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VOL.21【 キライは悪 】 --- どうして「売れない」のだろう?---

「好き嫌いで物事を語るのはよろしくない」というような言葉を幼い子どもを育てている保護者が、子どもに向かって言っている様子を街でチラホラ見かけたりすることも多い。

また、企業の会議や、若手育成の場などでも、こういう話が飛び出してくる。ある意味正しいのだが、ある意味、間違っているとも言える。

確かに、子どもが「食わず嫌い」をしていたりするのなら「グズグズ言っていないで試してみなさい。それでも、やっぱりキライなら、それで良い」

そういう感覚で「シツケ」をするのは間違っていない。キライでも強引にスキになれというのは保護差はのワガママ。キライなものはキライで良い。

そういう私も人参とピーマンが大キライだ。壮年の部類に入る私だが、人参は馬が食べるもので、ピーマンは人間が食べるものじゃないと思っている。

そんなものを食べなくても「死ぬこと」はない。とはいえ、子どもや孫には「その味を知らないまま」この先の人生を送るのは「もったいない」と思っている感もある。 

だから、子どもにも孫にも「キライなものはキライで良い。死にはしない。ただし、これがキライと言って周りから笑われる覚悟だけはしておきなさい」と伝えている。

会社なら、若手社員が「暗く」「面白くなさそうに」「イヤイヤ」「自分さえ良ければ良い」という感覚で仕事をしているのなら、注意するのは至極当然の話だ。

仕事というものは「明るく」「強引に楽しく」「強引にワクワクしながら」「みんなが嬉しくなる」の4つの条件を揃えて進めないと、いちいち上手くいかなくなる

「自分だけ手抜きして」「自分だけラクをして」「自分だけがトクをして」「自分だけが叱られず」「自分だけがホメられたい」という人は注意すべきだ。

手抜きをしておいて「給料をあげろ」だの「休みを増やせ」だのと言うのはダメだ。みんなで儲けたワケマエを 分配する給料は、小学生が手に入れるお小遣いじゃない。

とはいえ、これが「マーケティング」と言う話になると「好き嫌いはダメ」というワケにもいかなくなる。それは「立場」が、まるで違っているからだ。

お金をいただく人は「好き嫌い」など言っている場合じゃない。なにせ「面倒なこと」を代わりに引き受けた代金を「いただく立場」だからだ。

しかし「お金を払う側」の立場になると「好き嫌い」は言っても良い。なにせ「好き嫌い」は私たち人間の行動を「支配している」ものだからだ。

この個人的な好き嫌いを組織活動に持ち込むのは大問題だ。なにせ組織としての統制がとれなくなるし、給料は子どものお小遣いとはワケが違っている。

ところが商品がユーザーの好みによって買われているということを考えると「好き嫌いで物事を語るな」では済まなくなってしまう。


こと公共性の感覚が世界で最も高い教育国家と呼ばれる日本という市場において「好き嫌い」というものは、一般的には「悪いイメージ」だ。

これは「マーケティング」という視点から見ると非常に重要な心理的要因であるにもかかわらず、心理学的としては、これまであまり研究されて来なかった。

大型書店に行っても「好き嫌いの心理」といったような本は、ほとんど見当たらない。購買心理についてある本があるにはあるが、実に未開拓な状態だ。

好き嫌いが心理学として研究しにくかったのは、ある意味では当然だとも言える。好き嫌いという感覚は「恋人への思い」といったように本能的なものだ。

食べ物にも好き嫌いがあるが、これも「食欲」といった「本能の世界の話」だ。どちらの「キライ」も「生理的に受けつけない」といった本能的な感覚

好き嫌いは本能的なものなだけに理屈を越えてしまっている。「惚れてしまえばアバタもエクボ」という言葉もあるように、好きなものは好き。理由はない。

古来から「不倫をして心中してしまう」といったことが起きてきているが、この恋が遂げられないなら死んでしまいたいという気持ちになることの証明だ。

つまり「好き嫌いの感覚」は「命」と天秤にかけても良いほどのものということ。つまり「好きなものの価値」は命より優先される無限大のものということだ。

この感覚を「数値化」しようというのがマーケティングの世界。「好き」なら「価格が高くても売れる」。この「価格」こそが「好きの度合い」という話だ。

機能デザインに、見た目のデザインもプラスした商品を用意する。その「売り方」をデザインして、デザインされたセールストークを使って提供していく

これらの「総合デザインの違い」によって好き嫌いが生まれる。「これが好かれる」という「トータルデザイン」を用意して高額な価格をつける。

それで売れなければ、トータルデザインの中の「どこかのデザイン」が嫌われているのだし、それで売れるのなら、その価格にふさわしい満足価値があるという話。

ここ数年、トヨタ自動車が「レクサス」という別ブランドを構築して世界中で大評判となっている。あのクラスの自動車の価格の2倍、3倍の価格で売れる。

これは、車1台あたりに「トータルデザインの値打ち」が、通常のあのクラスの車の2倍、3倍の価格=価値という話にほかならない。

しかし、これが「レクサスとは逆の状態」になると「あわれ」としか言いようがなくなる。某国の「類似車種」が、いわばその「悪い例」と言えそうだ。

いくら「それらしいもの」を作っても嫌われてしまうと売れない。キライなものはタダでも要らないどころか、今はお金を払ってでも捨てるという時代だ。

これが、いわゆる「商品開発から販売までのトータル・マーケティング・デザインの心理的価値」であり、好き嫌いの本質というものである。

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