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裸足で歩けば傷がつくと知ってても、私は生きていくよ。

この世界のあり方は嫌いだ。

でもこの世界を生きるみんなは好きだから、私は今日も生きづらくてたまらないこの世界を、生きていく。


1. 人はなぜ、私を嫌うのか。私はなぜ、人に嫌われるのか。

先日、「ねぇねぇ、私は実は、天使なんですよ」と、冗談めいたことを、結構、本気で言った。

そうしたら、「そうでしょうねぇ」と、肯定されて、本気で言ったくせに、驚いた。これまでも苦笑いするように相槌を打ってくれる人はいても、真向から肯定されることはなかった。

「天使とは、真面目で人を疑わず、自分も他人も大好きな人だと思います。本来のあなたはきっと、そうなんじゃないですか?」

あぁ、ならば私は本当に天使だったんだなぁ、とその定義を聞いて思った。そのあと、話題を変えてしまったから、続きを語ることはできなかったけれど、色々なことが腑に落ちた。

人はなぜ、私を嫌うのか。私はなぜ、人に嫌われるのか。

私はずっとわからなかった。みんな私のことが好きで、私もみんなを好きで。言葉にできたのはつい最近のことだけれど、私はそれが、当たり前だと、ずっと思っていた。


2. 雪の国で天使に育った

0歳から5歳まで過ごしたカナダのお家は、冬は雪で覆われて外に出られず、一年の大半を、両親と私と猫と犬と暮らしていた。

そこは、私を愛してくれる人と、私が愛する人しかいない空間。ひたすらに愛情に満たされて育った。理不尽に私を傷つけるのは、気まぐれな猫と犬くらいだった。だから私は、ちょっと浮世離れした生きものになった。先ほどの定義で言えば、愛に満ちていることがデフォルトの、天使になってしまった。

雪に覆われた国から帰国したら、予想していたよりも、私の人生はハードモードだった。環境が、国が、関わる人が、コロコロ変わる。周囲の価値観や正義も、コロコロ変わった。けれど、私は変わらず天使のままだったから、さまざまな物差しによって生み出された差別、偏見、妬みや恨み……そういった負の感情が、理解できなかった。

私はそれらには、何か「理由」があるはずだと思った。だって「みんな私のことが好きで、私もみんなを好き」なはずだから。何か理由があるんだと必死に考えて、苦しんだ。

どこまで考えても答えは出てこなかったので、それらをいったん、全部「自分のせい」だと思うことにした。他人を変えることはできないけれど、私が変われれば、好きになってくれるかなぁ、と思った。

そこから、選択肢があれば、苦しそうな方を選ぶようになった。人に嫌われてしまう私には、足りないもの、人として成長しなければならないところがあると思っていたから。私が傷ついたり、苦しむ環境に身を置けば、私のダメなところは改善されて、私を嫌う理由はなくなって、「みんな私のことが好きで、私もみんなが好き」な世界が作れると、馬鹿みたいに本気で信じていた。

結果、私はどんな人にも好かれるようになった。どんな人も好きになれるようになった。けれど、私はそんな私を、どんどん嫌いになっていった。

そして私は自分を壊した。壊れた、のではなく、きっと自分で壊したんだと思う。これ以上、自分を嫌いになる前に、私は私を、社会という残酷な世界から遠ざけた。


3. 寂しいけれど、違う世界を生きよう

心を壊してしばらくして、ちょうどnoteをはじめた頃から、私は、自分の想いを言葉に落とすことを通じて、自分がどれだけお花畑だったか、そして、いかに「ふつう」じゃないかを思い知った。私はいわゆる、「ふつう」になるために頑張っていたんだなぁ、と知れた。

愛されて当然・愛して当然と心の底では思っている天使のくせに、あらゆる憎み妬み嫉みを理解して、人間ぶろうとして苦しかった。「ふつう」じゃないくせに、その基準も知らないくせに、「ふつう」ぶろうとして辛かった。決して自分を高尚な生きものだと言いたいわけじゃない。ただ、ちょっとこの世の中をスイスイと魚のように滑らかに生きるには、あまりにもずれた生きものだったんだ。

そう思えた時、私をずっと捕らえていた、罪の意識が消えた。そしてふつう、という尺を捨てて、私は天使に戻ることに決めた。

私は私が好きで、私が幸せならみんなも幸せで、みんなが幸せなら私も幸せ。そんなお花畑のような世界観を手放せないのが、私。

だから私は、自分が天使でいられる場所を自分で作って、そこを守って生きていこうと思った。ウザい、と思われるのは仕方がないと思う。天使とか気持ち悪い、という声も聞こえて当然だ。

でも私はあなたが好きで、あなたを、知りたいと思ってしまう。そんな生きものなので、不快なら、寂しいけれど、違う世界を生きよう。

お元気で、と手を振って踵を返せるくらいには、最近、私は強くなれた気がする。


4. 砂浜を裸足で歩けば傷がつく様に

天使な私が、昔は嫌いだった。だってとても弱いから。
でも今は好きだ。自分も人も、理由なく好きでいられることは、私にとって最大の幸せだ。

noteをはじめて一年が過ぎたら、振り返ってみたい。きっとこの一年間は、人生の中でも忘れられないほどの、気づきと哀しみと優しさに満ちていた。そんな毎日の中で、私は本来の私を取り戻す感覚を得ている。自然体の私を。私が一番、苦しまずに居られる私を。

人間になるために投げ捨てた、数々の大切なものと一緒に、私は私のカケラを毎日、拾い集めている。

本当は天使だの人間だの、そんなラベリングは、どうでもいい。私は私であることを、誰に許される必要もない。けれど、生きづらくてたまらないのは、今も変わらない。みんなラベルを貼りたがるし、自分と違うものは怖がる。

砂浜を裸足で歩いていれば傷がつく様に、生きていると当たり前のように苦しいことばかりだ。

そんなこの世界のあり方は今も嫌い。でもそこに生きるみんなのことは好きだ。そこで生きるために迷いながら進む私も好きだ。

だから私は、生きている。あなたのことが好きなまま、私のことを好きなまま、生きづらいこの世界を、これからも生きていく。



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