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やりたいのとやれるのは違う

私は小学生の頃宮崎駿が大好きだった。ついでに言うと、息子の宮崎吾朗とのかけ合いというか、あの二人の関係性が見ていて好きだった。

私はアニメというものを作ったことがない。映画なんて作ろうと思ったこともないし、そもそも映画などを観たりも、あんまりしない。だけど二人が好きだった。

あれはいつだったか、忘れてしまったけれど、何年か振りに母親に誕生日プレゼントをあげると言われたので、迷わず宮崎駿と宮崎吾朗のドキュメンタリー映画のDVDを頼んだ。
その中だったと思うけど、宮崎駿監督が、「やりたいのとやれるのは違う」と、呟くように言ったシーンがあって、私はその場面を、今でもたまに思い出している。

その当時、なんて浅い脳みそだったのかと今では思うけれど、私は意味がわからなかった。

経験したことがないからわからなかったのだ。「やりたくても、できない」という、そのもどかしさみたいな、悔しさみたいなものを。

だけどその言葉だけははっきりと覚えていて、勉強机の端に鉛筆で「やりたいのとやれるのは違う」と書いておいた。

勉強机のかなり端っこに書いたので、消えずに何年もそのままだった。

この間、勉強机を解体してゴミに出すと決めた日、最初にその文字を消しゴムで消した。

書いた当時は意味もわからなかったくせに、今となっては読むのも辛いくらいにグサッと心に刺さってしまっているのだから皮肉だ。


やりたくてもできなかった経験は、思い出せば小学校中学校でも経験しているけれど、大きなそういう経験は、高校生で最初に経験した気がする。

部活で選手になれなかった。親も自分に協力的ではなくて部でも浮いていた。やりたいという気持ちは誰よりも大きかったのに、誰よりもその気持ちが空回りしていた。才能、という努力では間に合わせようのないものを持ち合わせた同級生たちに埋れていく自分がいた。

学校の課題で家の食事の写真を撮れと言われた。家では大したものを食べていなくて、カップラーメンとか菓子パンを毎日食べていた。さすがにそれを写真には撮れなくて、適当に野菜炒めを写真に撮って提出したら、なんでこんな適当なのと、他の人はちゃんとやっているのにと叱られた。

高校卒業して一年して、大学へ通っていたが体や心が思うように動かず大学へ通うことができなくなってしまった。結局辞めることになったがあれは誰の大学中退だったんだろうと今でもたまに考えてしまうほど、自分の気持ちだけはまだまだ通いますという気持ちが先走っていた。

宮崎駿が言いたかったこととは違うかもしれないが、やりたいのにできない、という気持ちはたくさん経験した。その度に涙したりしてきた。

結局は人間というものは、「他人の持ち合わせたもの(才能)は超えられない」ということなんだろうと解釈している。

宮崎駿はとんでもない才能の持ち主だ。アイデアが次から次へと生まれては、それを他の人にやらせたり自分でも体を壊すまで仕事をしたりする。

一方の宮崎吾朗には、宮崎駿と同じような才能はないだろう。これは、宮崎吾朗はだめだと言いたいのではなく、人それぞれだろうと言いたいのだ。宮崎駿はアニメ映画作りに向いた才能を持っていた。だからきっと宮崎吾朗には、それに近しいものは持っているかもしれないが、他にも才能を持ち合わせているだろうと思ったのだ。


私には運動神経がなかった。元々部屋にこもりがちな少女だったし。家庭も、毎日親が食事を作ってくれるような環境ではなかったし、精神も弱く神経質で不安を抱え込みがちだから、あることないこと想像して自分を崩壊まで至らしめた。

だけどきっと、と思うときがある。

私には別の「やれること」があるのでは?と。

でも、それじゃ違うのだ。だから人間は苦しいのだ。自分のやりたいことで、自分の叶えたい夢で、自分の目指したものになりたいから努力をするのだ。

宮崎吾朗が、世間から親と比較されるのも厭わずに、アニメ映画に携わっているのはそういうことではないか?そして私も、そんな存在になりたいのだ。(勝手な解釈で勝手に憧れてしまってすみません)

世間が、声を揃えて無理だと言うことほどやりたいと思う。

だから大学中退後もフラフラと中途半端にバイトをしながら小説家を目指し始めた。

ほんの一握りの人が笑える世界へ首を突っ込んでしまった。もう後戻りはできないと思う。無理だと自分でも思いながら、今日も小説を書いて、夜は散歩した。

散歩の帰り道、一握りしかいい思いができなくても、一握り分はいい思いをする人間がいるのだろう?と考えている自分にびっくりした。

どんだけ前向きなんだよ。と、ツッコミたくなるほど。

今のバイト先に、バンドをやりながらバイトをしている人がいて、何年も何年もそんな生活をしていてもなんの成功にも繋がっていないらしいということだった。
さらに、今のバイト先の社員は元バンドマンで、何年か音楽活動をやったのち、歌で食べていくのは無理だと感じて就職したらしい。

この話を聞いたとき、他のバイト先の先輩が、「夢なんて持ってても、やっていけないって気づく瞬間があるんだよねきっと」と言っていた。

そうなんですかね、と愛想笑いをしたあとにハッと我に帰って、だからどうした!と心の中でその先輩にツッコミを入れていた。

「やっていけないって気づく瞬間」、そのために夢を最初から諦めるのは全く違くないか?と思った。

どんなことでも行動した者勝ちだと思う。それが、成功に結びつかなくてもきっとその先の人生になにか潤いを与えてくれるだろうと思う。

才能は努力で超えることができる?さあ、わからないけれど、そう信じていかなくてはやっていけない人って大勢いるのだ。私みたいな。

だからしぶとく食らいついている。それが実現しなくても、夢だけ持ったっていいでしょ、と嵐も歌ってるし。

やりたいのとやれるのは違う。

私だってそう思うけれど、だけど命も削るような努力の先、やりたいというがむしゃらな気持ちが、やれる奴を超えてみせる。そんな瞬間がやってくると信じている。

ちなみに宮崎駿は、あの才能に並外れた努力が備わっているから誰にも追いつけないと思う。

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