「知的である」=物知り、ではない。
ハカセ君はつまらない。
いろいろなことを知っていて、聞けば答えを教えてくれるけれど、そういった物知り君は物語の中において大抵隅っこの方に存在している。
彼らは知識としてモノを知っているだけで、行動しようとしない。
飛び立とうと決意しているカモメも、飛びたくないと地面に這いつくばっているカモメも、はたから見たら同じ「飛んでいない」一羽の鳥に過ぎない。
1、知識と知恵の違い
ニーチェは「おのれをおのれの力で根拠づけることのできる人間」を貴族と定義した。
貴族は行動を起こすために外的刺激を必要としない。
知性は形あるものではなく、形を形成する力のことである。
とある哲学者は知性をこう定義した。ニーチェがいうところの貴族は知性ある人のことだ、と。
形を形成する力とはなんだろう。
少なくともそれは、情報を情報のまま抱えるだけでは得られないものだ。
現代社会に溢れる情報量は膨大だ。テレビやインターネットを通して毎日のように玉石混交の情報が舞い込んでくる。
それら一つ一つを適切に取捨選択し、知識として蓄える。それが知的なことだとずっと思っていた。
でもどうやらそうではないらしい。
そのことに気がついたのは割と最近のことだ。
ものを知っていることが重要なのではない。
知った上で自分はどう考えるのか、その知的活動こそが大切なのだ。知識という名の情報を頭と体に流し込んで、濾過された抽出液こそが価値あるもの。
それこそが、自分だけのオリジナルの知恵となる。
2、ウィキペディア君は一人いれば十分
ハカセ君がつまらないのは、彼が話す言葉は知識のレベルに留まっているからだ。
ウィキペディアは一つあれば十分だから、ハカセ君は現代社会において価値ある人とみなされない。
たとえ口下手でも、言葉を間違えても、自分の中で咀嚼して自分の意見を口にする人の方が接していて面白い。
僕はそんな人と友達になりたいし、自分もそうでありたいと思っている。
ただ一つ、忘れちゃいけないことがある。
自分の意見として考えたものは、結局のところ誰かの意見、誰かの言葉を脚色したものである場合が多いということ。
作曲の勉強をしていない人がオリジナルの曲を作ると、どこかで聞いたことのあるメロディーになってしまうように。
本当の意味でオリジナルの言説を唱えるのはとても難しい。
でもそれでもいいじゃないか。
たとえ誰かの言葉をベースにした意見であっても、自分の実体験に乗せて口にしたのなら、それはもう自分のものだ。
堂々と話せばいい。
そしていつか、真にオリジナルの知恵を披露できるようになったとき。
それは知的に成熟した証となる。
それまではどんどん情報に触れよう。
自分の意見を添えて、たくさん発信しよう。
見てくれる人は今ここにいるのだから。
<空澄 遊>
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