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スピリチュアリティ(霊性)について

以前、「マインドフルネス・ビレッジ」で行なった藤井隆英さんとのオンライン対談「スピリチュアリティとマインドフルネス」の中で、私が語った部分(25分ほど)の、レジュメというかテープ起こしというか、そんなものをアップします。

曹洞宗の僧侶である藤井さんが「禅とスピリチュアリティ」について、そして私が「整体とスピリチュアリティ」についてお話ししまして、その後皆さんでシェアリングを行うという、そんな会でした。

実はこのとき私はコロナ上がりの自主隔離中で、何となくボンヤリしていたんですけど、そんな状態の方がよく口が回ったりして、また不思議です。

多少加筆や訂正を入れましたが基本ざっくりな文章なので、ひょっとしたら「?」となるところもあるかも知れませんが、よろしかったらどうぞ。

1.3つの健やかさ

こんばんは。山上です。今日はスピリチュアリティ(霊性)ということがテーマなんですけど、後半に皆さんでシェアリングを行なうということなので、私からは今日はちょっとした問題提起というか、あえて「どうなんだろう?」と考えていただくようなことをお話ししてみたいと思います。

私たちの社会は「個人の健康/幸福」ということについて、長い時間をかけて取り組んできました。それはだいたい次のような順番で進んでいったように思います。

  1. 身体的な健やかさ:食料増産、安全保障、保健衛生、医療…など

  2. 心理的な健やかさ:精神医療、カウンセリング、働き方、人権…など

  3. 霊的な健やかさ:自己実現、生涯学習、社会活動、体験型ワーク…など

時代は「霊的な健やかさ」を視野に入れた時代に入ってきていますが、それは身体的な課題や心理的な課題が一つ一つクリアできたからというよりも、ただより包括的な概念にバージョンアップしてきたということなのかもしれません。

ですから、身体的とか心理的とか霊的とか、その定義や境界というものがむしろ曖昧に覚束なくなってきているように思うのです。

2.ゆらぎ始めている物語

最近、心理学者の東畑開人さんという方が注目されていて、私も大変興味を持って追いかけているのですが、「心はどこへ消えた?」という本を出されています。

面白いのでぜひ読んでいただければと思うのですが、そのタイトルの通り、私たちはいま「心とは何か?」ということについて、大きな壁にぶち当たっています。

心理学という学問も過渡期を迎えていて、世の中で通説のように語られてきたさまざまな心理実験(吊り橋効果、監獄実験…)が、改めて実験内容を確認すると、どうにもその論拠が覚束ないという感じになってきていて、「人の心」というものを定義し直さないと、いったい何の研究をしているのか分からないような状態にもなってきているのです。

昔であれば、男はこういうもの、女はこういうもの、日本人はこう、といったようなある種の共同幻想が強く存在していて、それは良くも悪くも私たちの身振りや立ち位置を固めていました。

それは狭っ苦しくもあったけれど、自分のことについて考えないで済んだ、ということでもありました。心とか、スピリチュアルとか、そんなことを考える必要がない。要らなかったんです。

ところが世界中がボーダーレスにつながってきた現代、仕事も住むところも付き合う友人も信じる宗教も、自分で選択し決定することのできる時代となってきました。

そんな世界にあって、私たちは出来合いの物語や共同幻想というものに立処を置くことが難しくなってきたのです。

そうなると、どうしても「自分は何者でどうしたいのか?」ということと、個人で向き合わざるを得なくなります。

だから自分の神話、自分のルーツというものを、自身でしっかり立ち上げていかなくてはいけない、そんな時代になってきたのだと思います。

3.人はサイコロを振る

ところが、これだけ自由に自己決定できるようになったからこそ、ルーツというものを持つのが難しくなってきました。

何故なら自己決定してきた選択肢を並べることは、決して神話やルーツにはなりえないからです。自己決定というのは、自分らしさを表出しているように見えながら、その土台にはならない。

人間は「必然性」と「偶然性」を混ぜたくなるのです。

「最後の神頼み」という言葉のように、最後に占いの後押しが欲しくなるような、自己を超えたところから来る何らかの意志のようなものを欲する。自己決定だけだと、その「何らかの意志」のような偶然性の入り込む余地が無いのです。

たまたま生まれた土地だとか、たまたま出会った人だとか、たまたま与えられた選択肢だとか、そういう「偶然性」というのは「自己決定」というものとトレードオフの関係にあるので、いわばどこかで「自己決定」を諦めなくてはいけない部分もあるのです。ヘンな話に聞こえるかも知れませんが…。

私は、人間は決断のどこかで必ずサイコロを振ると思っています。何故ならそれがないと行動にならないから。「馬鹿になる」と私は呼んでいますが、「ええい、ままよ」と叫んで行動に移る最後に思考停止をしている。

思考と行動の狭間には「事象の地平面」のようなものがあって、それはすべてがそこで引き返すしか無いポイントで、そこは自力では通過できない。

そこにサイコロがあり、他力の入る余地があるのです。考えられるところまで考えたら、あとは「やってみなくちゃ分からない」と馬鹿になってサイコロを振ってみるしかないのです。

そうして思考から行動への飛躍が起こる。
馬鹿になれた者だけが行動する。

だから「どこで馬鹿になるか」という見極めが大事なのです。

ある意味「どこで馬鹿になるか」ということは、その人間の欲望や意志が露骨に現われますし、また、一度決めたらどんどん固まっていって、やがてその人間の行動の骨組みになっていきますから、かなり重要なことですけど、そんなことはあまり語られません。

現代人は、馬鹿になるにはお利口すぎて、なかなか動けなくなっていますけど、それでもなお動こうとすると、意味とか理由とか求め始めるんですよね。そんなもの説明できるわけないのに。

説明できないから動けるんであって、説明できたら動けなくなってしまいます。というか説明できるなら、それはどこか嘘なんだと思います。

4.野口整体の天という言葉

先ほど藤井さんがして下さったスピリチュアリティについての説明に「目には見えない大いなる存在とのつながり」とありましたけれども、それは「私個人という一人の人間に収まったもの」というよりも、「個人を超えて他とつながっている自己」のようなイメージがあります。

野口整体を作った野口晴哉の文章を改めて見返していたのですが、「霊性(スピリチュアリティ)」という言葉はあまり出てこないのですね。その代わりに私がとても気になったのが「天」という言葉でした。

世田谷の本部道場に「天行健」と書かれた書が掲げられています。近衛文麿の書。天の行いは健やかであるという意味。

人に手を当てるときや、活元運動というワークを行なうときに、「ポカンとしなさい」とよく言われるのですが、その状態を「天心」と呼ぶのです。

それらはどこか個人の思惑や意図などを超えた状態を思わせます。

とくに活元運動など、ポカンとした天心の状態のままにからだが動くのに任せてドンドン動いていくのですが、いったい誰がそのからだを動かしているのかと言われると、何とも覚束ないのです。

スピリチュアリティとか霊性とかいう言葉を聞くと、どこか「私という個人の深いところにある根源、本質」というようなイメージがあるのですが、野口晴哉の言う天という言葉を聞くと、「私という個人を超えた大いなる地球意志」のようなイメージが湧いてくるのです。

その2つのイメージは、ある意味、正反対とも言えるような方向性であるにも関わらず、何かとても近しいようなそんな気もするのです。

一見相反するもの同士の親和性というか同一性。「私」と「世界」。

シュタイナーは「自分を知りたければ世界を観なさい。世界を知りたければ自分を観なさい」というようなことを言っていますが、それらは正反対のようでありながら何か寄り添っているように感じられる。

5.意志とか霊性とは何でしょう?

ここで一つ動画を見てもらいたい。
【泳ぐ魚の動画】

この動画を観て何か違和感を感じる方はいますか? まあ普通に魚が泳いでいるだけのように見えるかと思います。

でもとんでもない秘密が隠されているのです。

実はですね、この魚は死んでいます。死んでいるけど、まるで生きているかのように泳いでいるのです。

この魚は死んでいるので意志はありません。意志はないが、水の流れの中で流れに逆らって泳ぐのです。

つまり魚の泳ぎには意志がなくても良いのです。もっと正確に言うと「魚の肉体」と「水の流れ」が出会えば、そこに「魚の泳ぎ」が現われるのです。

見ている私たちには、魚に意志があって泳いでいるようにしか見えませんが、そうではないということが単純な事実として現われています。

これは魚の話ですが、人間でもある程度観察されていることで、それは「逆説的歩行」と呼ばれて、パーキンソン病のリハビリなどにも活用されていることです。

どんなものかというとただの平地では上手く歩けない人が、ある一定リズムで障害物を置いておくと、それを跨ぎながら上手く歩けるようになったりするのです。

つまり私たちは「私が歩く」と思ってるが、「環境によって歩かされている」という面もあるのです。新生児に見られる「原始歩行」などもまた同じことでしょう。

「歩く」とは私と床の織り成すダンスであって、私独りで成り立つ行為ではないのです。

そういう意味では私たちは、本当に文字通り「独りでは何もできない」のです。歩くことも、食べることも、愛することも…。

それらの事実は「はたして私たちの意志とは?」という疑問につながってきますが、それはそのまま「私たちのスピリチュアリティとは?」という疑問にもなってくると思うのです。

はたして「霊性」とか「自分」とかって、いったい何なんですかね?
皆さん、どう思いますか? 「霊性」って何でしょうね?

…というオープンクエスチョンで、私の方からはお話を締めたいと思います。

せっかく藤井さんがスピリチュアリティというものについてすごく丁寧にまとめてくださったのに、私がそれを引っかき回してグチャグチャにしてしまいました(笑)。

でもまあ、これから皆さんで話し合うのにはちょうど良いんじゃないでしょうか? ぜひこれから皆さんなりのお答えが伺えたらと思います。ありがとうございました。


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