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「市民」と「研究者」のあいだに壁はあるか?|『「役に立たない」研究の未来』刊行記念イベント【文字起こし】

 2021年4月28日、下北沢の本屋B&Bにて、オンラインイベント≪西田藍×初田哲男×隠岐さや香×柴藤亮介「研究者と市民との幸福な関係のために、いま私たちが話しておきたいこと」≫がおこなわれました。4月14日に発売となった『「役に立たない」研究の未来』の刊行を記念したものです。

 同書は、令和の時代において、研究者たちはどのように基礎研究を継続していくことができるのか? 社会はどのようにその活動を支えられるのか? そもそも、私たちはなぜそれを支えなければならないのか? といった、一筋縄ではいかない問題について、各分野の一線で活躍する3名の研究者が白熱の議論を展開し、書下ろしを加えてまとめた一冊

 当日のイベントでは、理論物理学を専門とする初田哲男さんと科学史を専門とする隠岐さや香さんの両名にご登壇いただきつつ、SFへの造詣も深く、また「教養」という視点から人文社会科学の領域を眺めているエッセイストの西田藍さんをゲストに迎え、「一般市民」の目に研究者や研究活動がどう映っているのか、率直なご意見を伺いながら議論をおこないました。司会は本と同様、柴藤亮介さん(アカデミスト株式会社)。今回は、イベント前半部のトーク内容を「ダイジェスト版」としてお届けします。

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「推し研究者」はいますか?

柴藤 最初にひとつ質問を投げかけさせてください。みなさんには、「推し研究者」はいますか?(チャットルームにいくつか書き込みが続く)おお、結構いますね。ありがとうございます。実は、今回の本はこの一言から始まっています。

 我々はacademistというサービスを運営しておりまして、様々な研究者のクラウドファンディングのサポートをさせていただいているのですが、その中で、「役に立つ研究じゃないのですが大丈夫でしょうか」という声をいただくことがあります。どうしてこういう声が出てくるのだろう? と思ったときに、理由のひとつとして、研究者の顔が税金、つまり研究費となる「お金」を拠出されている方々に見えていないからではないか、と思ったのです。逆に言えば、そこをよりクリアにできれば、研究者が「役に立つ/立たない」ではなく、「面白いから」やっているのだと自信をもって言えるようになるのではないか。そんな仮説を立てながらサービスを運営しています。

 本日は、研究者ではない立場から西田藍さんをゲストにお迎えしていますが、ぜひ忌憚ない意見をいただければと思います。まずは西田さん、この本を手に取った瞬間どういう印象を受けましたか?

“雲の上の人たち”の(よくわらない)バトル

西田 この本を読んでいて思ったのは、そもそもの前提として、「役に立たない」とされる研究、つまり「基礎研究」というものが、どうして日本ではやりづらくなってしまったのだろう、ということでした。隠岐さんのパート(第一部)で、いろいろな研究者が研究の必要性を語ってきた歴史が説明されていてすごく興味深かったのですが、今の日本で基礎研究が軽視されるようになった経緯がそもそもわかりづらくって。というのも、基礎研究を軽視することって、別に一般市民が望んでしているわけではないですよね? もちろん、「研究者って好きなことばかりしていて良いご身分だな」みたいな偏見があるのはわかるのですが……。

柴藤 読みながら、そうした疑問に対する何らかの糸口はつかめましたか?

西田 なんと言えばいいのでしょう。例えば、科学研究に関する「政策」だとか、国立大学の「予算」だとか、そういうのを決める人たちは、私たち一般市民にとっては研究者同様“雲の上の人”みたいな感覚なんです。だから、どうして“雲の上の人”同士でバトルがおこなわれているのかな、というのはやっぱり複雑に思えました。

柴藤 なるほど、ありがとうございます。初田さんは、まさに西田さんが今おっしゃった“雲の上の人たち”に日々申請書を出されていると思うのですが、どう思われました?

「名誉」から「マーケット」へ

初田 西田さんのおっしゃったことは、すごくよく理解できます。僕もアウトリーチ活動や市民講演の場でお話をさせていただくのですが、みんなすごく面白がってくれるし、すぐに役に立たなくてもそれが人類の未来にとって大切なんですね、と言ってくれます。

 でも、いざ「研究費」の話になると、事情が違ってきてしまう。研究、特に実験をする研究者は研究費がないと何も進まないし、僕のような理論物理を専門とする場合は研究を担う人材がいないといけないので人件費が必要です。いずれにせよ、なんらかのお金がかかるわけですが、国に研究費を申請するときに、僕が学生だった頃と違って、今は資金獲得のための競争的な雰囲気がどんどん強まっています。国立大学でも、運営費交付金と呼ばれる研究費は――僕たちは「生活費」と呼んでいるのですが――減っていく一方です。だからこそ、“雲の上の人たち”を説得するために「これは役に立つんです」と言わないといけない状況が出てきている。隠岐さんなんかは、また違った観点から見られているかもしれませんけど。

隠岐 私は歴史家なので、カメラを少し引いたような話し方をさせていただきます。お金を出す“雲の上の人たち”のバトルというと、大学関係者内部の力学から、その上の行政における資金配分まで様々なレイヤーがあると思います。そうしたバトルはずっと、それこそ2、3世紀くらいにわたってあることです。

 そもそも、決定権をもっている人たちからすれば、「役に立たないもの」にお金を出せることが、ある種の「名誉」といいますか、ステータスだった時代がありました。昔の王様がそうだったのですけど、民主化し、かつ商業主義が浸透した現代社会ですと、そうも言ってはいられなくなってきている。結果、「それ役に立つんですか? 役に立たないのなら無理です」というやりとりが決定者と科学者とのあいだでしばしばおこなわれています。

 20世紀後半、それこそNASAのアポロ11号が月に飛んだ頃というのは、アメリカのような豊かになった国にとって、人類の夢のためにお金を出せるのは「名誉」なことでした。しかも、その技術が軍事開発にも「役に立ってしまう」ということがあったわけです。

 そういう「名誉」によって成り立っていたものが、20世紀末頃になると状況が変わってきます。つまり、人びとの関心がマーケット(市場)で売れるものをどう作るか、ということに向かっていくのです。すると、大学と政府間の力学だけでなく、そもそも「お金になるもの」を意識してね、という社会的風潮も強くなってくる。今の状況は、その延長にあるのだと理解しています。

 一方で、私も日常生活では――特に自然科学に対しては――みなさんと同じ普通の「市民」という立場ですから、面白いことは大事だよな、という気持ちがあります。文系の学問だと、お金もかからなくて単に面白いだけ、という研究もままあるので(笑)、好きな方も多いのではないかと思います。ただ、先ほども言ったような「名誉」とか「マーケット」について考えている人たちにとっては、そこにはあまり関心がないのでしょうね。

研究以外の仕事に忙殺される「研究者の日常」

西田 今のお話を聞いていると、“雲の上の人たち”には、市場原理ですべてを動かしていると未来は先細る一方、ということがわからないのだろうか、なんてことも思ってしまいます。近年おこなわれている研究費の削減も、「市民感情のようなもの」に無理やり理由をつけてやっているような気がするのです。

 正直なところ、一般市民にとっては研究の話題、特に理系の研究だと、「こういう発見がありました」みたいなことをニュースでしか知る機会がないので、遠い話なのです。「無駄遣いしないで!」と熱心に思えるほどでもない。だから余計にわかりづらいといいますか……。でも、研究者からすればお金をもらう側ですから、なかなか政治的に訴えるのが難しくなるのでしょうか?

初田 決定権を持っている人たちと、研究の現場にいる人とのあいだには、やはり大きな乖離がありますね。例えばアメリカだと、お金を配分する立場のトップに科学者出身の人がいたりするのですが、日本はまったく状況が違います。やっぱり、政治家や官僚が「科学の本質」をわかっていないわけです。じゃあ、どこから変えていけばいいか、というのは僕にはまだわからないのですが、やっぱり内側から変えていく必要があるのだと思います。

西田 この本には、「研究者の人って、研究だけしていればいいわけじゃないんだ」という素朴な驚きもありました。読者のみなさんもそうなのではないかと思います。研究だけをしていればよくて羨ましいとか、そういう気持ちを抱く人もいると思うのですが、それだけじゃないんだ、ということがわかります。

初田 そりゃあもう! 日常は全然違います(笑)。もちろん、研究だけしていられたら嬉しいですが、研究するには資金の獲得も必要だし、次世代の人材育成も必要だし――まあ後者のほうは嫌じゃないんだけど、とにかく、研究室にひきこもって実験や計算だけしている研究者像というのは事実と異なります。隠岐さんも相当忙しいでしょう。

隠岐 そのあたりは最近、自分の中でも課題でして、どんどん研究だけをしていられなくなっています。確かに、そもそも研究者というのは――特に私は大学教員なので――「先生」でなくてはいけない、ということがある。つまり、人を育てる仕事です。でも、研究者であることと、先生であること以外の仕事がどんどん増えてきている……。もちろん本当に仕事が増えているのか、そう思い込んでいるだけなのかは自信がないのですが、なんだかひとりの人間に対して求められることが多すぎるのではないか。

 同時に、管理職的にふるまう必要性が出てきたといったときに、そういう振る舞い方は誰からも教わったことがないというか、実地で知らなければいけないことがかなり多いのです。なんだかぼやきになってきちゃいましたけど……それをうまくこなせる人が生き残るシステムでいいのかという問題と、研究以外の仕事が増えすぎていないかという問題の二つが私の中にあります。

「お金」の速度だけが上がり、「人間」が取り残される

西田 日本の大学はもともとそういうところだったのでしょうか。つまり、もともと研究を重視するような場ではなかったのか、昔はもっと研究に専念できていたのか。

初田 以前は違ったと思います。僕が大学院にいた頃の先生たちもそれなりに忙しかったと思いますけど、自分がそのくらいの歳になったときの忙しさと比べたら、やっぱり彼らのほうが研究する時間があったと思います。さらに、二世代上くらいになると、もっとゆっくり研究できていたし、本も読めていたと思います。だんだんと変わってきたのでしょう。僕のライフスパンで見ただけでもそういう傾向があるのだから、隠岐さんの世代はこれからもっと忙しさが加速していくんじゃないかな……。

隠岐 人間の限界というのがあるので、際限なく忙しくはならないと思いたいですが(苦笑)、そうですね……研究に専念できるかどうかといったとき、時間的な変化はもちろんあるんですけど、リソースの問題もあるのではないでしょうか。

 例えば日本でも、明治期に帝国大学ができて、大正になった頃というのは、研究そのものを輸入している段階でしたから、研究の比重は高くなかったと言えます。海外の文献を読み、知識を吸収することのほうが多い段階でしたから。でも、そういうベースがあってこそ、だんだんと力がついていき、研究できるようになっていったのです。

 今や悲しいことですが、研究はしないでね、と言われる大学さえ存在するようになってしまいました。ある程度研究できる大学と、過疎地域などで、一応「大学」という名は付いているのだけど、周辺住民からもあまりそういう活動は求められていないような大学とに分かれてしまっている。研究できることがある種の「特権」に見られるような空気は、強まっているように思えます。簡単に答えは出ないのですが、いずれにせよ、余裕がないと研究しようと思えないし、研究する人を肯定的にみられない。それが私たちの習性なのでしょう。

初田 これからゴールデンウィークが始まるところですよね。僕は理研にあるiTHEMS(アイテムズ)という研究組織のディレクターを務めていて、4月から5月というのは、来年度の予算を政府に要求するための書類作成と、昨年度の研究成果を報告する書類作成と、それらの書類を準備するためにおこなわれる理研内ヒアリングの書類作成が重なるのです。毎年、ゴールデンウィークは朝から晩まで何かの書類を準備しています。基礎研究にとってはとても短い1年という期間で、評価→報告→評価→報告→……がルーチンになっている。もし、この書類作成にあてる時間を少しでも研究に使えたらみんなハッピーだと思うし、もっと研究成果も上がるのに(笑)、と毎年のように思いますが、国としては、お金を出しているのだから、何をどこまでやったのかを報告させたいのでしょう。ものすごい悪循環に陥っています。

隠岐 それに絡めて発言しますと、構造的に、回転の速い資金がどんどん外、つまり国から大学に入ってくるようにした、という流れがあるのですよね。これまでは運営費交付金という「変化しないお金」が安定的に出ていたわけですけど、それに代わって競争的で速いお金が入ってくるようになり、関連する事務作業などよくわからない仕事が大量に発生するようになった。もちろん、それで雇用も増えたのかもしれないですが、もはや人間の能力を超えたレベルまでお金の回転速度が上がっているのではないか。

「研究者」という仕事を伝える

柴藤 ありがとうございます。ここからは「アウトリーチ活動」の話もしていきましょう。冒頭で西田さんからコメントがあったように、研究者が普段何をしているかわからない、という人はまだまだ多いと思います。サイエンスカフェや大学祭での講演、書籍の出版など、研究成果を伝える場というのは様々ありますが、研究者のことを知るために、もっとこんなことがあったらいいな、というご意見はありますか?

西田 「研究者のこと」というよりも、「研究者になる道」があるということを、進路を選ぶ際に知らない子も多いと思うのです。もちろん、それを当前と思って大学に入る人もいると思うのですが、大学に入ってそのまま院で研究することが、ある種の「贅沢」に思われている部分もあると思います。だからまず、「研究者」という仕事があって、彼らはこんな生活をしているんだ、ということが伝わったらいいですよね。

 私は研究者が書いた本が好きでよく読むのですが、例えば『重力波は歌う』(ジャンナ・レヴィン著)なんかを読んだときには、こうやって研究は進んでいくのか、というストーリーが面白くって、「研究者の人ってこんなことをしている人なんだ!」という新鮮な感動がありましたし、身近に感じることができました。

初田 ああ、あの本はそうですよねえ。日本でも、物理学の分野だったら村山斉さん、大栗博司さん、橋本幸士さんなど、研究活動の面白さや研究者の日常を外向けにわかりやすく発信できる人が何名かいらっしゃいます。「研究者の日常」を知ってもらうのは本当に大事ですが、研究現場に来てもらって見てもらうわけにもいかないし、啓蒙書を書く才能と研究する才能は必ずしも一致しないので悩ましいですね。発信できないから研究者としてダメだ、というわけでは全くないですし。

 それと、「研究者って面白いからみんなに目指してほしい!」と言いたいのは山々ですが、今の日本で博士号をとったあとに、例えば企業にどんどん高待遇で採用されるかというとそんなこともないわけです。もちろん少しずつ変わってはいるけど、日本ではまだ厳しい。一方で、博士号取得者がアカデミアで職を得ることだけをゴールにしてしまうのも違うと思う。研究者にはいろいろな活躍先があるということを、自信を持って伝えられれば良いのですが……。

教育から「研究者」観を変えていく?

西田 実は私、小学生2年生のときの担任の先生に、「博士号はおかしい人しかとれない」と言われたんですよ(笑)。なので幼い頃は、ずーっとガリ勉しているような人しか「博士」になれないんだ、と思ったんです。

初田 その先生の発言は……まずいなあ(笑)。

西田 でも、私は本が好きだったおかげで、研究者になった人たちの本を読むことができたし、そのときに全然そんなことはないんだ、と軌道修正できました。先ほど隠岐さんが帝国大学の話をされましたが、あの時代は、偉い先生がなんだか偉いことをしている、と思っておけばそれで済んだと思うんです。けど、今は階級意識も薄れて、単純に偉い人は偉いんだ、と思えなくなった分、反発心も生まれてしまっているのではないでしょうか。インターネットでもそういうコミュニケーションを目にします。

 でも現実には、初田さんがおっしゃったように、若い研究者が苦しかったり、そもそも研究する場がなかったりする。さらに、そういう状況に対して、好きなことをしているのだから自己責任だろう、と言い切ってしまう風潮もある。これはもう、教育自体の軽視というか、そういう流れが何十年も続いているんだな、と思います。

隠岐 アウトリーチの問題と並行して、西田さんがおっしゃったように、「教育」の問題も考えないといけないですね。

 私自身が受けてきた教育を考えてみると、むしろ良い教育を受けさせてもらったと思うのですが、特別に進学校にいたわけではなかったので、研究職につく人がたくさんいるような中学・高校ではありませんでした。いい意味で「普通」。まあ、この「普通」というのも難しい言葉ですが……。とにかく、日本学術会議を叩きたくなる人がいるのも想像がつくくらいには、いろんな人がいました。つまり、「研究者=異質な存在」というような教え方は、私が学生だった頃にもなんとなくあったわけです。

 でも、現実には大学含め、これまでの仕組みが崩れてきているし、インターネットにもいろいろな人がいて、研究者でさえひとりで匿名含め2つか3つアカウントをもっている人がいる。それ以外の人だって、もちろん同じことをしている。毎日、何気なく趣味や生活の話をしているネット空間で、研究者とそうでない人がお互いの素性は知らず、何年間も知り合いだったりする現実があるわけです。

 また、逆にそういう情報空間だと、好きなことのために、特に研究を職業にしてはいないけど、研究者のように物事を探求している人に出会うこともあります。

 研究者である私も含めた側が、そういう現実とうまく付き合えていない。言語化できていないんです。でも、これからはもっとそうしたことを踏まえて、教育現場でも、研究というのは身近なものなんだよ、と言えればいいし、言っていかないといけないのだと思います。もちろん、教育を変えると言ったところですぐに変わるわけはないので、その分、真剣に考えていく必要がある。そうしないと、みんなそれぞれ自分の狭い世界の中でだけ考えて、違うことを言い合っているということになってしまいますから、そうなると怖いですよね。

「市民」と「研究者」との垣根を超えていこう

柴藤 ありがとうございました。逆に研究者の側から、研究者ではない立場の人に対して何か求めることはありますか?

隠岐 うーん、難しいですね。今のご質問は「職業研究者」という意味で言っているのだと思うのですが、多分、人間って本質的にはみな「研究者」なんじゃないか、と思うのです。研究は「好奇心」ですから。あるいは、「自分自身について考えること」ですから。

 だから、本来「研究者」というあり方は人間の本質なのだけど、それを制度に落とし込んで「職業化」した、つまりお金を儲けるようにした結果が「職業研究者」なのです。本来、両者はそんなに違わないはずなのに、違うものに思われています。だから私は、この問題については「一緒に考えませんか?」とだけ言いたいです。

 もちろん、「異質なもの」として感じられてしまう原因は職業研究者の側にもあって、例えばたくさんお金を使っているだとか、よくわからないものを作っているだとか、なんだか偉そうとか、それこそいろいろあると思うのですが、「探求心」を持っている点では本来みんな同じではないでしょうか。

初田 昔は「研究者」というと大学や研究機関で基礎研究をおこなう人のことを言っていましたし、一般の方々にもそういう固定観念があったと思います。でも、最近は情報革命とか量子革命とか言われるようになり、応用研究だけでなく基礎研究をする研究者が企業にも増えてきています。例えば、量子コンピュータのアルゴリズム研究などでは、企業の研究者が基礎的な論文を書き、アカデミアの研究者がそれを読んで議論する、ということが当たり前になってきました。

 21世紀の後半にはきっと「研究者像」も変わって、基礎研究においても企業とアカデミアの垣根が下がり、もっと交流が活発になるでしょうし、そうしていかなければいけないと思います。文科省や財務省に一生懸命頭を下げてお金をもらいにいくだけではなく、違う形で研究を支える仕組みができたらいい。ただこれは自然科学に偏った話なので、人文科学・社会科学に同じことが言えるのかはわからないですが。

隠岐 実は、人文社会科学のほうはもっと垣根がないんですよ。例えば歴史学に目を向けると、もともと郷土史は地域の公民館とか役所の人が担ってきました。フェミニズムであれば、いわゆる「在野」から本を出して有名になる人がたくさんいます。人文社会科学には、マージナルというか、大学から見たら「周縁的」なのだけど、外の世界と活発な交流がある、場合によっては社会運動とつながっているような分野があるのです。

 こうしたもともと垣根が曖昧なところに、「研究のための大学」にならないといけないということで大学の制度的な論理を持ち込んだために、むしろ一緒にやっていけないという断絶が生まれることもあります。もちろん一概には言えなくて、分野ごとの差もありますが。

 いずれにせよ、そういったときに「大学」が特殊なのは、先ほどから話題に出ている「人を育てる」という機能なのですよね。企業や役所とは別のミッションがあるから、「教育」という点での差異化は可能だと思います。

「ワイワイ」やっている空気をつくってほしい

柴藤 今日は西田さんのコメントから始めさせていただきましたが、ここまでのお話を聞いてみて思ったことはありましたか?

西田 私は、割と科学が好きなほうの子どもでした。でも、先ほど申し上げた通り、学校に置いてある科学雑誌やテレビのドキュメンタリーに出てくる研究者たちが、実は研究以外の部分でこんなに大変な思いをしているんだ、というのは今回の本を読むまで、そして直接お話をするまでは知らなかったです。

 もちろん、ツイッターにそういう苦労を書かれている方はいるので、なんとなくは知っていたのですが、詳しく知れば知るほど、どうして今みたいなことになっちゃったんだろう……と思います。でも、ひとりの「科学ファン」としてはとにかく、研究者のみなさんにはもっとワイワイやってほしいです(笑)。そこから研究者と市民のコミュニケーションも変わっていくのではないでしょうか。

柴藤 ありがとうございました。前半戦はこれくらいにして、休憩を挟みましょうか。 

[構成=天野潤平]

プロフィール

【ゲスト】西田藍(にしだ・あい)
1991年熊本県生まれ。アイドル、モデル、エッセイスト、書評家。『anan』『ユリイカ』『SFマガジン』『週刊新潮』『メガネbegin』などに寄稿。『人生を変えるアニメ 』(河出書房新社)にもエッセイを寄せる。SFへの造詣も深く、『サンリオSF文庫総解説』(本の雑誌社)の表紙モデルや、『SFマガジン』(早川書房)として初のカバーガールも務めた。
【登壇者】初田哲男(はつだ・てつお)
1958年、大阪生まれ。理化学研究所数理創造プログラムディレクター、東京大学名誉教授。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。東京大学大学院理学研究科教授、理化学研究所主任研究員などを経て、現職。専門は理論物理学。仁科記念賞、文部科学大臣表彰(科学技術分野)などを受賞。著書に『Quark-Gluon Plasma』(共著、ケンブリッジ大学出版局)、翻訳に『「役に立たない」科学が役に立つ』(監訳、東京大学出版会)などがある。
【登壇者】隠岐さや香(おき・さやか)
1975年、東京生まれ。名古屋大学大学院経済学研究科教授。東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。博士(学術)。広島大学大学院総合科学研究科准教授を経て、現職。専門は科学史。日本学術会議連携会員。著書に『科学アカデミーと「有用な科学」――フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』(名古屋大学出版会)、『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書)など多数。
【司会】柴藤亮介(しばとう・りょうすけ)
1984年、埼玉生まれ。アカデミスト株式会社 代表取締役CEO。首都大学東京理工学研究科物理学専攻博士後期課程を2013年に単位取得退学。2014年に日本初の学術系クラウドファンディングサイト「academist」を立ち上げ、研究の魅力を研究者が自ら発信するためのプラットフォーム構築を進めている。大学院での専門は原子核理論、量子 多体問題などの理論物理学。

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