声高に「言語化したい」と言わない方がいい(と、思う)。

少し前に、こんなつぶやきを拝見した。

一昔前がどうだったのか分からないから「流行り」なのかには言及できないけど。

この「言語化したい」欲求が「お若い方」間に強く匂っているのはその通りだと思う。25歳の私を「お若い方」と呼んでくれるなら。
少なくとも私が大学生だった時から、言語化への憧れというものは同世代の友人の間にふわふわと漂っていた。

単なる知的欲求ではなくて「自己を掴みたい」という感覚が「言語化したい」に繋がっているような気もするし、
「努力をスキップして才能が欲しい」という身も蓋もない思いが「スマートな語り手」のイメージを通じて「言語化したい」に繋がっているような気がする。聞き手をイメージしているところがミソである。

「言語化」は(エグくない言い方をすれば)嗅覚が要求されると思う。
「言語化」は発明ではない。うちにあるものを掘り出す作業に近い。掘り出して色々な角度からそれを眺めてみたら、別のものとの類似が分かることもある。1から10が学べるような気持ちになれる。

ただ、「言語化」と我々若者が言っている時、「言語化」をしているつもりのとき、それは単なる言葉遊びに留まっていることがある。

というか、言語化はそれ自体としては単なる言葉遊びに他ならないと思う。地中に埋まっている比喩を掘り出す遊び。掴みようのないものを、比喩から抜け出せない言葉で捉えて味わう遊び。

言語化が知的追究に変わるのは、捉えた言葉を比喩と疑い続けながらも道具として用いて思索を行う(知識を知恵に変える)試みを行う瞬間だと思う。

「言語化したい」という思いは知的欲求ですらなく、「言葉遊びをしたい」という思いに過ぎないのではないだろうか。
「知りたい」という言葉も同じで、知識を知恵に変える試みが行われないうちは、「他人の言葉遊びを眺めていたい」という思いなんだろうと思う。

知識の整理は知識を知恵に変えるために必要な行為なんだろうけれど、それを行うものが言葉やイメージの引き出しに富んでいなければそれはもうきっと目も当てられない。掘り出してきたものを整理する腕力がないなら、悲しいけど(少なくとも真剣には)言語化なんてしないほうがいい。
趣味としてやる分にはいいけど、だとしても「言語化したい」と声を大にして言うのは、スイミングスクールで「顔を水につけられるようになりたい」と志高いかのように宣言するようなものだと思う。
25m泳げるようになるんじゃないのかい。

そんなこんな言いましたが、私も言葉遊びは好きでね。比喩のお手玉が趣味と言ってもいいかもしれない。こんな具合にね。

以上、榊原でした。

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