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母校へ|聴こえない母に訊きにいく|五十嵐 大

〈12月某日――三日目〉

 目が覚めると快晴だったので一安心する。今日は母の母校である「宮城県立聴覚支援学校」の取材をする予定になっていた。15時半から約2時間、校内の見学やインタビューに対応してくれるという。

 取材の前はいつもそうだけれど、今回は特に緊張してしまった。「失敗できない」という思いよりも、母や父が通っていた学校を訪れることができることへの感動や興奮が大きく、故に落ち着かない。支度を終え、出発時間まで母と雑談しながら過ごすも、ソワソワしていた。

 実家から学校までは1時間ほどかかる。初めて訪れる場所ということもあり、少し早めに家を出た。

 仙台駅で仙台空港アクセス線に乗り換え、学校の最寄りである長町駅に到着する。駅の近くにはイケアがあり、さらにはイオンも建設予定らしい。地元の友人によれば、このあたりはファミリー層が多く暮らす、とても住みやすいエリアとのこと。駅から学校までは徒歩15分ほどだが、気持ちを落ち着けるために、ゆっくり歩いて向かった。

※聴こえない母との会話では、手話の他、口話、筆談、ボディランゲージなどが入り混じっていますが、本記事では一律で表記を統一します。〔 〕内は筆者による補足です。また、文中に登場する人物は原則仮名です。
なお、本記事では当時の時代背景や価値観を正確に理解するため、当事者の語りをなるべくそのままの形で掲載します。ご了承ください。

 自動車が引っ切り無しに行き交う大きな道路沿いを進み、やがて小道に入ると、学校の敷地が見えてきた。

 宮城県立聴覚支援学校の成り立ちは明治35年まで遡る。当時、宮城県師範学校附属小学校内に「唖生部」が開設されたのがはじまりだ。そこから何度か名称や組織が変更されていった。母が通っていた昭和40年代は「宮城県立聾学校」と呼ばれていたという。その後、昭和56年には「宮城県立ろう学校」へ、平成21年には「宮城県立聴覚支援学校」へと改称された。

 正門に到着し、敷地内を進んでいく。どうやら下校時刻だったらしく、これから帰宅しようという児童たちが昇降口に溜まっていた。みんな手話でお喋りに夢中になっていて、とても楽しそうだ。遠方から通っている児童は保護者に送り迎えされているようで、車のなかで待機している大人の姿もあった。そういえば正門を入ってすぐのところには寄宿舎もあった。自宅からの通学が困難な場合は、幼い頃から親元を離れざるを得ないケースもあるのだろう。ぼくは小中高と徒歩圏内にある学校をいくらでも選べたため、置かれている状況の違いを痛感する。

 来客用の出入り口で受付を済ませると、教頭の髙城邦弘さんが出迎えてくれた。聴者で、とても穏やかな印象の50代。案内されるままに、まずは校長室へ。校長を務めるのは同じく50代の聴者である樋口美穂さん。挨拶をし、あらためて今回の取材の目的について伝える。

「本校に通っていた生徒の息子さんに、こういった形でお会いできて、本当にうれしいです。わたしたちにできることがあるなら、協力させてください」

 話の流れから、母の恩師である大沼先生の名前を出すと、樋口さんと髙城さんが顔を見合わせ、とても驚いている。

「大沼先生って、あの大沼直紀先生のことかしら?」

「そうかもしれないですね!」

 詳しく訊いてみると、大沼先生は教育学の第一人者であり、つい先日も講演のため学校まで足を運んでくれたそうだ。

「叶うならば、わたしも大沼先生に教わってみたかったくらいです」

 ダメ元で、大沼先生への取材を取り次いでもらえないかお願いしてみる。できることならば、母の恩師に会ってみたい。すると、樋口さんは快諾してくれた。

「教え子の息子さんに会えるなんて、大沼先生も喜ばれるはずですよ」

 その後、ひとりの教師を紹介される。ろうの児童たちを指導する中村栄子さんだ。現在40代の彼女は、10代の大半をこの学校で過ごした元生徒でもある。生徒目線でも学校を知り尽くしているため、今回の取材に対応してくれるという。とてもありがたい申し出を受け、まずは校内見学をはじめることにした。

 校長室の前を走る廊下には、これまでの歴史をなぞるように昔の写真が何枚も貼られていた。白黒の写真を見ていると、母や父がここでどんな学校生活を送っていたのかがより具体的にイメージできて、不思議な気持ちになる。

 宮城県立聴覚支援学校は幼稚部から専攻科までわかれていて、世代別に通う生徒たちがいる。母が通っていた頃には被服科、金属工業科、産業工芸科といったコースがあり、そこで生徒たちはそれぞれの希望にわかれ、和裁や洋裁、塗装、木工などを学んでいた。ちなみに母は和裁と洋裁を、父は木工を専攻していたと聞いている。現在では、ここを卒業して大学に進学する人もいるそうだ。

 校内は改修をしているため、昭和の頃とはだいぶ雰囲気は異なるそう。けれど、教室を一つひとつ見て回っていると、なんとなく当時のイメージが掴める。小さな教室のなかで、クラスメイトと手話でお喋りをしている母の姿が浮かび上がってくるようだ。

 時折、まだ残っている児童たちとすれ違う。みんな、手話で挨拶してくれるので、ぼくも手話で同じように返した。

 最後に足を踏み入れたのは、口話を教える教室だった。黒板には口の開き方を解説するイラストが貼られており、ここで児童たちは口話の練習をすることがあるそう。初めて見る光景だったため、正直、驚いてしまった。

「あの……、子どもたちは手話を使わないんですか? 口話がメインなんでしょうか?」

 すると、髙城さんが少し複雑そうな顔を浮かべ、言った。

「もちろん、手話も使います。でも、保護者からの要望に応じて、口話を指導することもあるんです」

 保護者からの要望――。つまり、聴こえない子どもに対し「少しでも音声で喋れるようになってほしい」と願う保護者たちがいるということだ。きっとそれぞれが悩み抜いた結果なのだろう。もちろん、他者の家庭や教育方針にぼくが口を出せる立場にはない。それでもぼくは、その光景に複雑な感情を抱かざるを得なかった。

 見学を終えると、髙城さん、中村さんへのインタビューをはじめた。

――ぼくの母がここに通っていた頃、ひとつの学年に20人くらいいたらしいんです。

髙城さん:それはとても多いですね。

中村さん:最も多かったのは昭和22年から25年あたりです。わたしが通っていた頃は、同級生が40人近くいました。でもいまはだいぶ少なくて。平均すると1学年につき、7人くらいです。

――それは聴こえない子どもたちが減っているということですか?

中村さん:というよりも、人工内耳手術を受けたりして、一般校に通う選択肢が広がった結果だと思います。

髙城さん:補聴器や人工内耳の進歩もあって、音声言語を獲得できないまま年齢を重ねるということが少なくなりつつあるように感じます。元々の聴力が聴覚支援学校に入る基準にあったとしても、人工内耳を使うことによって地域の幼稚園、小学校に進むという選択肢が生まれているようです。

――その一方で、聴覚支援学校を選ぶ人たちもいるんですよね。

髙城さん:もちろんです。理由はさまざまですが、デフファミリー〔家族みんながろう者の家庭〕のお子さんは、やはり聴覚支援学校を選ばれることが多いかもしれません。

中村さん:聴覚支援学校に通わせたいと思う保護者もいれば、やはり一般校に入れたいと思う保護者もいます。考え方は家庭によってバラバラなのが現実ですね。

髙城さん:聴こえない子どもの進学については、保護者の方々だけで悩んでしまわないような仕組みも用意しています。たとえば、わたしたちは相談センターを設けていて、保護者と連携を取りながら、どんなふうに育てていけばいいのかを一緒に考えているんです。「子どもの耳が聴こえない」とわかったときの保護者の気持ちは計り知れないものがあります。悩み、孤立してしまうこともある。だから、そういう保護者同士が話し合える場所も用意しているんです。

中村さん:特に聴者の保護者は、戸惑いが大きいみたいです。だからこそ、わたしは自分自身の姿を見せて、「聴こえなくても心配いらない、大丈夫です」と伝えています。聴こえない当事者としての体験談を話すとみなさん安心してくれますし、子どもたちの未来が明るい方向につながっていけばいいなと。

――ぼくの母は通常学級に入ったものの、やはり音声での授業についていくことができず、中等部からこちらの学校のお世話になったそうです。そういう子どもたちもいますか?

髙城さん:いますね。それどころか、ここの幼稚部に通っていたものの、地域の小学校、中学校に進学して、そして高等部でまたここに戻ってくるようなケースもあります。わたしたちとしては、もちろん、ここに来てもらいたいんです。でも、仮に地域の一般校で学べるチャンスがあるのだとしたら、それも尊重したい。一般校は生徒数も多いので、大きな集団と触れ合うことができますから。いずれにしても、本人と保護者に「選択肢」を提示できる存在でありたいと思っています。そして、ここに戻ってくる生徒のことも大切にしたい。

――先程、口話を学ぶ教室を見せていただきましたが、保護者のなかには口話を求める人たちも少なくないんですか?

中村さん:やはり「手話よりも口話を」という保護者はいます。ただ、子どもたちを見ていると、「手話を使って喋りたい」と思っている割合のほうが多いように感じます。

髙城さん:学校としてはいろいろな手段を用意して、トータルでサポートしていければと考えているんです。小中と一般校に通っていたために手話が身につかず、それでいて高等部からここに通い出す子もいます。そういう子に対しては口話がコミュニケーション手段になりますし、もちろんなかには手話も口話も使うようなタイプもいます。また、社会に出たときに臨機応変に対応できるよう、筆談やUDトーク〔音声をテキストに翻訳するサービス〕のようなものを活用したコミュニケーション方法の素地を養うことも意識しているんです。

 髙城さん、中村さんのお話を聞いていると、「聴こえない子どもたちが社会に出てから困らないようにしたい」という思いを強く感じる。だからこそ、さまざまなコミュニケーション手段を身に着けられるような環境を用意しているのだろう。その一方で、「手話」がもっと社会に広まっていけば、聴こえない人たちだけが社会に合わせる構図が変わっていくのではないか、とも思った。歩み寄るとはどちらか一方に負担を押し付けることではなく、双方に一歩ずつ前へ出ることだ。いつの日か、聴こえない子どもたちも、その保護者も、気兼ねなく「手話」を選択できる日が訪れたらいいな、と思う。「口話」だけが正しい道ではないのだ。

――ここに来る途中、昇降口で楽しそうにお喋りしている子どもたちの姿を見ました。みんな手話を使って、たくさん笑っていて。

髙城さん:コロナの影響で2カ月休校になっていたんですが、きっとみんな、友達に会えなくて寂しかったと思うんです。休校が明けたときの生徒たちの勢いがすごくて。わたしたちは立場上「くっついちゃ駄目だよ」と言わなくちゃいけませんが、やっと友達に会えて、くっついてお喋りしたくなる気持ちは充分わかりました。生徒たちにとって、ここが大切な居場所のひとつになっているのではないかと思います。

中村さん:ここでの関係の濃さは理解できます。わたしも同級生や先輩後輩たちとはいまだにつながっていますし、集まることも多い。ここに通っていた人たちとは切っても切れない関係が築けています。

――母もここに通うようになってから、楽しいことが増えていったと話していました。手話という言葉と、仲間の獲得は大きかったのかもしれません。

髙城さん:喋りたいときに喋れる相手がいる。それは非常に重要でしょうね。

中村さん:そう、勉強も大切ですが、それだけではなくて「仲間を作れること」に意味があるんだと思います。

――ここを卒業した後の進路はどうなっているんですか?

髙城さん:昔は「社会に出て即戦力となれるように、手に職をつける」という考え方が強かったので、高等部を卒業した後に専攻科へ進み、そこで専門的な技術を身につける人が多かったみたいです。それこそ五十嵐さんのご両親の時代ですね。そうやって専門技術を身につけた後は、地元に戻って就職をする。

 ただ、最近では大学進学も視野に入れるようになってきました。体育系の大学に合格した生徒もいますし、管理栄養士を目指して栄養学を学ぶ大学に入った生徒もいます。昔に比べると、聴こえない子たちの将来が広がってきているんです。だから学校としても、今後は普通科を設立して、大学進学を目指す生徒たちを応援していきたいと考えています。少しでも可能性を広げ、選択肢を増やす。そのための力になっていきたいですね。

 学校を出ると、すっかり真っ暗になっていた。時刻はまだ17時半だったけれど、東北の夜は闇が深い。足元もあまり見えないなか、足早に駅へ向かった。

 帰宅したのは19時過ぎ。途中で経由した仙台駅で牛タンを購入したので、それを3人で焼きながら話す。スマホで撮影した校内の写真を見せると、父も母も懐かしそうに目を細める。時折、なにかを思い出したように話し出すが、興奮しているのかいつもよりも手の動きが速くて、会話についていけない。でも、昔話で盛り上がっているのだろうと、そっとしておいた。

〈12月某日――四日目〉

 前日の取材で想像以上に緊張していたのか、睡眠が深かった。寝過ごしてしまい、母に起こされる。母は声掛けではなく、布団をすべて剥がすことで起こそうとするので、あまりの寒さに眠気が吹き飛ぶ。高校生の頃、こうやって毎朝叩き起こされていたことを思い出す。

 たっぷりのサラダとナスの味噌汁、目玉焼き、手作りの塩辛で朝昼兼用のご飯を済ませると、そのまま母に話を聞いた。

――昨日、大沼先生のことを教えてもらったよ。時々、講演なんかでろう学校に来ることがあるんだって。

母:そうなの!

――「母にとっての恩師です」と伝えたら、ろう学校の校長先生が羨ましがってた。素晴らしい先生に指導されていたんですねって。

母:他の先生の名前はあまり思い出せないんだけど、大沼先生の名前だけはずっと覚えているくらいお世話になったんだよ。中学1年生の頃に担任になってくれて、担当授業は国語だった。ただ、わたしは特別教室で小学校の授業からやり直していたから、授業中は大沼先生と離れてたの。給食の時間になったら教室に戻って、大沼先生と一緒に食べるのが楽しかったんだよ。とてもやさしくて、子どもを怒ったりするような姿は見たことがなかったな。

――大沼先生とはどうやってコミュニケーションを取ってたの?

母:大沼先生は手話もできたし、口をはっきり開けて喋ってくれるから、なにを言ってるのかよくわかったんだよ。大沼先生と出会って、聴こえる大人とも話せることを知ったの。大沼先生がたくさん話しかけてくれて、そのおかげで、お父さんお母さん〔筆者の祖父母〕が言っていることも少しずつ理解できるようになった。お姉ちゃんたち〔筆者の伯母たち〕とも喧嘩するようになった。それまでは大人しくしていたんじゃなくて、みんなの言っていることがわからなかっただけなんだよ。でも意味がわかるにつれて、自分の気持ちも伝えられるようになったの。

――大沼先生は本当に恩師だったんだね。他に思い出はある?

母:中学1年生の夏休み、大沼先生が家庭訪問に来てくれたの。駅まで迎えに行ったら、「真っ黒に焼けたね! プール? 海に行ったの? 楽しそうだね」って言われたんだけど、そんなところには行ってなくて、ただわたしの肌がちょっと黒かっただけなんだよ。だから「違うよ! 元々!」って怒ったら、大沼先生は「ごめんごめん」って笑ってた。

 学校の行事で鳴子へキャンプに行ったこともあるの。夜、キャンプファイヤーをすることになって、ひとつ年下の子と一緒になって、みんなの前で適当なダンスを踊ってみせたら、大沼先生が「すごい上手だね!」って褒めてくれて、照れくさいけどうれしかったよ。でも、他の子たちはみんなびっくりして、ポカーンとしていたのが面白かった。

 高等部に上がってからは大沼先生と離れ離れになっちゃったけど、校内で見かけるとしょっちゅう話しかけてくれた。いつまでもわたしのことを気にかけてくれる、本当にやさしい先生だったよ。でも……。

――でも?

母:あのね、高校2年生の頃、仲良しだった女の子がろう学校を辞めることになったの。学校を辞めて、聴こえる男性と結婚するって。すごく寂しかったけど、みんなでお金を出し合って贈り物をしたら、すごく喜んでくれたんだよ。でも後日、違う子から、「あの子、あなたの悪口ばかり言ってたんだよ」と聞かされて、わたしも何が本当なのかわからなくなって、結局、仲良しだった子とは疎遠になったの。

 中学校までは楽しいことばかりだったけれど、高等部に上がってからは人間関係で悩むことも増えた。それで最終的に、高校3年生の1月に辞めることにしたの。そのとき、専攻科に進んでいた浩二さん〔母の夫、筆者の父〕に相談して、「だったらもう、ふたりで東京に行って暮らそう!」と、駆け落ちすることになったのよ。

――そうだったの! 聴こえない人たちのコミュニティのなかで、人間関係に悩んでいたのか……。

母:結局、駆け落ちは失敗して、周りの人たちにも全部バレちゃって。でも、学校には戻る気になれなかったから、「辞めます」って伝えたの。お父さんもお母さんも、謝りに行っていたけど。そうしたら学校から、「もう少しで卒業だったのだから、卒業証書だけでも受け取ってほしい」って連絡があって、お父さんお母さんからも「せっかくだし、もらっておいたら?」って説得されて、卒業式が終わったタイミングで、学校に行ったんだよ。校長室に案内されて、校長先生が卒業証書を渡してくれた。そのとき、「ごめんなさい」って、自分がしたことを謝ったの。でもね、その帰り道で大沼先生とすれ違ったの。

――大沼先生にも挨拶できた?

母:ううん。自分がしたことが恥ずかしくて、大沼先生に合わせる顔がなかった……。向こうから歩いてくる大沼先生に気づいたけど、わたしは黙ったまま俯いて、そのまま帰った。それっきり、大沼先生には会えてないけど、ずっと忘れられずにいたんだよ。

 卒業式に出席しなかったこと、そして大沼先生にお礼を伝えられなかったこと。それを話しながら、目の前で母は泣いた。その涙にどんな意味があるのか、まだぼくには理解できていない。

 インタビューを終え、最後に「もしかすると、大沼先生に直接会って、話が訊けるかもしれないんだ」と伝えると、母は驚いた表情を浮かべた。そして、「もしも会えたら、お礼を伝えてほしい」という母の言葉に、ぼくは深く頷いた。

 こうしてぼくは、四度目の滞在を終えた。

【参考文献】
・宮城県立聴覚支援学校『令和3年度 学校要覧』

著者:五十嵐 大(いがらし・だい)
1983年、宮城県生まれ。ライター、エッセイスト。2020年10月、『しくじり家族』でデビュー。他の著書に『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』がある。
Twitter:@daigarashi

連載「聴こえない母に訊きにいく」について
CODA(コーダ)――両親のひとり以上が聴覚障害のある、聴こえる人。そんな「ぼく」を産んだのは、「聴こえない母」だった。さほど遠くない昔、この国には「障害者は子どもをつくるべきではない」という価値観が存在した。そんな時代に、「母」はひとりの聴覚障害者として、女性として、「ぼく」を産んだ。母の身体に刻まれた差別の記憶。自身が生まれるまでのこと。知らなかった過去を、息子は自ら取材することにした――。本連載では、その過程を不定期で読者の皆様にも共有してゆきます。


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