ああ、いろいろ落ち着いたら私、江古田に行かなくちゃ。

江古田は、東京の練馬区、池袋から西へ3駅ほど行ったところにある。

私は、学生時代をこの町で過ごした。

学生といっても、大学のたった4年間の話。
それまでは時々場所を変えながらも、人生のほとんどの時間を東北の田舎町で過ごした。

江古田に住んでいたのは、そこに学校があったから。
それだけの理由だったけれど、私の通っていた大学は関東圏の実家から通学する人がほとんどを占めていたので、一人暮らし、さらに女性で、と言うのは極めて稀な存在だった。

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当時から、江古田という町の雰囲気は大好きだったし、大学が3つも集まる駅だったから学生向けの安価で雑多な居酒屋や、オシャレなカフェが多かった。

かと思えば、自分次第でどこまでもディープな世界に踏み入っていけるかなりレトロな喫茶店や歴史を感じる食堂、若者には簡単に入れなさそうなクセが強めのお店も点在していた。

頭のなかに「楽しい」しか存在していないような学生がノリで入っちゃった大人なお店で、偶然居合わせた大人の常連さんに、決して押しつけがましくなく、大人のたしなみ方や振る舞いを教えてもらうこともあった。

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昨日、ひょんなことから江古田の思い出がよみがえり、懐かしくなって調べてみると、ずいぶんと思い出深い場所が閉店していたことを知った。

私が学生だった頃から、もうだいぶ高齢に思える人たちがやっていたお店もあるので、時の流れを考えれば当然は当然と言えるのかもしれないけれど、せっかくだから今はなき思い出のお店をちょっと書いてみることにした。

同世代の江古田を知る人たちが「ぅああ~!!」って懐かしんだり、楽しんだりしてくれたらいいな。

お志ど里(おしどり)

細い道がいくつもある駅周辺の、T字路の突き当たりに見えるデカデカと書かれた「お志ど里」の看板。
江古田に住んでいれば、たとえ入ったことはなくとも必ず視界にはいってくるであろう圧倒的な存在感があった。

ここが閉店するなんて考えたこともなかった。心底驚いた。
そして「ああ江古田は変わっているんだな」と激しく実感させられた。

あくまで個人の感想だけど、特別に美味しいというわけではなかった。

でも、都内では珍しい広さと座敷の多さ、2階もあったし、メニューが豊富で、何よりかなり安かった。

食堂兼居酒屋的なポジションにあるお店だったので、お昼を少し過ぎたころに行くと、イマドキのオシャレを楽しみながら賑やかにゴハンを食べる大学生と、昨日今日では醸し出せない雰囲気で年季の入った飲み方をしているおっちゃんたちが混在するという、なんとも不思議な光景が見られた。

友人同士だけでなく、サークルで使ったこともあるし、ゼミの教授と飲みに行ったこともある。

私はよく「もつ煮定食」を頼んだけれど、何度も言うが特別美味しいわけではない。笑
ただ、安くて(当時500円ほど)とにかく出てくるのがめちゃくちゃ早かった。めちゃくちゃ。

大好きだったゼミの教授に「フグでも食うか!」といわれて連れていかれたのがお志ど里だった時は「ウソだろ…?ここで?」と思ったけど、それまで気にしたことがなかっただけで、壁に貼られたメニューのなかにはフグ鍋とかフグの唐揚げとか色々あって、しかもそれが結構美味しかったのは今も謎である。

東日本大震災が起こったあの日も、私はお志ど里に行った。

その日、たまたま友人と大学にいた私は、グラウンドにいったん避難した後、電車も止まって帰れなくなった友人たちとしばらく一緒にいた。
東京ですら街灯が大きく揺れ、周知の通り交通網は麻痺し、情報は交錯した。
実家の両親にも電話はつながらなかったし、初めて体験する大きな地震に、みんな不安の色を隠せずにいた。

それでも腹は減る。

というわけで、夕方あたりに「とりあえず、この先どうなるかわからないからお腹だけでも満たしておこうよ」と友人を誘っていったのがお志ど里だった。
ほとんどのお店が臨時休業になるなか、停電していたけれどガスは使えたのか、ここは相変わらずやっていた。

友人には「実家にも連絡がつかないのに、よく食えるな」と言われ、案外私は図太くたくましいもんだなと感心したのを覚えている。(ズレてる)

そして、あの巨大地震の直後でも、停電していようとも営業していたお志ど里もまた、かなりたくましい。

お志ど里がやっていてよかった。家族はみんな、無事だった。

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甲子(きのえね)

昔から「蕎麦屋」の雰囲気が好きだった。
それがどういうものかと言われるとうまく言えないのだけど、うどん屋でも天ぷら屋でもなく、蕎麦屋の雰囲気。なんだろね。

そもそも今回、江古田のことを思い出したのは、甲子がきっかけだった。

江古田銀座の通り(だよね?)にあった、立派な蔵のお蕎麦屋さん。
入り口には腰まであるんじゃないかってくらい大きくて褪せた藍色の暖簾が下がっていて、その暖簾いっぱいに「甲子」と書いてあった。

中は見えないし、何屋さんかもよくわからない。
学生には敷居が高そうな雰囲気がムンムンに漂っていて、お店の前を通る度、中をのぞいてみたくて「誰か出てこい!扉を開けて!」と念じていた。

4年間も江古田にいたのに、結局デビューしたのは3年生が終わるころだった。
意識したわけではないけど、たぶん、成人したことが、なにかきっかけになっていたような気がする。

立派な暖簾をくぐり、勇気を出して中に入ると、全体的にちょっと暗くて、でもわずかな明かりで木製の机がツヤツヤ光るほど、古いけど隅々まで手入れされている仕事の丁寧さと清潔感が一目でわかった。

まだ席にもついていないのに「あ、居心地がいいお店だ」ってわかるくらい、働く人たちとお客さんに長年愛されてきたお店の息遣いみたいなものが感じられた。

私には、憧れのお店にはできるかぎり1人で行くという謎のルールがある。
とは言うもののめちゃくちゃ緊張していた私に、奥から出てきた店主と思しきおじさまがにこやかに注文をとってくれた。

そして、どうしてもやってみたかった「蕎麦屋で日本酒」を達成すべくお酒も頼んだら、店主は少し驚いたように目を丸くしてこっちを見て、またニコッと笑って「はい、お酒ね。」と応えてくれた。

今思えば、派手な服を着た20歳の金髪ロン毛女が蔵造りの粋な蕎麦屋で日本酒を頼むなんて、なかなかパンチの効いてる光景だと思うけど、店主が笑って受け入れてくれたから「ああ、私でもこのお店にいていいんだ」って、だいぶホッとしたのを覚えている。

それからは、一人暮らしの学生にはすこし高かったけど、頑張って時々行っていた。
たった1回をのぞいては、いつも1人で行っていた。

お蕎麦も天ぷらも、なぜか蕎麦屋になると板わさと呼ばれ、それだけでランクアップ感のあるかまぼこでさえ美味しかったな。

頻繁にはいけなかったけど、閉店したと聞いたら想像以上にショックが大きくて「そこまで好きだったのか」とちょっと驚いた。
私に蕎麦屋の楽しみを教えてくれたお店でした。ありがとう。

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やぐら

これは、閉店したことは知っていたんだけど、でも、今も江古田と言えば忘れられない伝説の名店。
江古田の老舗として、メディアにもたびたび登場している江古田コンパの隣?にあった、24時間営業のおにぎり屋さん。

道路に面したショーケースにはいろんな具のおにぎりの札が値段と共に並んでいて、ショーケースの隣にある、タバコ屋みたいな小さな窓から注文してお支払いという、本当に小さな小さなお店だった。

まずなにが凄いって、このお店、おじいちゃんとおばあちゃんの2人が交代しながら24時間営業しているということ。
本当に小さい窓だったから顔も見たことないけれど、やり取りをする声でどちらがいるのかはわかるのだった。

窓には、孫が書いたと思われる画用紙のクレヨン画が貼られていたりして、小窓の向こう側にある、あたたかくしっかり積み重ねられてきた日々の営みを感じた。

知らない人には、それがお店とも気づかれないような雰囲気だったけど、そこのおにぎりは今でも世界で一番おいしいと思っている。

風邪をひいて動けなくなった時も、差し入れに来てくれる友人に「何が欲しい?」と聞かれれば、リクエストしたほど大好きだった。(いや、元気やんけ。)

天むすのように具が縦方向にミチっと入っていて、頭からひょこっと出ているので、まとめて買っても中身がわかる構造。
完ぺきな塩加減の大きめ三角に海苔がベロっと巻かれていて、普段おにぎりはパリパリ海苔派だけど、やぐらのおにぎりはしっとりの海苔が美味しかった。

具も、どれを食べても美味しかった。
たとえば、たらこと焼きたらこがあったんだけど、ちゃんとそれぞれ個性があって、似て非なるモノに作られていた。

おにぎりを買うと、いつもおつりにプラス5円されて返ってきた。
ぴったり払った時は、5円だけ渡された。
「ご縁がありますようにね」って、見えなかったけどきっと笑って渡してくれていた。

もうお店はなくなってしまったけれど、確かにあの頃、縁あって出会うことが出来た小さなおにぎり屋さん。

一人暮らしの田舎娘のささやかで大きな楽しみでした。
おじいちゃんおばあちゃん、ありがとう。大変お疲れさまでした。

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めんめん

これは、番外編になってしまうけど、新江古田の方にある今も営業を続けている(らしい)街の中華屋さん。

特徴的な麺や味ではあるけれど、私は、このお店が東京で1番好きなお店で、たった1杯だけラーメンを食べられるとしたら、間違いなくここのラーメンを選ぶ。
(種類はなんでもいい。選べない。)

ちょっと遠いところにあったし、一人暮らしの学生にはラーメン1杯も貴重な外食だったので頻繁にはいけなかったけど、それでも私なりにたくさん通った。

メニューは期間限定のものも含めて、当時あったものはサイドメニュー含め全制覇したはず。

バイト先の子に紹介してもらったのがきっかけだったんだけど、本当に感謝しかない。

夫婦で営む小さなお店で、10人も入ればいっぱいになるくらいの大きさ。
ご主人はいつも厨房で黙々と調理をして、奥様は配膳したり、本当に自然の笑顔でニコニコと接客をしてくれた。

昼は近所の常連さんで賑わっているのだけど、平日の夜なんかに行くと、結構すいていて、なにかのきっかけでちょこちょこ話をすることもあった。

当時付き合っていた山登りが大好きな恋人ともよく通っていて、彼もめんめんの大ファンになった。

店内には山や湿原のような美しい写真が点々と飾られていた。カウンターには大きなヒマラヤ岩塩も置いてあった。

それがなんとなく気になっていた私たちがある日尋ねてみると、夫婦で山登りやハイキングに行くのが趣味だということを知った。

それまで寡黙な印象のお父さんだったけど、山の話題になるとパッと穏やかな笑顔になりいろんな話をしてくれた。
高い山に咲く花のような笑顔だなあと思った。
なんか、すごく嬉しかった。

数ヵ月後、彼がどこかの山に出かけた先で、なんと、めんめんのご夫妻に偶然出会ったという。
しかも、彼のこともわかってくれたらしい。

江古田を離れてからも、東京に行くたびにできる限り行っていたけど、どうやら2年前、そのご主人は先立たれたようでした。
今は奥様がひとりで、昼営業のみで頑張っているようです。

心から、また食べたい。

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江古田。

遊びに行くにはあまり見どころはなく、でも、住むとたちまち見どころにあふれ出す不思議な街だった気がする。

今はなき数々の名店と共に、私の楽しくて不安定な生活もそこにあった。

変化していくことが世の常だから、なくなったことにいちいちセンチメンタルになることはないし、悲しみ嘆く必要もないと思う。

ただ、時々こうして何かをきっかけにふと思い出す店があり、光景があり、人があり、美化しながらも捨てずにいられない記憶があることは、ただただ愛おしく感じられて仕方がない。

いつでもどこにでも行けると疑わなかったことも、ある日突然変わってしまう世の中で、もし今度また東京に行く日が来たなら絶対に行こう、江古田に。

たまにはなんもかんも後回しにして、ぬるくて優しい過去の記憶にどっぷり浸かりたくなる時もあるのだ、私も。

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