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「時代に合っていない」という言葉が嫌いです…

 大学の教授や教育行政などのお偉いさんたちによる「今の時代に合った教育は…」とのご高説を聞かされたり、「あなたの指導法は今の時代に合ってません」と言われたりすると、精神的に未熟な私は感情が揺さぶられてしまいます。「教育というものは時代に左右されず普遍的であるべき」とまで極端な考え方はもってませんが、どちらかといえば賛同する派です。

「時代に合う」ことが正しいのか?

 「時代に合う」この言葉を聞くと

・時代って何ですか?時代の定義は?
・時代に合う、合わないということを判断しているあなたは何者ですか?
・判断できるのはあなたが時代をつくっているからですか?
・あなたが時代の代弁者なのですか?資格認定はどうなっていますか?
・時代に合っている、合っていないの判断基準は何ですか?
・時代に合うことが正しいことであるという根拠は何ですか?
・時代に合っていないからダメだという理由はなんですか?
・なぜ時代に合っていないといけないんですか?
・・・・・・

という疑問が頭の中をうずまきます(少し尾崎豊さんの「卒業」を思い出してしまいました)。

「時代に合う ならば 正しい」
「時代に合わない ならば 正しくない」

という論理は本当に正しいのでしょうか?

歴史に学ぶ

 日本の歴史について考えてみます。昭和初期、国民全員が「一億玉砕」「欲しがりません勝つまでは」と心を1つにして太平洋戦争に向かっていきました。マスコミもこぞって国民をあおり、戦争反対者は非国民とされ、蔑まれていました。教育においても時代のあおりを受け、子どもたちは大きく影響を受けました。この史実において、当時、

時代に合う=「戦争賛成派」、時代に合わない=「戦争反対派」

という時代背景だったと考えられます。このことを「時代に合うことが正しい」、「時代に合わないことが正しくない」という観点で考えると

「時代に合っている戦争は正しい」
「時代に合わない戦争反対は正しくない」

という論理が成立します。歴史的な細かい点は別にして、時代に合わせて行動することが、必ずしも良い結果を生むとは限らないと思いませんか。
 こういうと「そんな極端な例はおかしい」という反論があると思いますが、その場合、反例を認めたことになるので、論理的に
「時代に合う ならば 正しい」
「時代に合わない ならば 正しくない」
は、成立しなくなります。

時代は合わせるだけのものでなく、つくっていくもの

 時代に合っていたことが正しいか、正しくないかは、時間が立たないと証明できないですし、さらに人の考え方、価値観の変遷によって見方が変わってきます。こういう不確かな「時代」というものを理由にして「今の時代に合った教育は…」「あなたの指導法は時代に合っていない」とせず、その教育活動のもつメリットやデメリットを説明したり、事実に基づいた根拠を示すことで具体的にどの部分がいいのか、ダメなのかを指摘したりするほうがよっぽど建設的です。時代マウントは不毛です。
 むしろ「時代」という不確かなもの、かつ、現在進行形で評価できないようなものに合わせるのではなく、時代というものをつくっていくという気概が子どもたちに生まれるよう支援することのほうが大切なのではないでしょうか。
私が小学生の頃から尊敬するお笑いコンビ、ダウンタウンの松本人志さんは以前、

「松っちゃん、遅れてる」

と言われたことに対し、

「俺はお前と同じ方向に進んでいない

とおっしゃいました。大衆と同じ方向に進んでいないからこそオリジナリティ溢れる才能で、今なお現役第一線で活躍しているのだと思います。時代に合わせるということは、何も考えなくても同じ方向に進むことができるので、思考放棄になりかねません。
 だからなのかもしれませんね。国際社会とよばれる現代で日本は欧米に「右へならえ」することが多いのは…。日本だけでなくヨーロッパの国々も歴史的に多くの失敗をしているのだから、今正しいと考えていることは数十年後どのような評価になるかわかりません。だから、合わせるだけでなく、世界の流れや方針を日本から発信するという志が育つ教育界になることを切に願っています。
 最後、話が大きくなりすぎましたが、「時代に合っていない」という曖昧な言葉で相手を批判することは嫌いです。中島みゆきさんの「時代」は大好きです。同じ「時代」なのに、こうも違うんもんなんですね。

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