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2021年の抱負(という名の宣戦布告)

新年、明けましておめでとうございます。
2021年も、どうぞよろしくお願いします。

さて、波乱の2020年が終わり、2021年が幕あけました。
年末から元旦にかけて、私は今年の抱負をどうしようかと、思いを巡らせていました。そして2021年初日の1月1日の夜、私は人生ではじめて、SNSでミュート機能を使いました。

2021年の抱負は「”さっぱり” と捨てる」。
水のように潔く、研ぎなおした包丁の断面のように潔く、自身が要らぬと思ったものは、捨てて行く。

「辛いこと、嫌なことだって学びになる時代」はもう終わりにします。
私が「私」という人生を開始してまだ30年目、けれどもう30年目です。人生の約1/3は過ぎました。n数としては十分な年月が過ぎました。

自分の「良い」「善い」「好い」と思ったものを選び、それ以外を潔く切り捨てる。これが、今年の抱負、目標であり、この生きづらい世界に対する、宣戦布告です。


1. リッパなオトナ

年末は、多くの人がSNSに振り返りの投稿をしていました。
私はそれらをスクロールしながら、いかんともしがたい気持ちになっていました。

なぜならば、見るだけで気持ちが萎びるような内容を投稿する人が、いるんです。

きっとその人自身のせいでも、コンテンツのせいでもありません。その人は、直接会ったら恐らく問題なくおしゃべりはできるくらいの仲なのに、どうしてもその人の綴る文字が、私の目に触れると、心の中が汚されるような気持ちになります。

どうして、こんなくだらないことを誇っているんだこの人は、とか。
どうして、何かを蔑まないと何かを認めることができないのか、とか。
どうして、書くことで少しでも傷つく人がいるかもしれないことを、わざわざ書いているんだ、とか。

私以外の人は気兼ねなく「いいね」というリアクションをしている記事でも、私にとっては虫唾が走るほど、嫌な気持ちになるものもありました。価値観の違いというやつでしょうか。小さなことで、公共の場を汚されているような気持ちになるのです。

例えば、私は喫茶店の「分別にご協力をお願いします」という貼り紙を無視する人の気持ちがわかりません。いませんか、「紙類」に思いっきりプラスチックストローを捨てる人。私は他人のそういう姿を見ると、ううんと頭を抱えたくなります。
それが「著しく」公共性や社会性を欠いた行いだとは思いませんが、少なくとも、私のことを「変だ」とか「態度が悪い」だとか言ってくる人がそんなことをしていたら、嫌な気持ちになります。私のことをあーだこーだ言う暇があったら、目の前のルールを守ってから言ってほしい、と。

上記は私の喫茶店あるあるなのですが、似たような気持ちになる発信が、年末のSNSには溢れていました。

そこが本当の公共の場だったら、その人に「今すぐこの場から去れ」と言う権利は私にはありません。しかしSNSは、私の心の中は、少なくともそんなものではないはず。なのになぜ私はずっと、嫌な気持ちになりながら、彼らの投稿を見続けていたのでしょう。

思えば私は、いつも自分の心の中を「公共の場」のように思って、生きてきました。自分の世界に閉じこもると、あまりにも世の中とズレて浦島太郎になってしまうと自覚していたのです。

だから私は、私の心の中に、人の侵入を許していました。
嫌なものも、真正面から受け止めて、避けないばかりに、いたずらに傷つきました。
それが世の中の道理を知るために必要なことだと思っていたので、ずっと我慢していました。

嫌なことも、きちんと受け止められる。改善できる。
オトナってそういうもので、リッパってそういうものだと思ってました。

しかし、ふと、このSNSは、公共の場じゃないことに気がつきました。少なくとも「私が閲覧する画面」は、私的なものです。だから私が見たいものだけに絞ったっていい。そして私は、勇気を出して、”友人”をミュートにしました。

「ミュートなんてダメよ、だって一度はあなたが許した上でSNSで繋がったんたから!」

ミュートにした瞬間、そんな優等生みたいな思考がよぎりました。
しかし、相手の発信が「社会的に」見てまぁ許される範疇であっても、私から見て「不愉快」であれば、無理に受け入れることなんてないと、今更気が付きました。

嫌なことも、きちんと受け止められ、改善できるのがリッパなオトナだとしたら、少なくとも私から見て、彼らの行動と発言は少なくとも、リッパでもオトナでもありませんでした。


2. 共感を止める

「嫌なら食べなければいい」「嫌なら近づかなければいい」「嫌なら関わらなければいい」という人のことを、私は長らく理解できませんでした。

だって、否応が無しに目に飛び込んでくるものを、口の中に突っ込まれるものを、どうやって処理するの?
見ずに、飲み込まずになんて、生きていられないじゃない、と思っていました。

しかし2021年1月1日、私はミュートをすることで、はじめて自分の意思で自分の目を、口を閉じました。
私の中に入って欲しくないものは、もう入れない、と決めました。

優等生の私は「あなたはまだまだ未熟者のくせに、選り好みをするの?食べず嫌いはよくないよ」と私を批判しました。

これまで私は嫌いなものも食べて来ました。現実の食べ物に関しても、食べられないものは、ほとんどありません。

同じように、私は善意も悪意も、嫉妬も好意も、蔑みも敬いも――他者から向けられる、さまざまな価値観や感情を、私は拒否せず自分の中に取り込みました。
取り込むとは、「共感」しようとする行いでした。自分がどう考えるか・感じるかを脇に置いて、相手の感情や価値観をなぞるように、追体験する。そうやって、私は相手が ”どうして” 私にそれを向けて来るのか、理解しようとしました。

私は私を嫌うという感情に、私を蔑むことに、妬むことに、共感しました。自分で自分に悪意を向けることは酷く苦しいことだったけれど、それで相手を理解し、私がそんな感情を向けられないように変わることで、相手と和解し、仲良くなれるはずだと本気で思っていました。

結局私は、本気で全世界の人間に好かれたいと願う、大馬鹿者でした。

だから、私は理不尽なことでよく悲しんでいました。私には蔑みの言葉しか言わないのに、何故この人は、別の誰かのことを褒めちぎるんだろうとか。何故この人は、私を妬むのに、私が一番欲しいものを持っているんだろうとか。

自分の中にたくさんのものを取り込みすぎて私は疲れていました。なのでもうやめます。よく頑張った、もう頑張らなくていい。もう全世界の人間に共感しなくてもいい。万人に好かれなくてもいい。

私も人を嫌っても、妬んでもいいのだと、私は私を許すことにしました。


3. 水のように潔く捨て、私は私の世界を創る

そうやって元旦を過ごし、私はなんだか、とてもさっぱりした気持ちで1月2日の朝を迎えました。

だから、今年の抱負は「”さっぱり” と捨てる」。

うじうじと、悩んだり後悔したりすれば、それだけ苦しい時間が長引きます。そんな自分のことを嫌になるときも来る。なので引きずらない、後戻りできないように「さっぱり」と捨てる。一度捨てたら振り返らない。そういう心持で、私は2021年を生きてみようと思います。

私はこれまで「生きづらい世界」の中で「生きやすい自分」になろうと必死でした。しかし世の中とは理不尽で、一貫性がなくて、理解しがたい。人間や、人間が操るSNSと同じです。

だからこれからは「生きやすい世界」を自分で創ります。「私」が変わるのではなく、私の瞳に映る「世界」を、変える。だから今年の抱負は、宣戦布告なのです。もうアナタの言うこと全部は聞いてあげないからね、という、私なりの反抗なのです。

これが吉と出るか凶とでるかは、やってみないとわかりませんが、だめだったら受け止めて改善して行けばよい話。

もう30歳も目の前、私もいい加減、リッパなオトナですから。


カタカナは今年一年、そんな感じで過ごしてみようと思います。
とはいえ人間なので悩むことも不安になることも出てきます。

また思ったこと、考えたこと、感じたことなど綴って行きたいと思いますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

今年が皆様にとって、私にとって、良い一年でありますように。



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