見出し画像

【小説】夏の葬列

「お姉ちゃんは夢って見る?」

 妹の声を聞いて、菜月は顔を上げた。

 目の前には明日香の疲れた顔があった。目の下にはクマができていて、肌の張りもなかった。二十歳の大学生には見えないな、と菜月は思いつつ妹にたずねた。

「夢っていうのは寝てるときの? それとも将来の?」

「寝てるときの」

「あまり見ないかな。でも、それは覚えていないだけで、実際は見てるのかもしれないけど」

「わたしはね、よく見るの。でもほとんど覚えてられない。すごく面白い夢や、すごく悲しい夢だなあって感覚はあるんだけど、内容が思い出せないの。いつも布団の中でうたた寝しているときに思い出そうとするけどダメ。すごく面白くて、ああ、これはそのまま小説とかにしたら絶対いいなって思うんだけど、どうしてもまどろみの中に引きずり込まれちゃう」

「ビートルズの『イエスタデイ』だ」

「何それ?」

「ポール・マッカートニーが夢の中で聞いた曲をそのまま作ったのが『イエスタデイ』なんだって。夢っていうのは潜在意識のあらわれで、それをヒントにアーティストが作品を創るのは、わりとよくある話よ」

 潜在意識、と明日香は姉の言葉をくり返した。


 そのとき丁度、ファミレスの店員が注文を取りに来た。二人はドリンクバーを頼んだ。朝から何も口にしていなかったが、お互いに食欲はなかった。平日早朝のファミレスにあまり客はおらず、何人かの年配の客がモーニングを食べているだけだった。二人はアイスコーヒーをグラスについで席に着いた。

「それで夢がどうしたの?」と菜月は妹にたずねた。

 たいした話じゃないんだけども、と前置きしてから明日香は言った。

「昨日ね、すごく鮮明な夢を見たの。とてもリアルで、朝起きたときに、あれ、どっちが本当の現実なんだろうって迷っちゃうくらいの。それでいてなんだか変な夢」

「変な夢?」

 明日香はうなずいた。

「聞きたい?」

「うん、聞きたい」

「つまんない話だけど、かまわない?」

「かまわない」

「夢だから突拍子もなくて、おちみたいなものも、なんにもないけども」

「いいわ」

 明日香はコーヒーをひと口飲んだ。そして語り始めた。


「それはとても暑い夏の日なの。どこかのお寺の境内で、セミの声がすっごく鳴っている。ミーン、ミーンてそれだけが世界中を支配しているかのような音。
 
 そのお寺には何人かの人たちがいて、どうやらお葬式をしている最中らしいの。みんな喪服姿だったし、沈んだ表情で、ハンカチで顔を抑えている女の人がいて、手には数珠をしていて。

 それでお寺の一室にね、遺体が置かれている部屋があるの。畳の上に寝かされていて、顔には白い布がかぶせてあって。わたしは遺影を見るんだけども、その顔はなぜかぼやけてるの」

「誰だかわからないの?」と菜月は訊いた。

「うん。顔の部分が白くのっぺらぼうみたいになっていて、そこに人が写っているのはわかるんだけども、誰かはわからない。

 そうしたらね、急にその部屋に一匹の蝶がふわふわ飛んできたの。すごく儚い感じの、吹けば飛んでいっちゃいそうな蝶。

 それがとっても幻想的で、ああ綺麗だなってずっと目で追っているんだけど、そのままどこかへ行ってしまうの。でもね、ここまではとても綺麗なんだけど、変なのはここからなのよ」

 
 明日香はそこで話を区切った。そしてグラスの氷をストローで二、三度つついた。まるで注意を喚起させる合図のように。これから大事な話が始まりますよとでも言うように。

「いつの間にか遺体の前に小さな女の子が座っていたの。腰まで伸びた黒髪を二つ結びにしていて、小学校に入るか入らないかくらいの年齢だと思う。すらりとした細身で、白い襟のあしらってある黒いワンピースを着て、じっと前を見て座っているの。

 おそらくその子は、そこで横たわっている人物の子供なの。それがなぜか私にはわかるの。そして寝ているのは、たぶんその子のお母さんなの」

 お母さん、と菜月は言葉をはさんだ。

 明日香はうなずいた。

「それでね、気がつくとほかの人たちが集まってきていて、いろんな話を始めるの。親戚の人が葬式のときによくするような話を。あの人は本当にいい人だったね、とか、まだ亡くなるような歳じゃないのにね、とか。

 すると一人のおばさんがわたしの隣に来て、遺体の前の女の子について話し始めるの。あの子はまだ小さいのに全然泣かないでえらい、とか、しっかりしてるのはお母さんゆずりね、とか。

 それを聞いてるとね、わたし、なんだかすうっと気が遠くなる感じがして。だってとても暑い日で、セミがずっと鳴っていて、綺麗な蝶が飛んできて、みんながヒソヒソ話をしていて……

 そうしたら急にね、その遺体の前の女の子がぽつりとつぶやいたの。

『ああ、せいせいした』って。

 でも、何てことはないの。隣のおばさんが言うには、それはその子のお母さんの口ぐせらしいのよ。

 おばさんが言うには、『あの子のお母さんはね、掃除とか食器洗いとか何かひとつ仕事を終えると、ああ、せいせいした、って言うのが口ぐせだったの。あの子はお母さんの真似をしているのね、かわいそう』ということらしいの。

 わたしはその話を聞いてどこかほっとしたんだけども、急に気になり始めちゃって」


 明日香は姉の目を見た。

 菜月はその視線をそらさないまま妹にたずねた。

「何が気になるの?」

「この子は一体誰なんだろうって。でも、わたしはなぜかその場を動くことができない。そしてその子は前を見たまま決して振り向かない。だから、もういてもたってもいられないくらいなんだけど、どうしてもその子が誰だか知ることができないのよ」

 そこで明日香は息を吐いた。静かで、深い息だった。そして彼女は再びグラスの氷をストローでつついた。重要な部分は終わりましたよと合図するかのように。

「その後は急に場面が変わって境内の外になってるの。ほら、夢だからその辺のつじつまはいい加減なわけよ。

 でもね、そこはすっごい綺麗なところなの。遠くに山がうっすらと見えて、そこまでずっと白い砂利が広がってて、見渡す限りの白い大地。それに雲一つない青空で、もうセミは鳴ってなくて、真空みたいにしーんとしてて。

 そこを石畳の道が一本通っていて、わたしたちの葬列が通っていくの。夏の葬列。すごい仰々しくて、たぶんその土地の伝統にのっとった格式のある葬列なんだと思う。

 それでぼんやり石畳の道を歩いていると、隣のおばさんがお菓子をくれるの。それは〈ヒトデナシの実〉っていう名前のとくべつな金平糖で、それを道にまくのがしきたりなんだって。

 その金平糖はとってももろくて割れやすく、地面にまくと粉々に砕け散って、見えなくなっちゃうのよ。そのありさまが『人でないもの』、つまり『見えない霊が食べているようだ』ってことで、葬列のときにまくしきたりなんだって。

 すっごい綺麗だったな。色とりどりのガラスみたいな金平糖で、軽くて、すきとおってて。石畳にぶつかると、砕けて、飛び散って。何もかもがきらきらしてるの」

 

 明日香は話をやめてアイスコーヒーを飲んだ。

 菜月はしばらく話の続きを待っていたが、何もなかった。

「続きは?」

「これで終わり」

「終わりなの?」

 夢だからとうとつなの、と明日香は笑って言った。

「ごめん、おちもなんにもなくて」

「ううん、別に」

 菜月は大きくため息をついた。そして否定するように言った。

「変な話」

 明日香は微笑んだ。

 そこへ菜月たちの父親がやってきた。彼は菜月たちと同様に疲れた顔をしていた。

「叔母さんが来た。あいさつをしに行こう」と父親は二人に言った。


 *


 三人は連れ立ってファミレスを出た。歩いて三分のところに葬儀会館があった。入り口には菜月たちの家の葬儀看板が立てられていた。

 ロビーには親戚たちが集まっていた。皆、喪服に身を包み、数珠を手にしている。

 叔母が菜月たちのもとにやってきた。彼女は北海道に住んでおり、様々な事情のため昨夜の通夜には出席できず、今日の葬式からの参加だった。

 叔母はお悔やみの言葉を父親に伝えたあと、菜月たちに向かって言った。

「二人ともよく頑張ったわね。お母さんも悔いはないと思うわ。最後は家に帰ってこれて六カ月も過ごせたんですもの。病院を出たときは余命一カ月の話だったじゃない。これもすべて二人がお母さんのことを一生懸命看病してあげたおかげよ。家で看取られて、お母さんも幸せだったと思うわ。お父さんが仕事で忙しいなか、あなたたちだけで介護し続けるのは本当に大変だったでしょうけど」

 

 *


 葬儀はつつがなく進み、菜月たちの母親の棺は火葬場へと運ばれていった。

 棺がベルトコンベアで炉の中へ運ばれていくとき、しゃっくりのような音が聞こえてきて、菜月は横を向いた。見ると、明日香が泣いていた。

お姉ちゃん、と明日香は言った。その唇は震えていた。

「わたし、お母さんにもっと生きていてほしかったのに。ちゃんとそう思っているのに。せいせいなんてしてないのに」

 明日香は声を上げて泣いた。

 その瞬間、菜月は妹の肩を抱き寄せた。そして力いっぱい抱きしめた。それは、いくら親の葬式でもそんなに激しく抱きしめるのは変なんじゃないかと思うくらいの力強さだった。

 何人かの人が二人のことを見ていた。でも二人にはどうでもよかった。

「わかってる」と菜月は妹に言った。

 そして妹の体を両手で覆い、もう一度力強く抱きしめた。その現実的な力強さで、夢は夢にしか過ぎないことを示すように。

「大丈夫。私はちゃんとわかっているよ」

この記事が参加している募集

熟成下書き

ありがとう