紫式部の日記と歌集
2024年度の大河ドラマは「光る君へ」。
珍しく舞台が平安時代、しかも主人公が紫式部というビッグネーム。
紫式部といえば、第一に挙がるのは『源氏物語』だと思いますが、この他にも、『紫式部日記』と『紫式部集』が残されています。
『―日記』と『―集』は、フィクションの『源氏―』と違って、紫式部自身の記録ですから、ドラマでも素材として使われそうです。
注釈書の間で解釈が揺れている部分が、どうなるのかも気になります。
さて、『―日記』と『―集』は、全く別の作品ですが、『―集』の中に、『―日記』と重複する歌があるので、切っても切れない関係にあります。
このnoteでは、『―日記』と『―集』の関係についてまとめました。
紫式部集日記
紫式部が使えた中宮彰子は、第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)の出産の際、道長の邸宅である土御門殿に里帰りしています。
『紫式部日記』は、この時の寛弘5年(1008)秋から始まり、以降約2年の内の出来事が、断片的に記録されています。
テキストの底本としてよく用いられるのは、宮内庁書陵部蔵「黒川本」。画像で閲覧可能です。
有名なエピソード
紫式部が、清少納言を「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」と批判したのは有名な話。
また、”紫式部”と呼ばれる所以である、藤原公任に「このわたりに我が紫やさぶらふ」と言われたことも、『―日記』に見える記述です。
同時代に活躍した女流歌人である、赤染衛門・和泉式部についても、歌がとても上手いとか、見習っちゃいけない部分があるとか、色々と言っています。
現代の「日記」とは違う
古典文学の「日記」は、現代のプライベートなダイアリーとは違って、他人に読まれることを前提としています。ブログに近いです。
なので、先のような女房賛美・批判も、読者(息子・娘など)を想定した上で書かれたと考えられます。
紫式部集
『紫式部集』は、紫式部の和歌をまとめた歌集(家集)です。
『新古今和歌集』と、百人一首に選ばれた、「めぐりあひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月かな」の歌が、一番初めに書かれています。
伝本の系統
伝本の整理は、南波浩の研究成果(南波1982)に拠るところが大きく、主に「①定家本系統」と「②古本系統」に分けられます。
①定家本系統の最善本は「実践女子大学本」。
本奥書には、「京極黄門(藤原定家)筆跡本」を忠実に書写しました、ということが書かれていて、由緒が明らかな本です。
書写したのは「天文廿五年」。天文は24年(1555年)までしかありませんが、この程度なら問題になりません。大体この頃に書かれた本というのは、間違いなさそうです。
また、和歌が1首2行書きで書かれているのもポイント。
時代が新しくなればなるほど、1首1行書きが基本になります。
②古本系統の最善本は「陽明文庫本」。
陽明文庫本は江戸時代初期の本ですが、本文を読みやすく改変した形跡があまり見られないので、古態を保つテキストとして、信用されています。
古本系にしかない「日記歌」
①定家本系と②古本系は、1~55番歌までは大体和歌の順番が同じなのですが、56番歌からズレが生じています。
また、②古本系の末尾には、「日記歌」という題で、17首が書き加えられています。
そのうち、
・最後の1首は『後拾遺和歌集』からの補入
・6~16番歌は、『紫式部日記』からの抜書
と考えられています。
では、1~5番の歌はどこから? ここが論じられる点です。
定家本系からの補入か?と考えると、定家本系は、古本系をもとに、「日記歌」の歌を家集全体のしかるべき箇所にちりばめたものとされているので、成立の順番が前後してしまいます。そう単純にはいかないですね。
まとめ
今日伝わる『紫式部集』古本系統の本文が出来上がるまでには、『紫式部日記』との接触がありました。
原形の『―集』から、どのような経緯で、現代に伝わる定家本系統と古本系統に分かれたのか、考察する論もあります。
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