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競馬で5800円負けたから、反省文書く

こんにちは、今回は機会損失というものについて考えていきたいと思います。
ワードだけ見ると、我ながら自己啓発っぽいなと思うところはあるんですが、人生を生きるうえで、私自身が整理したいと思いましたので、整理してみることにしました。

「機会損失(きかいそんしつ)」とは、「適切な意思決定をしなかったことで生じる損失」という意味の言葉です。最善の選択や万全の行動をしていれば得られたはずの利益が、別の選択をすることなどで目減りしてしまい、結果的に損失が生じることを指します。簡単な言葉で言えば、「儲けそこない」「稼ぎそこない」などになります。ビジネスシーンでは、重要な概念としてよく使われる用語です。

「機会損失」の意味とは?使い方や例文、事例、類語 - 社会人の教科書 (business-textbooks.com)

「機会損失」でグーグル検索してみた結果、上記のような記述を見つけました。
要するに、儲ける機会を失ったという意味の言葉ということなんですが、ちょっと自分の言葉には落とし込めているような気がしません。
自分なりに、整理をしてみます。

機会は有限である

そもそもの前提として、機会は有限であるということを知る必要があると思いました。
機会というものが無限に得られるならば、全ての機会を得られるわけなんですが、実際そうもいかないわけなので、機会損失というものが生じてしまうわけです。

お金に限りがある

買い物などをする際に、欲しいもの全てを手に入れられることは理想的な状態と言えます。しかし、そこには所得という壁があります。
これは貧困層に限らず、富裕層にも言えることであり、富裕層と言えど、突き詰めれば使えるお金には上限が存在しています。

勿論、常識的な範囲で考えれば大抵のものは手に入るのでしょうが、例えば国を買うとか、大陸を買うとか、ダイナミックな欲望がある場合、いくらお金があっても足りません。

貧困層や庶民ならなおさら、更に使えるお金には限りが生まれ、買い物によってすべての機会を得るという状態は現実的とは言えないでしょう。

時間に限りがある

当然ながら、時間も有限です。
人生百年時代と言えど、所詮は百年です。
例えば私が、これから百年後に生まれ得るコンテンツを享受する機会を得ることはまずかないません。

もっと短い時間軸で考えても、百年という枠内において、限りある時間の中で取捨選択して行動を行わねばなりません。
全ての機会を得るためには、百年あっても足りないということなのです。

積極的な機会損失と消極的な機会損失

人間が得られる機会には限りがあるという前提で考えた時に、さらに二つの要素が出てきます。
表題通り、積極的な機会損失消極的な機会損失です。

積極的な機会損失の事例

積極的な機会損失とは、積極的に一つの機会を得ようとした結果、機会を失うことを指し示します。

例えば、手元に十万円があるとします。
その十万円を競馬に使って、より豊かな生活という機会を得ようとします。

しかしその競馬は失敗に終わりました。
この場合、単に豊かな生活という機会を得られないだけに留まらず、その十万円で成り立つはずであった基礎的な生活を失います。
生活の基盤が崩壊したとあっては、その他のあらゆる機会にアプローチすることは難しくなります。
これが、積極的な機会損失です。

豊かな生活を得ようと積極的であるという意味において、このケースは機会獲得に対して意欲的であると言えますが、基礎的な生活を崩してしまうレベルのギャンブルとは、また別の機会損失を生じる危険性を帯びているのです。

消極的な機会損失の事例

消極的な機会損失とは、機会獲得に意欲的ではないことによって、機会を逃してしまうケースを指します。

例えば、手元に十万円があるとします。
その十万円を競馬に使うという手もありますが、あくまでも基礎的な生活を重視して競馬に手を染めようとはしません。

しかしその競馬のレース、結果的に予想が的中していました。賭けてさえいれば、豊かな生活を得られたのです。
この場合、基礎的な生活を守ることはできますが、豊かな生活という機会は逃したことになります。
これが、消極的な機会損失です。

結果論ではある

ただ、結果的に競馬の予想が当たっていれば、積極的な選択が功を奏する場合もあるし、結果的に競馬の予想が外れていれば、仮に馬券を購入しなくても、機会損失などはそこには生じていないと言えます。
そういう意味では結果論に過ぎないのですが、いつも自分に都合よく結果が出てくれるとは限りません。

積極的な選択をした時ほど、競馬の予想は外れているものですし、消極的な選択をした時ほど、競馬の予想は当たっていたりするものです。
そういう意味において、積極と消極、両方の場合において機会損失は生じ得るのだという認識は持っておく必要があるように思います。

なんのために機会を獲得するのか?

これまでの例だけ見ると、機会獲得の機会が競馬においてのみ生じるように見えますが、そんなことはありません。
あくまでもこれまでの例は、競馬という限りなく狭い機会獲得に限定した話に他なりません。

そこで重要なのが、その機会獲得は何のためなのかということになります。

お金を獲得するため

娯楽としての競馬という考え方もありますが、生活を豊かにしたいからと競馬をするケースにおいては、その一番の目的なお金です。
お金を得るために、馬券を買うのです。

そういう考え方で見た時に、お金稼ぎに競馬は向かないだとか、もっと向いた投資や商売があるという考え方もでき、競馬という選択をしてしまうこと自体が、もしかしたら機会損失を生じさせているのかもしれません。

創作の肥やしとするため

これは人を選ぶと思いますが、私にはこの選択肢が存在しています。
そもそもこの記事自体が、競馬での失敗経験を生かすための創作なのです。
実はわたくし、先日競馬で負けていまして、色々と悶々していたのです。

結果的に失った金額は数千円程度であり、先の例のように基礎的な生活を揺るがすほどのものではないですが、精神的にはとてもショックだったのです。

しかしその負の感情が、この記事の執筆を行う衝動を生み出しているのです。
仮に競馬に負けていなければ、この記事を書こうとはしなかったでしょう。
それはつまり、競馬で負けていた方が、より良い創作を行うことに近付くということを示唆しています。

私は自作の恋愛小説も書いていますが、例えば失恋と競馬での敗北は似たところがあると思っています。
臨場感のある失恋の描写を描くために、あえて競馬に負けた時に筆を取るということもありました。
この場合においても、競馬での敗北自体が創作という目的の遂行に寄与するのです。
アイデアや臨場感はなかなかお金では買えないのです。

ただし、アイデア出しという意味においては必ずしもその手段が競馬である必要がありませんし、別のより良い手段も存在しています。
競馬が創作に寄与する最大の場面は、失恋シーンに臨場感や奥行きを出したい時であるように思います。

自己同一性の確立のため

自己同一性、有り体に言えばアイデンティティのことです。
この記事の執筆は創作という目的の遂行のみならず、自己同一性の確立という意味においても深く寄与しています。

今後私が人生を生きる上において、機会損失というものについて考えを深める機会はとても得難いものなのです。
競馬での敗北がこの記事の執筆を後押ししていると考えれば、競馬での敗北は私の自己同一性の確立に大きく役立っているとも言えるのです。

人生の目的が大事

私の場合、確かにお金目的で競馬を行うことがあるわけなんですが、単にそれだけということはありません。
先述の通り、創作自己同一性の確立の目的も含まれています。

勿論、そんなものは競馬に負けたがゆえの後付けなんですが、私がこの記事の執筆を行う原動力が競馬の敗北にあったのだとすれば、私の人生の目的において、必ずしも失敗であったとも言えません。

積極性は機会損失を生むのか?

何より、競馬に負けるだけの積極性とは、他の局面においては有効に作用する場合も存在します。

それはツイッターにおける積極的な言論活動、またはその機会の実現に寄与する場合もありますし、私が自作小説を描き上げることができたのも、この積極性があってこそです。

一つの面から見れば、競馬で負ける積極性とは害をなすものですが、広い目で見れば、必ずしも私の人生にも良い影響をもたらしているのではないかと思います。

言論活動や創作活動ができないほどの経済状況になっていない範囲でならば、競馬での程々の浪費もやむ無しと言えるのではないでしょうか。
私はこれまでにも数十万円競馬で負けていますが、幸い、借金にまでは至っていません。

あなたにはあなたの人生の目的があると思いますが、その人生の目的を考えた時に必要となるのは、積極性でしょうか。それとも消極性でしょうか?

個人的反省にお付き合い頂きまして、ありがとうございました

なんて大層なことを書きましたが、この記事の本質は競馬に負けた私の反省文に過ぎません。

反省文の提出を私自身が求めて、私がその執筆を行ったという点に尽きます。これは正しく、私自身の反省文に過ぎないのです。
本来、それ以上でもそれ以下でもありません。

このただの公開反省文の内容を生かすのかどうかについては、あなたの判断にお任せしたいと思います。
それでは、私の反省に付き合って頂きまして、誠にありがとうございました!



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