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受容の難しさ

1月10日。朝から保険請求のための父の戸籍の書類のため、近所の支所へ。ウロウロすることが予測されるため母は自宅へ置いて行った。戸籍が変わっており、その場所へ促される。宮崎市から高鍋町へ。高鍋町役場で無情にもさらにその前があるから宮崎市へ。結局、戸籍集めに3時間。小腹が空き自宅に一度帰り、父の兄のお金の問題のために役場などはいかないとと思うとその父の兄のお金のことを言ってきた親戚の娘から電話あり。話し合いが済んでいることだが、なにぶん親戚も80越えていること、父の容態があまり良くないことの動揺もありそうである。残された者でお金のことでは揉めたくない。父が生きるか死ぬかというときにこんなやりとり誰もしたくないが、母を安心させるためにやりとりをした。一人車の中でやりとりしながら、自然と涙が止まらなかった。しかし泣いている暇はない。銀行に行き、母の生活費の確保、そして病院でやることがあった。

早めに病院へ。平日しか相談室が開いてないため、ある程度の話をしたかった。父の今後のこと、お金のこと。家に帰り、母の生活費は父の年金も場合によっては使わないといけないことを説明するが、父のお金だから使いたくないとのこと。綺麗事は言ってられない。父ももう自分で通帳見てお金下ろして自分で買いたいものを買う機会は当面はない。果たしてそれがわかるかも今のところはなんとも。何度も何度も母は説明した。

父の今後のことは今何もできないがゆくゆくの施設の話はした。父の事故の日の朝、父と喧嘩をしたものだから責任を感じ家でみたいと言い張るが、家でみるには母が吸引や食注することになるのだという覚悟、とてもできそうにないがそれでもみるのかと問いた。私は全くその選択肢はなかったが、支援センターの担当看護師の人に母の意思も大事ではないかと言われたからだ。最終判断は遠くにいる私ではなく、母。結局、母は施設を選んだ。が、またお金の不安が始まる。。。施設選びについても、その時の書類なども、できない、私に一任するの一点張りで、泣き喚き聞こうとしない。母へ「泣くのは後からでいいからとにかく話を聞きなさい」と気がつけば大声を出してしまった。どこまでわかったのかはわからない。そのあと風呂に浸かろうとすると鼻血が浴槽に流れ落ちた。私も疲れてる。。。弟が明日は少し休んでと言って来たが、母が落ち着かないのと親戚がどうしても行きたいというので明日も行くことにした。

父はまだ呼吸器に繋がれているが、先生や看護師さんの声かけにはうなづくが私が声をかけると顔をしかめ、あっちに行けというばかりに首を振る。。。早く帰れと言っているのかもしれない。肺炎になりかけているのか熱が高い。

母よ、私も辛いのだ。泣きたいのだ。不安なのだ。

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