画家Kの自伝 第八章
結婚
恋仲
前記で、K.ArtMarketの展開の経緯を抜粋したが、続いて、1998年の、現在の妻との結婚に触れてみたい。
僕らが知り合ったのが、1993年。
そして、結婚したのが、1998年十月十八日である。
その結婚の陰には、当時もう一人付き合っていた女性の存在がある。
その女性水谷さんは、当時出版社のライターとして名古屋のタウン誌の編集部に勤めていた。
出逢いは、水谷さんのK.ArtMarketへの取材だったと記憶している。
どちらからともなく恋心を抱くようになり、やがて深い恋仲へと落ちて行った。水谷さんは、実は、名古屋の美術予備校で、同じ油絵科コースの同窓生だったことが分かった。
また、当時全盛だった「ウルフルズ」が二人の恋のBGMだった。
彼女との深い恋仲は、ここで書くことは、相手のいることだし止めておこうと思う。
大先輩、西さんのアドバイス
こうして、いわゆる「二股」をかけていた僕だが、自分もそろそろ三十歳だし、身を固めたいと結婚願望が自然に湧いていた。
この二人の女性、ひとみか、水谷さんか、どちらを伴侶とするか、僕は迷っていた。
今は大家となったアーティスト西さんが、当時ドイツに住んでいて、人生の先輩として、どちらの女性に決めたらいいかアドバイスをしてもらいたいという思いが湧いた。
当時、僕はまだまだ社会性が未熟だったので、ドイツが現在何時かも考慮せず、以前西さんから教えてもらった電話番号にいきなり国際電話を書けた。
「ブルルルルー、ブルルルルー」
「HELLO!」
西さんの声だった。
自分は、現在の自分の恋の悩みを打ち明けかけた。
「K、いまこっちは真夜中だよー」
大変、困ったような西さんの返事だった。
「ごめんなさい、人生の先輩としてアドバイスしてほしいことがあっで、」
「どんな悩み?」
「西さんに聞きたいことは、精神的にもインスピレーションを与えてくれる東京の神崎さんと、深い恋仲の名古屋の水谷さんだったら、どちらがいいと思いますか?」
西さんは、少し考えて「これは国際電話で、料金もかかるのでFAXで返事するよ、ファックス番号を教えて」との返答。
僕は電話を切てFAXがくるのを待った。
「プルルー、ピー」
FAXが動き始めた。
そこには、西さん独特の文字で
「東京がいいと思うよ」
と書いてあった。
プロポーズ
こうして、西さんのアドバイスにも大きく影響されて、結婚相手を、川崎の神崎さんに決定した。
今思うと、プロポーズの言葉も記憶してなく、どちらから結婚を言い出したかは記憶していないのが正直な所だが、僕等は結婚の準備を始めた。
先ず、神崎さんのご両親へのご挨拶をしなくてはと、僕は自分の結婚の意志を、彼女のご両親に伝えてもらい、いざ川崎へと向かった。
慣れないスーツとネクタイを閉めての神崎さんのご両親との対面。厳格な神崎さんのお義父さんは、温かく僕を受け入れてくれた。お義母さん、お義兄さん夫婦とも対面し挨拶した。
まだ、精神の病の後遺症の不安発作を抱えての東京旅行であった。途中、不安発作がおきると、頓服薬を飲みながらの苦しい旅行でもあった。
また、自分の持病のことは、ひとみが、それとなくご両親に伝えてくれていた。
僕らは、「結納」などといった形式ばったことはしなかったが、神崎ご両親が、婚前挨拶として自分の両親に名古屋まで会いに来られた。
僕、ひとみ、神崎ご両親、自分の両親と相い交えての対面となった。
場所は、名古屋市内のホテルのレストランで行った。
ひとみは、障がいとまではいかないが、両中指、薬指が完全には伸ばせないハンディがあった。そのことを、お義父さんは、自分の両親に伝えた。
しかし、自分の両親は、病状も安定していたせいか、自分の持病のことは、面会で触れなかった。
手作りの結婚式
さて、二人は名古屋と川崎との遠距離恋愛を経て、結婚へとコマを進めた。
いよいよ結婚準備に取り掛かるのだが、何せお金のない二人、結婚式も式場結婚ではなく、レストランウェディングと決めた。
案内状も、当時普及し始めた、コンピューターで造り、必要な印刷物は、全てパソコンで刷った。インターネット環境も、現在のようなWi-Fiではないが、普及し始めていた。
挙式は、名古屋内の神社に決めたり、その手続きをしたり、ひとみは、お義母さんと松坂屋にウェディングドレスを探しに行ったり。
結婚式の司会は、僧侶出身のアーティスト川端氏に依頼し、披露宴は、自分が壁画を依頼された名古屋市新栄にあるイタリア料理店に決め、レストランシェフの佐藤さんも快く引き受けてくれた。
自分も、友人の紹介してくれたレンタル衣裳店にスーツを借りに行ったり、結婚式の準備は着々と進んだ。
挙式・披露宴
さて、結婚式もいよいよ間近となったのだが、十月ということもあって、大型の台風が襲来していた。式前日の夜は、台風真っ只中だったが、翌当日は、台風一過でよく晴れ渡り、正に嵐を呼ぶ結婚式となった。
先ず挙式は、名古屋那古野神社に、親戚、二人の両親、兄妹、友人を招待して、厳かに行われた。神前で、神主が二人を呼ぶと、自分は「夫、K」と応えたが、ひとみは「妻、ひとみ」というところを、「妻」という言葉を抜かし「ひとみ」とだけ返答したことを今でも失敗したと彼女は語っている。
披露宴会場のレストランは、神社からは少し離れていたが、移動は親戚の叔父さんがちょうどタクシー会社に勤められていて、小型バスを手配してくれた。
レストランに着くと、全員揃ったところで、ひとみの好きなロックバンド「THE BOOM」の名曲「東京サンバ」に合わせての二人の入場となった。
披露宴をするには、少し狭いレストランウェディングだったが、そこは少し皆さんに我慢してもらっての披露宴だった。
新郎のあいさつでは、まだまだ未熟な夫で、「妻、ひとみと、」というところを「妻、ひとみさんと、」と、さん付けで呼んでしまったことを、今でも恥ずかしく思う。
友人の挨拶で、後にひとみが勤務でお世話になる花屋の社長、福富君が「Kくんは、常にグラグラしているんですね!」との挨拶が今も印象的である。
福富君は、予備校時代からの仲で、自分が入院した時も、一番に心配してくれた友である。
僕の精神的不安定さを知っていた彼だから、彼は「グラグラ」と表現したのだろう。
こうして、手創り結婚式は、滞りなく行われ大成功した。
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