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「ダジロ」ってなんぞい

 前回も書いたように、明治生まれの祖父母の思い出は尽きない。365日一緒に暮らしたというわけでもないのに、彼らの記憶が今でもしっかり私の中に残っているのは、おそらく祖母がとってもお喋り好きだったということがその理由のひとつだろう。

 とにかく夏休みの早朝、まだ誰も起きてこない祖母と私だけの時間に、彼女はありとあらゆる思い出話を、身振り手振りまじえて、まるで活動写真の弁士のような迫力で孫の私に語って聞かせたのだった。また私が昔のこと、古いことを聞くのが大好きな子どもと来ていたので、相性としてはとてもよかったのだろう。「もっと昔のお話して」とせがむ私の期待に応えて、祖母のボルテージはどんどん上がっていき、耳を傾けている私の胸も高鳴ってくるのだった。

 世話好きで社交的だった祖母は、いつも話の輪の中心にいた。曽祖父が「お前は女義太夫語りになれ」と言っていたというぐらいだから、その話術はあっという間に場を和ませ盛り上げる特別な力を持ち、楽しいにつけ、悲しいにつけ、「ちょっと聞いて」と人からも頼られる人柄だったと記憶している。歌やダンスなど、いわゆる歌舞音曲が大好きで「華がある」タイプ、特にその声のよさ、歌のうまさは自他ともに認めるものだった。

 女学校時代からいくつかの市民の混声合唱団に所属していたそうで、しだいに独唱を任されることも多くなっていった。ちょうど時代はラジオ放送が始まる頃。NHK東京放送局(JOAK)が放送を開始したのは1925(大正14)年、祖母の住む関西でも大阪放送局(JOBK)が翌年には始まったというので、祖母は満で16歳、数えで17か18ぐらい。まだ放送が始まって間もない頃だと思うが、ラジオで歌を独唱する役目を仰せつかったのだという。惜しむらくは、このとき何を歌ったのかおそらく祖母に聞いていたのに、私が失念してしまっていることだ。おそらくオペラのアリアのひとつか何かではなかったかと思うが、そしてどういう過程で選出されたのかも今となっては不明だが、とにかくマイクの前に立って歌う数人のひとりに選ばれて、祖母の声が始まって間もないラジオの電波に乗って放送されたのだという。

 「ラジオ」というものがどうやら始まるらしい、人の声や音楽が聞こえてくるらしいと、まだ全容がつかめずにいた頃、祖母の周りも老若男女が集まっては「そはいったい何ものぞ」という話に花が咲いたそうだ。若者たちの話を聞いていたその中のひとりの年寄りが、少し耳も遠かったのだろうか、「ダジロってなんぞい」と尋ねたのがおかしかったと何度も話してくれた。「ダジロやあらへん、ラジオやよ」と祖母ら「若者たち」が訂正したのだというが、最先端の文明の利器についてのジェネレーションギャップは、いつの時代もあったのだなぁとしみじみ感じさせられるエピソードなのだった。

 そういえば、音声のないサイレント映画が、音声つきのいわゆる「トーキー」と呼ばれるものに変わるのが、この少しあと、1927(昭和2)年頃だ。このときも人が寄ると触ると、
「なあ、今度の活動写真(「かっとうしゃしん」と関西弁では言っていた)な、人が喋んねんて!」
「はーっ! ほんまかいな。喋るてどないして喋るんやろ」
そんな話になったそうだ。

 20年ぐらい前、仕事で映画評論家の双葉十三郎さんにお話を伺ったことがあるが、双葉さんが熱を込めて話されたのも、「初めてトーキーを観たときの感激」だった。双葉さんは1910(明治43)年のお生まれ。祖母のひとつ下、ほぼ同世代なので印象が重なるところがあるのだと思うが、やはりこの「転換点」の感動には並々ならぬものがあったようだった。双葉さんがご覧になったのは、マレーネ・ディートリッヒ主演の『モロッコ』。初めて日本語字幕がついたトーキー作品として知られているものだ。映画の最初のほうで、ディートリッヒの「真珠の首飾り」(敢えてネックレスとは言わない)が、ほどけてバラバラと床に落ちる場面がある。この真珠が床に落ちたときの音の鳴り響き方に双葉さんは衝撃を受け、映画の新しい時代の訪れを実感して大いに感動したと話されていた。「あのときの衝撃は忘れられない」と仰っていたのが印象深く残っている。

 実はお話を聞いた直後、その感激を味わってみたくなり『モロッコ』をDVDで観た。しかし随分世代を下り「爆音」にも慣れて育った身には、その音は微かな「パラパラ」という音にしか響かなかった。この音をそこまで衝撃的に感じさせるとは、「無声」から「トーキー」への変遷は改めて「大革命」だったのだと逆に痛感させられたのだった。

 ラジオ独唱の前だったか後だったか記憶が定かではないが、祖母は、神戸に澄宮さま(のちの三笠宮崇仁親王)がおいでになられたときに、殿下が作詞されたお歌を、殿下の御前でやはり独唱したこともあったそうだ。どのような経緯でそうなったのか、どのようなシチュエーションだったのか、詳細は聞いた気もするが、残念ながらそれ以上のことは覚えていない。確か劇場で舞台に立って、ということだったような気がする。

 そんな祖母の夢は、東京に出て「上野の音楽学校(現在の東京藝術大学)」に入学し、本格的に音楽の道に進むことに次第に傾いていった。しかし8人兄弟の末っ子、商船に乗りながらひところは華やかに事業にも手を広げていた曽祖父が失速して以来、家はお世辞にも裕福とは言えない状況になっていた。祖母は曽祖父の五十代のときの子なので、すでにその当時祖父は隠居の身。社会に出ていた年の離れた兄たちからの仕送りで暮らす身には、それは見果てぬ夢であった。

 見合いを経てプロポーズのときに、祖父は祖母にこう言ったという。
「あなたは歌が上手だそうですが、三浦環さんのようにはならないでくださいね」
 三浦環は言わずと知れた、当時、一世を風靡したオペラ歌手である。祖父に一目惚れした祖母は、この殺し文句にコロッと行ってしまったのだろう、ついにプロの歌手になることはなかった。しかしながら、年をとってからもテレビで歌手が歌うのを見ては羨ましそうにこうも言っていた。
「世が世なら、私は今頃、聖子ちゃんみたいになっていたはずやねん」

 「聖子ちゃん」にも「三浦環」にもなり損ねてはしまったけれども、祖母は私に、本当にあらゆる歌を歌ってきかせてくれた。同世代の人たちがまったく知らないような歌を私が知っているのは、この祖母が口伝えに教えてくれたからだ。今となっては、それも貴重な財産になっている。

 

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