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母の恩師|聴こえない母に訊きにいく|五十嵐 大

 母の母校である宮城県立聴覚支援学校を訪ねたことで、母が慕っていた大沼直紀先生との接点ができた。
 
「大沼先生につないでいただけませんか?」
 
 突然の申し出に対し、宮城県立聴覚支援学校の校長を務める樋口美穂さんは、「もちろんです」と快諾してくれた。もしかすると、母がいまだに忘れられないという人に会えるかもしれない。それはろう学校時代の母を知る、貴重な手掛かりになるだろう。またひとつ、“ぼくが知らなかった母”に出会うチャンスなのだ。
 
 そして、母の母校を訪れてから二週間後のことだった。パソコンに一通のメールが届いた。大沼先生からのメールだった。
 
「昔のことで覚えていないことが多いのですが、できるだけ協力したいと思います」
 
 まさか本当に引き受けてくれるとは思っていなかったため、心の底からうれしい。『聴こえない母に訊きにいく』という企画をスタートしてから、こうした奇跡みたいな出会いが何度かあった。大沼先生の話を聞けば、母の人生をより深く理解できるだろう。早速ぼくは、大沼先生とのやり取りを重ねていった。

〈1月某日〉

 大沼先生に会う日がやって来た。場所は神保町にある、「電話リレーサービス」の本部が入っているビル。この電話リレーサービスとは、聴覚や発話に困難のある人が、通訳オペレーターを介して、聴こえる人と即時双方向的につながることを可能にしたサービスのことだ。大沼先生はそこで、理事長を務めているという。元来、心配性なぼくは、取材のときはいつも30分ほど早く現場に到着してしまう。しかしこの日は、1時間以上も早めに着いてしまった。それだけ緊張しているのがわかる。
 
 近くのカフェで時間を潰しながら、質問事項を確認することにした。ただし今回は、これまでのインタビュー以上にどんな話をどこまでしてもらえるのか、まったく予測がつかない。なのでまずは母のこと、そして宮城県立聴覚支援学校のことをフックに、大沼先生の思い出を訊くことに努めよう、と思った。
 
 時間になり、約束の場所へと向かう。ミーティングスペースに通され、そわそわしながら待っていると、とても柔和な表情を浮かべた男性がゆっくりやって来た。
 
「五十嵐さん? お待たせしてすみません」
 
 大沼先生だった。「とてもやさしい人だった」という母の言葉通り、穏やかな印象を受ける。
 
「とんでもないです。こちらこそ、お忙しいところ申し訳ありません。あの……」
 
 言葉に詰まってしまう。伝えたいことはたくさんあるのに、胸の中がぐちゃぐちゃになって、なにを言うべきかわからない。「座ってください」と促され、出してもらったお茶を一口飲むと、ぼくはあらためて口を開いた。
 
「大沼先生、本日はありがとうございます。大沼先生は――母の恩人です。そんな方にお会いしてお話を聞けることがうれしいです。本当に本当にありがとうございます」
 
 必死に話すぼくを見て、大沼先生はやさしく笑いかけてくれた。そうしてインタビューがはじまった。

※聴こえない母との会話では、手話の他、口話、筆談、ボディランゲージなどが入り混じっていますが、本記事では一律で表記を統一します。〔 〕内は筆者による補足です。また、文中に登場する人物は原則仮名です。
なお、本記事では当時の時代背景や価値観を正確に理解するため、当事者の語りをなるべくそのままの形で掲載します。ご了承ください。

――母は小学校を卒業する年齢まで通常学級に通っていて、中等部からろう学校に切り替えたそうです。
 
大沼先生:となると、手話に触れたのは中学生の頃からですよね?
 
――はい。それまで家庭内で手話を使うこともなかったみたいで……。
 
大沼先生:そもそも70年代には、「聴覚障害を治す」という治療が中国のほうで流行っていたんです。当時の中国では伝音性難聴と感音性難聴の違い(※1)も明確ではなくて、耳にはりを打てば治ると考えられていた。それを聞いた日本人がお金を貯めて、治療を受けるためにわざわざ中国まで渡るという時代だったんです。皆、いちの望みにかけていたんでしょうね。わたしたちが「そんなことをしても治るものではないんですよ」と言っても、聞く耳を持たれませんでした。
 
 耳が良くなれば、治りさえすれば……といった考えが根強くあって、ろうのままで生きるとは考えられなかったのかもしれません。だから当時のろう学校の教師や耳鼻科医たちは、聴こえない子たちがどうやって聴覚を活用できるようになるのか、に尽力していました。頑張れば聴こえるようになる、電話もできるようになる、と。そして、そんな期待を胸に、五十嵐さんのおじいさん、おばあさんも「治ること」に賭けていたんだと思いますよ。
 
――当時は「聴こえないままで生きる」という道を選びづらい世の中だったのかもしれませんね……。だから母も、通常学級で聴こえる子たちと育てられた。でも結果として、母は言語を身につけられず、勉強も遅れてしまいました。
 
大沼先生:通常学級では授業についていけなかったんでしょうね。実際、そうやって途中からろう学校に通うようになった子のなかには、日本語の文章がうまく理解できない子もいました。計算式なら解けるのに、文章題になるとわからなくなってしまう。たとえば、「8÷4」は計算できるのに、「8個のリンゴを4人で分けると、ひとりいくつになるでしょう?」と文章で問われるとわからないんです。
 
――それは通常学級で音声日本語を理解できず、さらには「手話」という言語にも出合えなかったことによる弊害ですよね?
 
大沼先生:そうでしょうね。もしも幼いうちにろう学校に入り、手話で概念を伝えたり考えさせたりする教師と出会えていれば、また違ったのかもしれない。当時は非常に曖昧な時代だったんです。わたしを含め、ろう学校の先生たちは、聴こえない子どもたちにどんな教育をしていけばいいのか模索していました。「手話」を尊重して、聴こえない子たちのコミュニケーションについて考えた人というのは、数えるくらいしかいなかったと思います。
 
 ただ子どもたちを見ていると、手話を使って、驚くくらいの情報をやり取りしているわけです。お昼休みになると、皆が楽しそうに手話でお喋りしている。そこに教師は入れないくらい。聴こえない子どもたちには、それくらい視覚コミュニケーションのほうが楽だし、自然だったんですよね。でも、授業がはじまると、教師たちは口話で進めてしまう。いま思えば、ろう教育界のなかでずいぶんと的はずれなことをやっていた時代が長かったんです。
 
 それに気づいたのは、だいぶ後になってからでした。ろう学校での経験をもとに、「聴覚活用」の効果について全国で講演をするようになって。あるとき、福島での講演会に呼ばれました。すると、そこで過去に教育に携わっていたお子さんの保護者と再会したんです。そして、そこで非常にショックなことを言われてしまいました。
 
――なんて言われたんですか?
 
大沼先生:「あの頃、子どもに一生懸命、聴覚指導を行っていたけれど、それは正しかったんでしょうか」と言われたんです。努力すれば話せるようになる、と信じてきたのに、そうはならなかった、と。
 
 たとえば、聴こえない子どもが外で声を出すと、奇異の目を向けられてしまう。そのうち、その子は「自分が声を出すと、変に思われてしまうのか……」と喋らなくなってしまう。それを見ている保護者も、「どうしてあんなに頑張ったのに、世の中では認めてもらえないんだ。あの努力はなんだったんだ」と苦しむようになる。同時に、手話を使えば言いたいことがスムーズに伝わること、ストレスもなくなることに気付く。
 
 そして、そんな保護者たちから、「大沼先生のように聴覚活用をする先生は、これからのろう学校には必要ありません」と言われてしまった。あんなに一生懸命やってきたのに、それが間違いだった。非常にショックで唖然としました。そのときはまだ、自分は正しいことをしてきたと思い込んでいましたからね。
 
 それからろう文化についてしっかり学ぶようになり、聴こえない子を持つ保護者の言わんとしていることが理解できて。「耳を使えばコミュニケーションが取れるようになる」というのが誤りだったことを知ったんです。
 
――大沼先生にもそんな時代があったんですね。でも母は、大沼先生と出会ったことでコミュニケーションを取る楽しさを知った、と話していました。大沼先生といろんな話をすることで、他者との間に言葉が介在していることを知り、世界が拓けたんじゃないかと思います。
 
大沼先生:そんな風に言ってもらえるとありがたいです。ただ、当時のわたしは、目の前にあるコミュニケーションのバリアを取り払いたい一心で、だから聴こえない子どもたちと手話混じりで話していただけなんですよ。でも、さえちゃん〔筆者の母〕には、そうやって接してくれる人がいなかった、ということなんだろうね……。
 
――そうかもしれません。家庭内に手話がなかったということは、それまでの母は他者とうまくコミュニケーションが取れず、ときには寂しい思いをしたんじゃないかなって。だからこそ、大沼先生に本当に感謝しているんだと思います。
 
大沼先生:五十嵐さんからご連絡をいただいた日の夜、どうしても眠れなかったんです。当時のことを思い出してしまってね。なかには思い出せない子もいるんだけど、さえちゃんのことはすごく覚えていて。わたしについて回ったり、頼りにしたりしてくれているのがよく伝わってきたから、いろんなことを教えてあげたくなるような子でしたよ。どうにかしてあげたい。さえちゃんを見ていて、早期教育してあげられたらよかったのに、とも思いました。
 
――大沼先生が指す「早期教育」とはなんですか?
 
大沼先生:もっと早期から「放ったらかしにしない」ということです。当時は「手真似」と言われていたけれど、 世間にどう思われようと手話を使って、幼い頃から人との接点を作って、さえちゃんの言いたいこと、知りたいことが通じる環境を用意してほしかった。もちろん、五十嵐さんのおじいさん、おばあさんの「さえちゃんを聴こえる子にしないといけない」という義務感や後ろめたさはわかります。でもそれが結局、濃密なコミュニケーションから遠ざける、中途半端な子育てにつながったのではないか、とも思うんです。
 
 通常学級に入って、周囲の話がわからないまま無為な時間を過ごしてしまった。そうではなく、もしも初等部からろう学校に通っていれば、クラスメイトたちとのやり取りで、もっと早く手話を身につけられたはず。そうしたら、またなにか違ったかもしれないですよね。
 
――手話と出会い、他人とお喋りすることの楽しさを知った、と母は言っていました。それはつまり、手話と出会うまでの12年間は、とても孤独だったことを意味するようにも思ってしまうんです。
 
大沼先生:でもね、ろう学校で会うさえちゃんはいつも明るくて、暗い印象は微塵もなかったんですよ。教科書を理解することができないという教育上の課題はあったけれど、とにかく明るくて。それまで通っていた小学校や家庭のなかでどれだけディスコミュニケーションだったのか、どれくらい孤独だったのか。当時はそれが見えていなかった。それでもあんなに明るい笑顔を見せてくれていたということは、さえちゃんにとってろう学校が本当に楽しい場所だったのかもしれません。
 
――ろう学校に入ってからは、友達と仙台で遊んだり、後に結婚する父と出会ったりと、母には貴重な時間がたくさんあったんだと思います。そしてそこの恩師が、大沼先生だった。こうして大沼先生にお会いすることを、母にも伝えたんです。母は言っていました。「本当にありがとうございました」と伝えてほしい、と。
 
大沼先生:わたしなんてなにもしていないのに……。こちらこそ、ありがとうございます。若かったあの頃、わたしを教師として成長させてくれたのは、ろう学校で出会った子どもたちです。
 
 こんなに素直な子たちが幼少期に言語を奪われてしまうことで、コミュニケーションの機会を失ってしまう。それではいけないんだと気づかせてくれたのは、間違いなくさえちゃんのように育てられた子たちを目の当たりにしたからです。だからわたしは、早期教育の重要性を考えるようになった。お礼を言うとしたら、わたしのほうなんですよ。

※1…伝音性難聴とは外耳や中耳が正常に機能しなくなり、音が聴こえづらくなる難聴のこと。補聴器などで音を大きくすれば聴こえるようになる。感音性難聴は内耳やさらに奥にある中枢神経系の障害によって起こる難聴のこと。補聴器を使用しても聴力を補うのは難しいとされる。

 インタビューの最中、大沼先生は何度も「探り探り教育する時代だったんです」と口にした。その過程では失敗や後悔があったことも、包み隠さず話してくれた。
 
 いまよりももっともっと、ろう者のことを正しく理解できていない時代。そんななかで大沼先生は、それでもろう者のためにと思い、尽力してきたのだ。その熱意は、たしかに伝わっている。それは母が証明している。
 
「他の先生のことはほとんど覚えていないのに、大沼先生のことだけはいまでも覚えているの」と母は言った。それくらい母にとって、大沼先生の存在は大きかったのだ。
 
 お別れの挨拶をすると、「頑張って、良いものを書いてくださいね」と声を掛けてくれる。せっかく時間をいただいたのだ。納得のいく一冊にしなければいけない。「はい!」と力強く答え、大沼先生と別れた。
 
 帰り道の電車のなかで、大沼先生が話してくれたことを何度も反芻した。母に報告したいことがたくさんある。母は一体、どんな顔をするだろうか。
 
 同時に、まだまだ知らなければいけないことがあるようにも感じた。あらためて母に訊きたい。そのときは父にも同席してもらって、父から見た母の半生についても訊きたい。早速、帰省の予定を立てよう。スマホを取り出し、父にメッセージを送る。
 
「お父さん、近いうちにまた、ふたりに会いに行こうと思うんだけど」
 
 またすぐぼくは、聴こえない母に話を訊きにいく――。

お知らせ
さほど遠くない昔、この国には「障害者は子どもをつくるべきではない」という価値観が存在した。そんな時代に、ひとりの聴覚障害者として、「ぼく」を産んだ「母」。自身が生まれるまでのこと、知らなかった過去を取材する過程の一部を、本連載ではお届けしてきました。連載版は、これで最終回です。ウェブでは書けないこともありましたし、取材はまだ続きます。その成果は来年、「書籍」としてまとめる予定です。刊行の目処が立ちましたら、改めてこの場でお知らせさせていただきます。ぜひ、その日をお待ちください。ご愛読、ありがとうございました。

著者:五十嵐 大(いがらし・だい)
1983年、宮城県生まれ。ライター、エッセイスト。2020年10月、『しくじり家族』でデビュー。他の著書に『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』がある。
Twitter:@daigarashi


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