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よみがえる名著|佐藤卓己さんが選ぶ「絶版本」

本連載は2022年9月に書籍化されました。

野田宣雄『歴史をいかに学ぶか——ブルクハルトを現代に読む』(PHP新書)

 私は実用主義者である。書架にガラス引き戸は不要と考えている。だが、寝室の書架にはガラス引き戸が付いている。その上段には野田宣雄先生の著作が左から刊行順に並んでいる。『大世界史24 独裁者への道』、『二十世紀の政治指導』、『教養市民層からナチズムへ』、『歴史の危機』、『歴史に復讐される世紀末』、『文明衝突時代の政治と宗教』、『ドイツ教養市民層の歴史』、『二十世紀をどう見るか』、『歴史をいかに学ぶか』、『二十一世紀をどう生きるか』。その文庫版や編著・共著もそこに揃えている。それに続いて、自著を刊行順に並べている。新たに一冊が加わるたびに、野田先生の著作に目を向けてきた。

 今年は1月3日から、それらの本を取り出しては読み返し続けている。というのも、まさにその日、先生が年末29日にお亡くなりになっていたという知らせを受けたからだ。「大学関係には伝える必要はない」とのご遺志を聞いたとき、大学2回生のとき野田先生が講義で話されたスイスの文化史家ヤーコプ・ブルクハルト(1818-97)の言葉が脳裏に浮かんだ。「静かに生きた者は立派に生きた者である」。

 しばらく周囲にも訃報は伝えなかったが、1月24日には新聞におくやみが掲載された。いまも主著『教養市民層からナチズムへ――比較宗教社会史のこころみ』(名古屋大学出版会、1988年)と『ヒトラーの時代』(『大世界史24』の改訂版・文春学藝ライブラリー、2014年)は新刊で入手できるものの、それ以外の政治や文明を縦横に論じた著作は絶版になっている。最後の単著『二十一世紀をどう生きるか——「混沌の歴史」のはじまり』(PHP新書)は2000年12月の刊行だから、それからもう20年以上が経過していることになる。同じ年の1月に刊行された『歴史をいかに学ぶか——ブルクハルトを現代に読む』(PHP新書)に次のような記述がある。

 大学で教授の地位を得てからのブルクハルトは、講義に大いに力を注ぎ、健康に恵まれたせいもあって、最晩年にいたるまで(死の六年ほど前に階段で足を滑らすまで)一時間も休むことなく、本来の大学教授の任務を全うすることができた。そして、ささやかな富があったお蔭で、ある時期から一切の著述活動を断念し、「出版屋の下僕になることを免れた」ともみずから述べている。事実、若いころは別として、四十過ぎ以降の彼は、死にいたるまで一冊の著書も公にしなかった。

 この文章を野田先生は自らの最後の単著を出す年に書いていたわけである。さらに次のような文章が続くのである。

 このように紹介してくると、ブルクハルトという歴史家は、いささか陰気で堅苦しく近寄りがたい人物に思われるかもしれない。しかし、その十巻にも及ぶ書簡集などを読めば、彼が多くの親しい友人に恵まれ、それらの友人との交際をいかに大切にしたかが知られる。心の奥に厭世的な気分を抱きながら、しかし、努めて人間嫌いになることを避け、世間との平穏な関係のうちに人生を終えるというのがブルクハルトの理想としたところであった。そのために、彼の生き方はある種の軽やかささえ感じさせるものだったが、その陰には、深い諦念と危うい心の均衡が隠されていたことを忘れてはならない。

 「十巻にも及ぶ書簡集」とあるが、偶然にも野田先生の単著は——数え方にもよるけれども——ちょうど10冊である。私はその著作を読みながら、そこにも「深い諦念と危うい心の均衡が隠されていたこと」を改めて感じている。

 先生と出会ったのは、私が京都大学に進学した1980年、先生は47歳の教養部助教授だった。「いささか陰気で堅苦しく近寄りがたい人物に思われるかも」というブルクハルトの描写は、おそらく自己理解もいくぶんは投影されているのだろう。確かに学生時代の私の目から見ても、気安く研究室を訪問できる雰囲気はなかった。講義後に質問すべく初めて近づいたときの緊張感はいまも鮮明に覚えている。やがて、講義後に研究室まで話をしながら同行するようになり、さらに研究室にも入れてもらえるようになった。しかし、「いま何を読んでいるのかね」と聞かれたとき、どう応えようかと当時はいつも考えていたものだ。だからこそ、先生の前で話せるような本を私が熱心に読んだとすれば、これこそが「本来の大学教授の任務」、すなわち大学教育のあるべき姿なのだろう。

 私が野田先生の西洋史概論に魅せられて専攻を変え、そのゼミに参加して読書術を体得し、先生の仲介でミュンヘン大学に留学したことなどは、すでに拙著『ヒューマニティーズ 歴史学』や『メディア論の名著30』などでくりかえし言及している。その後、ドイツ現代史から離れたものの、私は先生の背中を見つめながら研究人生を過ごしてきた。野田先生は60歳の還暦で京都大学を退き、南山大学に移られた。いまでは京都大学の定年は65歳まで延長されているものの、私は長らく先生と同じ60歳を目標に人生設計をしてきた。2年前、2018年2月21日付『日本経済新聞』のコラム「あすへの話題」で、私は大学改革をめぐるシンポジウムに出席した際の感想をこう書いている。

 私は会場の端に腰掛けて、30年前に野田宣雄先生と交わした会話を想起していた。
 「これから君が過ごす大学は大変なことになるだろうね。今のようなスタイルは無理だよ」
 京都大学教養部の研究室で先生が大学院生だった私に、ふと洩らされた言葉だった。教養部が廃止されたのは93年だが、すでにその徴候はあったのだろう。私はこう応答したことを覚えている。
 「いや、私までなら、どうにかなるでしょう」
 いかにも若者らしい楽観論ではない。先生のような研究者を目指して生きたい、そうした憧憬の思いの表明だった。
 その後、私は先生と同じようにドイツ留学をして、幸いにも同じ大学で教壇に立っている。浄土真宗の僧侶でもある先生は「親鸞は弟子一人ももたず候」と『歎異抄』の言葉をよく口にされた。それでも私は先生に「似我の主義」(福沢諭吉)を見ていた。それは「我に似よ」と教師が自ら模範を示す教授法の極意である。
 問題なのは研究より教育、教養より実用が求められる今日の大学教員に、知的な学生が憧憬のまなざしを向けられるかどうかである。30年前に「どうにかなる」と言った私だが、いま果たして「似我の主義」に生きているといえるかどうか。

  昨年還暦を迎えたとき、「私までなら、どうにかなった」ようだと、まずは先生に報告したいと思っていた。とはいえ、コロナ禍でそれもかなわぬうちに、その機会を逸してしまった。無念というほかないが、せめて先生の著作のエッセンスを次世代の研究者に読ませたいと考えている。

 そのため、「野田宣雄論文選」をドイツ現代史の竹中亨・大阪大学名誉教授、政治思想史の植村和秀・京都産業大学教授、国制史の瀧井一博・国際日本文化研究センター教授とともに計画している。いずれも京都大学の文学部と法学部で野田先生の教えをうけた門下であり、野田宣雄編著『よみがえる帝国——ドイツ史とポスト国民国家』(ミネルヴァ書房、1998年)の執筆メンバーである。まさしく「よみがえる名著」プロジェクトがいま始動している。名著に絶版はない。よみがえる機会を絶えず待っているのだから。

書架1

(写真=筆者提供)

今回の選者:佐藤卓己(さとう・たくみ)
1960年、広島市生まれ。84年、京都大学文学部史学科卒業。86年、同大大学院修士課程修了。87-89年、ミュンヘン大学近代史研究所留学。89年京都大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学新聞研究所助手、同志社大学文学部助教授、国際日本文化研究センター助教授などを経て、現在は京都大学理事補、大学院教育学研究科教授、副研究科長。著書に『「キング」の時代』(岩波現代文庫、サントリー学芸賞)、『言論統制』(中公新書、吉田茂賞)、『ファシスト的公共性』(岩波書店、毎日出版文化賞)、『ヒューマニティーズ 歴史学』(岩波書店)、『メディア論の名著30』(ちくま新書)など多数ある。

連載「絶版本」について
あなたが、いまだからこそ語りたい「絶版本」はなんですか?この連載では、さまざまな書き手の方にそのような問いを投げかけ、その一冊にまつわる想いを綴ってもらいます。ここでいう「絶版本」は厳密な意味ではなく、「品切れ重版未定」も含んだ「新本市場で現在アクセスできない本」という広い意味をとっています。連載趣旨については、ぜひ初回の記事も参照ください。


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