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【読書メモ】看取りのドゥーラ 最期の命を生きるための付き添い人

著:ヘンリー・フェルスコ=ワイス
監訳:林美枝子
2022.10 明石書店


概要

著者のヘンリー・フェルスコ=ワイス氏は、自身の米国ホスピスでの経験等を踏まえ、「看取りのドゥーラ(デス・ドゥーラとも呼ばれる)」プログラムを2003年から考案しました。国際看取りのドゥーラ協会(INELDA)創設者の一人でもあります。
本書は、そのプログラムや見取りにおけるプロセス、重要なことを、氏の看取りの実例等を交え、紹介するものです。

「ドゥーラ」というのは、ギリシア語で「他の女性を支援する経験豊かな女性」という意味で、現在では、一般的には、出産に際して、母親に対して出産や育児のサポートを行う人のことを指すようです。
「看取りのドゥーラ」というのは、そこから着想を得て、「看取り」について、死に逝く人・その家族の身の回りの世話などを行う存在のことです。

監訳は、日本医療大学総合福祉学部教授で、医療人類学者である、林美枝子氏が、フェルスコ=ワイス氏から直接の依頼を受けて行っています。
林氏は、日本型「看取りのドゥーラ」導入についての研究も行われています。

一見すると、「看取りのドゥーラ」というプログラムを日本で導入することは難しいと考える方も多いかもしれません。
しかし、「見取りのドゥーラ」に則るか/則らないか に関わらず、
本書は、「その人らしさ」を残しながら、亡くなる/看取りをする ための示唆にあふれています。

目次

※明石書店のサイトより
日本語版を手にとってくださった読者の皆様へ
序文
まえがき
第1章 異なる死への扉を開く者
第2章 看取りのドゥーラのアプローチとは
第3章 死にまつわる神話
第4章 人生の終わりに伝える真実
第5章 より深い内面への積極的傾聴
第6章 回想法と意味の探索
第7章 レガシープロジェクトに取り組む
第8章 最期の日々の過ごし方
第9章 誘導イメージ法
第10章 儀式
第11章 寝ずの番
第12章 再処理と悲嘆の癒し
あとがき
謝辞
振り返りのための質問
参考資料
監訳者解説
監訳者あとがき

抜粋

看取りのドゥーラという職業は新しいものではありますが、私はその役割を再発掘された宝物のようなものだと考えています。
(中略)
死の管理も専門家に委ねてきたことで、どれほど多くのものが失われてきたのかを私たちは理解し始めています。私たちは昔の人より健康で、長生きではありますが、死が身近な存在だった人々が共有してきた知恵を失っているのです。(P15)

私たちは死に関しては初心者かもしれませんが、ドゥーラは他の看取りや他の死の経験を持ち合わせているのです。彼らはこの特殊な道を歩むためのガイドと言えるでしょう。
ドゥーラは、死を迎える本人とその家族の両方をサポートし、死のかなり前から関わり始め、死後もしばらく関与します。ドゥーラが具体的にどのような仕事をするのかは、彼らの経験、死を迎える人の要求、そしてその家族の願いによって異なります。終末期ケアに携わる人々という母体の中でも、ドゥーラは独特な位置付けにあるのです。(P16)

死に際の寝ずの番を成し遂げる方法や、より深い内面への聞き取り技術、文化的・宗教的規範に対する認識の深め方について説明します。また、死に逝く人が人生を振り返り、レガシーを残せるようにするためにはどのようにしたらよいのかも紹介します。(P16)

「ドゥーラの仕事は、今ここで、死に逝く人とその家族にとって最も支えとなることは何なのかを見極め、直感することです。」(P17)

ドゥーラの仕事において最も重要なことは、他の人なら見逃してしまうような些細なことにも目を向け、焦点を当てる能力です。深い喪失感に囚われた家族は、死を迎える人がプライバシーを必要としていることを忘れてしまうかもしれません。ドゥーラはそうした必要性に目を向けます。
身体的なニーズに集中している医療従事者は、患者のスピリチュアルな苦悩を見逃してしまうかもしれません。ドゥーラはそれを見つけ出します。(P17)

ドゥーラは「環境を整える」ことで、死につつある人へのケアのあれこれが、死につつあること自体に圧倒されないようにするのです。(P17)

人は死に対する恐怖心が非常に強く、それを避けたいという機能も備わっているため、余命宣告を受けたものは、ほとんどその覚悟ができていないだけではなく、多くの場合、わずかな脆い希望にすがろうと現実逃避をしてしまいがちです。
もう少し時間があるという希望、回復するのではという希望、より良い出口が見つかることへの希望。
多くの医師は、こうした希望が意味を成す時期をとうに過ぎた後も、患者の意を酌んで死について語ろうとしません。彼らは、他の、より適切な希望の形へと話題を変える術を知らないからです。彼らは、病状を正直に評価することで起こる患者の感情の暴発を避けようとします。
明らかな病状の進行と機能低下を目の当たりにしても、患者や家族はそうした事実を避けようとします。(P19)

しかし、死を迎えることは、このように陰鬱で、悲痛なものである必要はありません。死に対する新たなアプローチが存在しているからです。
それは死を迎える人とその愛する人々が死への恐怖に立ち向かい、死を否定することを乗り越え、素直にありのままの死を迎えられるよう促します。
このアプローチは、死と直接的に向き合うことを妨げる否定と逃避という固い殻を破ろうとするだけではありません。
それはまた、自らの人生の意味を見出し、記憶を記録したもの、それをビデオや巻物にしたもの、特別な、その人生を物語るものを入れたきれいな保存のための箱等の制作を通して、その意味を促します。(P20)

最後に、愛する人が亡くなった後、家族がその死の体験を反芻することの重要性を理解し、寝ても覚めてもつきまとうイメージや考えを再処理するよう促します。
必然的に、このアプローチは、死を迎える患者とその家族に、死のプロセスを自らがコントロールできるようにしてくれるのです。(P21)

看取りのドゥーラのアプローチはが最大限に発揮されるためには、特別に訓練された個人が必要かもしれません。
しかし、誰もが看取りのドゥーラの原則と技術から学ぶことができ、死を迎える者として、あるいは家族の介護者として、自らが体験することを、より良いものに変えることができるのです。
本書の目的は、死に対するこのアプローチの基本的理念を誰もが学べるようにすることであり、物語られた事例を通してその心を伝えることです。(P24)

補記

対話カフェ主催の「デスカフェ」にて、監訳者の林美枝子氏にオンラインでお話をうかがうことがあった。
そこでは様々な、医療人類学を中心に、興味深いお話ばかりであったが、中でも印象深かったお話を記す。

「看取りのドゥーラ」を日本で普及させるうえでの障壁として、
「他人を家に入れたくない」、「他人が、人の死に立ち会うなんて考えられない」などが思い浮かぶと思う。
しかし、林氏いわく、
2000年の介護保険制度の創立時も、事前に厚労省は同様の、「介護者が療養者の家に上がることは難しく、介護保険制度は普及しないのではないか」ということを懸念していたが、
現状の状況を見るに、そのようなことは全くの杞憂であったとわかる。
実際に、デンマークやスウェーデンでは、「看取りのドゥーラ」という名称ではないが、個人の死に際し、近隣の人を「付添人」に指名できて、その期間は公務員扱いとして、ただ、その人のそばにいることだけができるという。
このようなことから、看取りのドゥーラについても、地域等で普及させていくことはできるのではないか ということであった。


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