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ろう学校の思い出|聴こえない母に訊きにいく|五十嵐 大

 三度目の滞在時、母の人生において、ろう学校がいかに重要な存在だったのかを知った。

 通常学級へ進学した母の周りには、聴こえる子どもしかいなかった。当時、親切にしてくれる同級生たちもいたらしいが、やはり、コミュニケーションの壁は存在した。聴こえない母には、児童のみならず教師の言うことも理解できなかったのだ。

 そして母は、中学生になるタイミングで「ろう学校」へ進学する。そこにいるのは、みな、母と同じように聴こえない子どもたちだ。そのときのことを母は「自分と同じ人たちがこんなにいるなんて思わなかった」と振り返った。

 きっと、ずっと孤独だったのではないかと思う。そんな母にとってろう学校は、“仲間”と出会えた場所だ。そこで手話を知り、お喋りすることの楽しさを知り、世界が広がっていった。そのとき母が味わった感動は、想像しきれないほどだっただろう。

 だからこそぼくは、母がかつて通っていた「宮城県立聾学校」を取材してみたいと思った。現在は「宮城県立聴覚支援学校」という名称になっている。そこへ向けて、祈るような気持ちで依頼状をしたためた。

 母がお世話になっていたこと。母にとって思い出の場所であること。その地を実際に訪れ、この目で確かめてみたいと願っていること――。

 すると教頭の高城邦弘さんから返信があった。

「本校でできることがあるならば、協力させていただきます」

 こうしてぼくは、母の母校を訪ねるため、あらためて宮城に向かうことにした。

※聴こえない母との会話では、手話の他、口話、筆談、ボディランゲージなどが入り混じっていますが、本記事では一律で表記を統一します。〔 〕内は筆者による補足です。また、文中に登場する人物は原則
仮名です。
なお、本記事では当時の時代背景や価値観を正確に理解するため、当事者の語りをなるべくそのままの形で掲載します。ご了承ください。

〈12月某日――一日目〉

 朝から急ぎの原稿を執筆し、その後、東京駅へ。新幹線の切符を購入後、お土産を買い忘れていたことに気づき、慌てて何軒か見てまわる。宮城県立聴覚支援学校の先生方に渡すためのものだ。美味しそうなチョコレートがあったので購入し、新幹線に飛び乗った。

 実家に到着したのは19時過ぎ。リビングの引き戸を開けるも、両親はテレビに夢中になっていて気づかない。テーブルの端を強めに叩くと、同時に振り向き、目を丸くする。

 ――おかえりなさい!

 夜ご飯には定番の刺し身や海藻の味噌汁などが並ぶ。試しに作ってみたというタコのカルパッチョが思いの外美味しかった。薄切りの玉ねぎとかいわれ大根の絡みがさっぱりしていて、淡白なタコととても合う。

 ――これ、どうやって作ったの? レシピ教えて。

 ――適当に作ったからもう忘れちゃった。

 大雑把な母に苦笑いする。入浴後、メール返信などの雑務をこなし、明日に備えて早めに就寝した。

〈12月某日――二日目〉

 昼前くらいから雨が降り出した。屋根を叩くような音がするので、母に「雨降ってるけど」と伝えると、慌てて洗濯物を取り込みに行く。どんなに土砂降りでも母には聴こえない。幼い頃、こうやって雨が降り出すと、いつも母に伝えていたことを思い出す。それだけではなく、炊飯器から鳴る「炊飯完了のサイン音」や、開けっ放しになった冷蔵庫の警告音なども母には届かない。そのたびに教えてあげると、「ありがとう」と言われてしまう。

 慌ただしく動き回る母がようやく一息ついたタイミングで、明日の予定を伝える。

  ――実はね、明日、お母さんが通ってたろう学校を取材させてもらうんだよ。

  ――そうなの!

  ――うん、だからその前に、当時のことを少し訊かせてほしいんだ。

  明日に備えて、母に事前インタビューをさせてもらうことにした。

――ろう学校に入学することになったときのこと、覚えている?

母:うん。お父さん〔筆者の祖父〕の車に乗って、お母さん〔筆者の祖母〕と一緒に見学に行ったの。先生方と面談したんだけど、そのときに「この子は本が読めますか?」って訊かれたんだって。お母さんは「読めません」って答えたみたい。その後もしばらく話し合っていたけど、どんな内容だったかは正直、わからなかった。でも、結局、入学することになったの。

――そのとき、どんな気持ちだった?

母:どうして地元の中学校じゃなくて、わざわざ遠いところにある学校まで通わなくちゃいけないのか、最初はよくわからなかったよ。ただ、学校見学に行ったとき、他の子たちがみんな手話で会話している様子を見て、とてもびっくりした。みんな耳が聴こえなくて、わたしも聴こえない。同じなんだって思ったの。

――お母さんはそれまで手話ができなかったんだよね。一般の小学校に入学したから覚える機会もなかったわけだし。そこからどうやって手話を身につけたの?

母:ろう学校に入学して隣の席になった横澤さんという女の子が、実は幼稚部時代に一度会ったことがある子だったの。「久しぶりだね」って話しかけてくれて。とてもおとなしくてやさしい子だった。その横澤さんが、わたしに手話を教えてくれたんだよ。たとえば、日常生活で使うような「靴」とか「トイレ」といった単語を、「どうやるの?」って訊くと、手を動かして教えてくれるの。半年くらいで手話を使って会話できるようになった。入学当初は他のクラスメイトや先輩たちとは話せなかったけど、横澤さんのおかげで話せるようになったんだよ。あるとき、帰りのバスのなかで先輩から話しかけられて、手話で答えたら、「きみ、手話できるようになったの?」ってすごくびっくりしてた。「友達に教えてもらったの」って答えたよ。

――横澤さんのおかげだったんだね。すごくやさしくて、ありがたい人だね。当時、同級生は何人くらいいた?

母:う~ん……、ひとつの教室に7、8人くらいいて、それが2教室分だったから、同級生は15人くらいだったかな? ただ同級生といっても、年齢はバラバラだったの。わたしも1歳上だし、横澤さんはわたしよりもさらに1歳上。なかには3歳上の人もいたんだよ。

――さまざまな事情で入学が遅れてしまうことがあったんだろうね。ろう学校での生活で印象に残っていることはある?

母:運動会があってね、マラソンで横澤さんが1位に、わたしが2位になったの。そうしたらみんなから「走るの速いね!」って褒められて、うれしかったな。ただ、横澤さんにはいつも敵わなかったんだよ。あの子、足が速くてね。

 それと修学旅行も思い出に残ってる。毎年、東京に行くことになってたの。ただ、わたしたちの前の代で旅行中に事故があったから、行き先が東京から秋田になっちゃったのよ。みんな、東京に行くのを本当に楽しみにしていたから、先生から「今年の行き先は秋田になります」って言われたとき、「つまんない!」って怒ってたよ(笑)。でも、行ってみれば秋田もとても楽しかった。二泊したんだけど、いっぱい思い出ができたよ。

 高等部に進学してからは、専門に学ぶものを選べるようになるんだけど、わたしは和裁と洋裁のふたつを選んだの。ミシンを使って、みんなで服を作るんだよ。学校で作った服を持ち帰って、お父さんお母さんの前で着てみせたら、「上手だね」って褒めてもらえた。得意だと思ったことはなかったけど、すごく楽しかった。

 ろう学校時代の話をするときの母は、本当に楽しそうな顔をみせる。特に横澤さんとの思い出話をするときの母はしばしば頬を緩め、ときには大笑いすることもあった。母にとってのろう学校は、言葉の獲得やわかりあえる友人との出会いなど、人生におけるターニングポイントという意味合いも強いのかもしれない。

 そんな母の話を聞きながら、母の青春時代が羨ましくなってしまった。ぼくは学生時代にあまりいい思い出がない。もちろん、ぼくなんかには想像もできないくらい、母には母の苦労があったのだろう。それでも、当時を思い出しながら目を細める母を見ていると、とても豊かな青春時代を過ごしたのだな、と羨ましい気持ちで一杯になってしまった。

 その日の夕飯は餃子。キャベツと豚肉だけを使ったシンプルなもので、ニンニクやニラが入っていない分、さっぱりしていてたくさん食べられた。明日、宮城県聴覚支援学校の取材を控えているので、匂いの強いものは入れないという母なりの心遣いもあったのかもしれない。

 母から聞いた思い出話を反芻しながら、明日の取材への期待が高まる。早めに寝ようと思ったが、なんだか変に緊張してしまって、夜更けまで寝付けなかった。

著者:五十嵐 大(いがらし・だい)
1983年、宮城県生まれ。ライター、エッセイスト。2020年10月、『しくじり家族』でデビュー。他の著書に『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』がある。
Twitter:@daigarashi

連載「聴こえない母に訊きにいく」について
CODA(コーダ)――両親のひとり以上が聴覚障害のある、聴こえる人。そんな「ぼく」を産んだのは、「聴こえない母」だった。さほど遠くない昔、この国には「障害者は子どもをつくるべきではない」という価値観が存在した。そんな時代に、「母」はひとりの聴覚障害者として、女性として、「ぼく」を産んだ。母の身体に刻まれた差別の記憶。自身が生まれるまでのこと。知らなかった過去を、息子は自ら取材することにした――。本連載では、その過程を不定期で読者の皆様にも共有してゆきます。


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