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就労移行支援事業所の闇を語ってみた

就労移行支援で働く理学療法士という肩書で今まで活動してきた。
もちろんとてもやりがいを感じるが一方で、障害をお持ちの方に対して社会的枠組み当てはまる様に支援する事に無理があるのではないかと最近感じている。

その違和感を払しょくするためにこれまでキャリア理論に関する記事投稿を行ってきたわけである。


本日「ポリヴェーガル理論」を日本へ普及させた一人である
津田真人先生の対談に参加して違和感が完全に言語化された。

少しアウトプットして頂くと。
私たちは2つの生産性が存在する。

1つは「富と価値の生産性
1つは「身体・生命の(再)生産性」である。

どちらが根源的かと言うと当然「身体・生命の生産性」である。
私たちは、生きながらに死に向かっている矛盾した有限の生物である。
何故生きているのかと言うと、細胞や体液が代謝する再生産の循環に私たちを維持しようとする力が働いているからである。

この力を、「生命の息吹」「ホメオスタシス」
「神の力」「自律神経」等で表現されているわけだ。

私たちの生きる目的はあくまで「身体-生命の生産性」でありその手段が
「富と価値の生産性」であり、
「命(健康)」ありきで「富」が成立するのだ。当然である。
⇒家事労働,ケア-ワーク,エッセンシャル-ワーク等々

上記の様な「命に触れる仕事」を一括して「ケア」と概念化するが
この「ケア」は低賃金または無償として金銭的価値に勝手に当てはめられ
価値を低く見積もられてしまっている現状なのだ
 ⇒保育や介護の低賃金問題,マックジョブ
 (低賃金で将来性のない仕事を意味するスラング)等

近代資本主義以降に倒錯が生じてきた。あたかも「富の生産性」が最重要になり「身体(健康)の生産」はその手段にすぎない様に

結果的に「富の生産性」が進むほど「身体の生産性」が犠牲になってきたのであった。

もしかしたら、健全であればある程、私たちは「仕事で病む」ようにできている枠組みに生きているのではないだろうかと少し恐怖した。

そして、その歪んだ枠組み(会社・組織)に障害をお持ちの方を送り出している事自体に何か大きな問題があるのではないかと考えてしまう。

就労移行支援事業所とは、「富と価値の生産性」が跋扈する世界を何となく推奨させる社会の枠組みの一つであったのだ。

実際に、障碍者雇用は低賃金であり「安い労働力で生産性を高める」という考えが根底にあるのではと邪推してしまいそうになる。
(もしかしたら財界の人たちはそれを狙って・・・?)

「働けない事はダメな事・・」「生きる価値がない・・」
私たちはその様に思わされてきたのだ。
就労支援と言う名のもとに無理矢理に働かせられる・・
それに加担している私・・・
※なお、知的障碍者のための特別支援学校のエリート校があるそうだ。
 就職ができるという名目で高い倍率だそうだが、
 「国よ・・そこまで働かせたいか・・」

そもそもワークライフバランスという言葉もおかしいのだ。
何故、「仕事」のための「生活の充実」なのだ?
むしろ、「充実した生活」を送るための手段として「働く(仕事)」があるのであって「富の生産性」に無意識に価値をおく概念が他にも身の回りにたくさんあるのだ。

記事を書いていて吐きそうになる私・・・
(同調圧力と一緒になって暴力に加担していたのではないか・・?)

だからこそだ。私の役割が見えてくるのである。
私は理学療法士だ。身体の専門家である。

そして「身体と命と健康の生産性」を啓発する義務がある。
そのために私は就労移行支援事業所で働いているのだ。

「身体と命と健康の生産性」を基盤とした「その人らしい働き方」
これが本来あるべき支援なのではないか。

理想論かもしれないがやるしかない。
ゆっくり丁寧に考えていこう!


<おまけ>
「障碍者の自立」という言葉も、障碍者自身の言葉であったそうだ。
(自立生活運動:介助者の手を借りる事も含む)
健常者と同じく障碍者も地域で同じ生活をする権利があるのではないか?
その際の負担をもう少し行政が担っても良いのではないかという運動が発端であった。1980年代ごろから「自分で働けることが自立だ」という事を言い始めたのだ。(行政が)つまり「税金を納めていない奴は自立していない」とみなされるのだ。


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