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現実の中の私:過去・現在・未来、そして内と外、その中心点

チャットAIが当たり前のようにして嘘をつく、ハルシネーションという一種の思い込みともいえる現象を起こすという話を少し前に書きました(参照記事1)。この事はチャットAIの弱点であるとか技術的な未熟さのように捉えられているように感じます。

しかし、この現象こそが、人間に近づいてきた証ではないかと私は考えています。人間も常に思い込みをしながら生きているのだというのが、その記事で書いた私の考えです。

思い込みのようなもの(ハルシネーション)が頭の中で生まれ、それが、さまざまな刺激によって否定される。たとえば、目や耳など外の現実からの刺激、体の内側からの身体としての刺激、そして脳が蓄積した記憶という過去からの刺激です。これらの刺激と一致しないような、あるいは矛盾するようなハルシネーションは否決されて、すぐに消えてしまいます。しかし否決する刺激がなければ、ハルシネーションはそのまま私たちの頭の中に、もう一つの現実として浮かび続けています。そして現実や身体や記憶からの刺激によらずに生み出されたハルシネーションは、記憶に定着しづらく、時間が少し経つとすぐに忘れてしまうという性質もあります。

このように私が考えている根拠は2つでした。

1つは人が眠っている時に夢を見ることです。目や耳、身体からの感覚神経から遮断され、脳の長期記憶を司っている部分が休息している睡眠中は、ハルシネーションが起きても、それを否定する刺激がどこからも得られません。夢の中で、それを現実に起きているかのように思い込んで、小学生の頃に戻ったり空を飛んだり恐竜に襲われたりします。私たちは、それを大真面目に捉えて、驚いたり慌てたり焦ったりします。そして目が覚めると、すぐに忘れていってしまいます。

もう1つの根拠は、日常動作です。私たちは部屋の中を歩いたり、頭をシャンプーで洗ったり、出かけるときに玄関に鍵をかけたりするとき、今までの経験から、かなり現実に近いハルシネーションを想起することができます。いちいち床に穴が開いていないかをじっくりチェックしなくても心配せずに歩けるのは、夢の中で自分が小学生であることに疑いを持たないことと似ています。ハルシネーションが否定される刺激がなければ、私たちはそこに床があることを確信して歩けるのです。シャンプーや玄関の鍵も同じで、特に普段と何も変わらなければハルシネーションの中で頭を洗ったり鍵をかけたりすることができます。そこに違和感や問題がなければ、その行動は記憶に定着することなくハルシネーションと共に消えていきます。髪の毛はシャンプーの香りや触った感覚で確認できるかもしれません。でも玄関のカギは確認が難しいですね。記憶に残っていないから、しばらくして心配になる。そういうメカニズムだと思っています。

私は、ここからもう少し考えを進めました。ハルシネーションの性質は、今見たように、思い込みのようなものでいながら、刺激によって否定されない限り私たちの頭の中で現実のように浮かび上がっています。もっとはっきりとした表現をすれば、私たちが感じている現実は、その時に頭の中に浮かんでいるハルシネーションである、と言えるのではないでしょうか。

外の世界・身体・過去の記憶から遮断されたハルシネーションが、夢の中にいる私たちの感じている現実です。目が覚めている時は、外の世界・身体・過去の記憶からの刺激によって形を整えられたハルシネーションが現実です。スポーツや趣味に没頭している時間はその他のネガティブなことを忘れてその世界のことだけに集中できるのも、ホラー映画を見た夜はトイレまでの廊下の暗がりに恐怖を感じるのも、すべてその時その時の私たちをハルシネーションが包み込んでいる、という事になります。

そして、この現実こそが、私が私であると感じさせているものの正体なのではないか、と思えるのです。外の世界・身体・過去の記憶、そしてハルシネーション。これらが作用しあって頭の中に浮かんでいる現実が、今私がここに存在していると、私自身に確信させているのです。

デカルトの言葉を少し真似して「我、現実の中にいる、ゆえに我あり」とでも表現すればよいでしょうか。

私達が感じる現実を、外の世界・身体・過去の記憶、そしてハルシネーションが私たちの頭の中で相互作用して想起されているものだ、と表現しました。これを抽象的に言い換えると「内と外の現在、そして、過去と未来」ということになりそうです。つまりハルシネーションは、単に不定形な幻という面ではなく、未来を予測するための能力と考えるのが適切です。未来を想起するための能力があるからこそ、私たちは過去・現在・未来、そして内と外という、今ここにある時間と空間が織りなしている場を「現実」を確信することができます。そして、その時間と空間の中心点に、まぎれもなく「私」として存在していると確信することができているのです。

そして、参照記事2や参照記事3で書いてきたこととも、つながってきます。今浮かび上がっている現実はすぐに消えてしまうため、脳の中で連続的に想起されていることになります。これは脳が「動的な存在」として知識を扱っているのではないかという参照記事2で考察したことにつながります。そして、なぜ、脳は長期記憶を持っているにもかかわらず、なぜそのようにすぐに消えてしまうようなメカニズムで現実を扱っているのかについては、参照記事3に記載した「死停止性」という考え方に関連していそうです。思考を停止すると忘れてしまう仕組みが、一見不合理に見えるものの、深く考えていくと、むしろ発想や新しいものを生み出すための理にかなった仕組みなのではないか、と考えられそうです。それは単に創作や想像のためだけでなく、生き延びるために必要な能力として獲得してきたものと思われます。

現実とは何か、人間の意識とは何か。そして、そうだとすればAIはどうなるのか。

ここに書いたことは、今朝、寝室でまどろんでいる時に、私の頭の中に浮かび上がってきたものです。ちょっと(いえ、かなりかもしれませんが)、哲学的な話になってしまいましたね。単なる私の思い込みなのか、それとも、核心を包み込んでいるのでしょうか。

参照記事一覧

参照記事1

参照記事2

参照記事3


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