よみがえる名著|佐藤卓己さんが選ぶ「絶版本」
私は実用主義者である。書架にガラス引き戸は不要と考えている。だが、寝室の書架にはガラス引き戸が付いている。その上段には野田宣雄先生の著作が左から刊行順に並んでいる。『大世界史24 独裁者への道』、『二十世紀の政治指導』、『教養市民層からナチズムへ』、『歴史の危機』、『歴史に復讐される世紀末』、『文明衝突時代の政治と宗教』、『ドイツ教養市民層の歴史』、『二十世紀をどう見るか』、『歴史をいかに学ぶか』、『二十一世紀をどう生きるか』。その文庫版や編著・共著もそこに揃えている。それに続いて、自著を刊行順に並べている。新たに一冊が加わるたびに、野田先生の著作に目を向けてきた。
今年は1月3日から、それらの本を取り出しては読み返し続けている。というのも、まさにその日、先生が年末29日にお亡くなりになっていたという知らせを受けたからだ。「大学関係には伝える必要はない」とのご遺志を聞いたとき、大学2回生のとき野田先生が講義で話されたスイスの文化史家ヤーコプ・ブルクハルト(1818-97)の言葉が脳裏に浮かんだ。「静かに生きた者は立派に生きた者である」。
しばらく周囲にも訃報は伝えなかったが、1月24日には新聞におくやみが掲載された。いまも主著『教養市民層からナチズムへ――比較宗教社会史のこころみ』(名古屋大学出版会、1988年)と『ヒトラーの時代』(『大世界史24』の改訂版・文春学藝ライブラリー、2014年)は新刊で入手できるものの、それ以外の政治や文明を縦横に論じた著作は絶版になっている。最後の単著『二十一世紀をどう生きるか——「混沌の歴史」のはじまり』(PHP新書)は2000年12月の刊行だから、それからもう20年以上が経過していることになる。同じ年の1月に刊行された『歴史をいかに学ぶか——ブルクハルトを現代に読む』(PHP新書)に次のような記述がある。
この文章を野田先生は自らの最後の単著を出す年に書いていたわけである。さらに次のような文章が続くのである。
「十巻にも及ぶ書簡集」とあるが、偶然にも野田先生の単著は——数え方にもよるけれども——ちょうど10冊である。私はその著作を読みながら、そこにも「深い諦念と危うい心の均衡が隠されていたこと」を改めて感じている。
先生と出会ったのは、私が京都大学に進学した1980年、先生は47歳の教養部助教授だった。「いささか陰気で堅苦しく近寄りがたい人物に思われるかも」というブルクハルトの描写は、おそらく自己理解もいくぶんは投影されているのだろう。確かに学生時代の私の目から見ても、気安く研究室を訪問できる雰囲気はなかった。講義後に質問すべく初めて近づいたときの緊張感はいまも鮮明に覚えている。やがて、講義後に研究室まで話をしながら同行するようになり、さらに研究室にも入れてもらえるようになった。しかし、「いま何を読んでいるのかね」と聞かれたとき、どう応えようかと当時はいつも考えていたものだ。だからこそ、先生の前で話せるような本を私が熱心に読んだとすれば、これこそが「本来の大学教授の任務」、すなわち大学教育のあるべき姿なのだろう。
私が野田先生の西洋史概論に魅せられて専攻を変え、そのゼミに参加して読書術を体得し、先生の仲介でミュンヘン大学に留学したことなどは、すでに拙著『ヒューマニティーズ 歴史学』や『メディア論の名著30』などでくりかえし言及している。その後、ドイツ現代史から離れたものの、私は先生の背中を見つめながら研究人生を過ごしてきた。野田先生は60歳の還暦で京都大学を退き、南山大学に移られた。いまでは京都大学の定年は65歳まで延長されているものの、私は長らく先生と同じ60歳を目標に人生設計をしてきた。2年前、2018年2月21日付『日本経済新聞』のコラム「あすへの話題」で、私は大学改革をめぐるシンポジウムに出席した際の感想をこう書いている。
昨年還暦を迎えたとき、「私までなら、どうにかなった」ようだと、まずは先生に報告したいと思っていた。とはいえ、コロナ禍でそれもかなわぬうちに、その機会を逸してしまった。無念というほかないが、せめて先生の著作のエッセンスを次世代の研究者に読ませたいと考えている。
そのため、「野田宣雄論文選」をドイツ現代史の竹中亨・大阪大学名誉教授、政治思想史の植村和秀・京都産業大学教授、国制史の瀧井一博・国際日本文化研究センター教授とともに計画している。いずれも京都大学の文学部と法学部で野田先生の教えをうけた門下であり、野田宣雄編著『よみがえる帝国——ドイツ史とポスト国民国家』(ミネルヴァ書房、1998年)の執筆メンバーである。まさしく「よみがえる名著」プロジェクトがいま始動している。名著に絶版はない。よみがえる機会を絶えず待っているのだから。
(写真=筆者提供)