったらしいが、家族にはそんな一面を全く見せず、友達がいたのかも謎。そんなところは私も似ているのかもしれない。私は家族には自分のことは話さず、本当に看護師をしているのか患者さんに優しくしているのか仕事はどうかと聞かれても深い話はしてこなかった。国際関係の友達が訪ねてきてあちこち喜んで連れて行く、忘年会で出し物するなど人前で何かするのが

          知らなかった父の一面

          兄弟の会話

          1月11日。弟の車で病院へ。片道1時間近くの道のり。高校時代の話になり、私は県立の進学校に進み、勉強嫌いの弟は私立の高校へ。学費が全く違い、少ないお小遣いを工面して参考書や本を買っていた私と違い、弟は一切そんなものは買ったことがなかったと母。同じ兄弟でも全く性格も考え方も違う。田舎の学校、そして弟と私は顔が似ていたため、弟はよく私の弟であることでからかわれていたらしい。未だに、私の同級生や後輩から、弟の方だよねと声をかけられるとのこと。こんなたわいもない会話も、この長い道のり

          兄弟の会話

          受容の難しさ

          1月10日。朝から保険請求のための父の戸籍の書類のため、近所の支所へ。ウロウロすることが予測されるため母は自宅へ置いて行った。戸籍が変わっており、その場所へ促される。宮崎市から高鍋町へ。高鍋町役場で無情にもさらにその前があるから宮崎市へ。結局、戸籍集めに3時間。小腹が空き自宅に一度帰り、父の兄のお金の問題のために役場などはいかないとと思うとその父の兄のお金のことを言ってきた親戚の娘から電話あり。話し合いが済んでいることだが、なにぶん親戚も80越えていること、父の容態があまり良

          受容の難しさ