「確実なキャリア」という幻想を求めてしまう心理を解説
と言うわけで個人的なキャリア論の第2弾と言うわけだ。
まずはキャリアの定義について整理させて欲しい。
狭義のキャリアとは「履歴書に記載できる経歴」とする。
一方で広義のキャリアとは「働く事に対するその人の意志の流れであり、
獲得したもの、表現したものの蓄積」とする。
「おいおい,表現したものの蓄積って何なんよ?」
と質問があるかもしれないが「経験」であり「役割」であり「仕事」等がそうである。
そのため、剣道の県大会2回戦敗退や専門学生時代友達が一人もおらず昼食はいつも一人だった過去も,立派な私の「経験」でありキャリアともいえる。
また、年齢に応じて社会的「役割」の変化が生じるのは言うまでもない。
学生時代の役割や社会人一年目の役割等々、当然年齢別に応じて複数の役割にコミットメントしていくわけだ。(職業人であり家庭をもつ父親等々)
職業や仕事以外の生活範囲も概括して「キャリア」という言葉を用いている事が多いが。特に私たちは特にキャリアを「【仕事】という手段を通して発展し続けたい」という思いが潜在的に存在するのではないだろうか。
(もちろん仕事以外の手段で自己実現を果たしたい人もいる)
哲学者が語る仕事の幸福論と問題提起
仕事は哲学の領域ではどの様な位置づけなのか簡単に紹介したい。
例えばイギリスの哲学者バートランド・ラッセルは幸福を構成している要素に関して以下の様に述べている。
仕事は幸福の一要因として述べられている。
続いて哲学者カール・ヒルティの「幸福論」から引用する。
意訳するとこうだ。
「資本を求めすぎるとかえって不幸になるよ~
でも幸せになるためにはやっぱり仕事よね~」
つまり世の哲学者は「仕事」は幸福の要因に大きく関連する事を説いているのである。
さあここで問題提起したい。
職業だけでなく生活範囲を含む広義の「キャリア」がある。
誰でも良きキャリアを蓄積したいという思いは必ずある。
(個々で良きキャリアの定義は異なるかもしれないが)
そして良きキャリアを蓄積し良き人生を歩む手段として「仕事」が存在する。仕事は幸福に至る大きな要素だと哲学者が述べているし私自身もそう思っている。
そして、近年「キャリアに対する見方」や「仕事観」に過度な理想化や確実性を求める人が多いように思える。(働き甲斐を求める心理の執着)
※執着とはコントロールできない欲求
だからこそ自分探しが永遠に終わらない事態に陥ったり,高額の独立起業セミナーに投資してしまい後悔してしまったり、今現在の仕事に心を込めて取り組めない、希望が持てない、怪しいスピリチュアルにはまる等の事態が発生しているのではないかと考える。
そして、上記を個人の責任として考えてしまうのは昨今ではあまりにも酷なのでないかとも考えている。
いずれにしろ、「過度な理想化」や「未来に確実性を求める心理」がもたらす理由を本記事は概観し対策も述べていきたい。
仕事(労働)観の変遷をたどる
「強みを仕事にしよう」
「自分のやりたい事を仕事にしよう!!」
「いきいきわくわくした働き方で日本復活!」
「あなたは今の働き方で本当に満足していますか?」
等々
なんて言葉が跋扈する現代。
まるで働き方に何らかの答えを持っていますと言わんばかりの「心」をざわつかせる言葉の数々たち。正しいけど何かむず痒さを感じさせるものさえある。
仕事が苦役から自己実現の手段として歩んだ背景を理解するためには、
まず「仕事観の変遷」を辿らなければならない。そして、何故私たちは強迫的に「自分に見合った仕事で働き発展しなければならない」という信念体系を潜在的にもつに至ったかを解説していきたい。
そもそも「働く事」は、生命維持を行うために苦役として否定的に捉えられていた。古代ギリシャ時代は食物をつくる農耕作業は奴隷が行っていた。労働は人間の生理欲求を満たす事が目的である事から軽蔑されたりもした。
中世では、仕事の価値観は「罰としての仕事」としての捉えられ、一方で新約聖書の言葉に「働きたくないものは、食べてはならない」に現れている様に「怠惰を防ぐ肯定的な営みとしての仕事観」があったそうだ。
そして、仕事は修道制度の中に取り入れられる様になり,
祈りや瞑想と共に重要な行いの一つになっていったのである。
※動機の変遷が垣間見えて興味深い。
「やらされている」という奴隷根性から「やらなければならない」という
使命感へ変容を果たしたのだ・・。
その後徐々に仕事は世俗化していくわけだ。
いろいろ端折るが、プロテスタントの中から労働によって富を得る事に肯定的な人たちが増え、仕事と宗教が切り離される流れも起因している。
つまり、仕事は成功者になるための手段として称揚される時代となったのが15~16世紀の大まかな変遷である。(アメリカンドリーーーム!!)
さて、今の現代にも通ずる問題として挙げなけれならないのは18~19世紀の産業革命時代である。大量生産技術と資本主義の技術が結びつき、一方の
資本家と多数の賃金労働者が生まれたのが近代の特徴である。
封建制度から解放された市民の多くは雇われる形で工場で働く事になったのである。そこでは機械的な反復作業,劣悪な環境,そして生きていくための最低賃金,まるで仕事のために生かされていると言わんばかりの待遇。
そして、人は考える事を辞めてしまう・・つまり人間として扱われず機械の一部として求められる「人間疎外化」が社会問題として大きく取り上げられる様になったのだ。
そして、人間疎外化や資本主義の行き着く先に共産主義が現れるといった
一大理論を書き上げたのがカール・マルクスである。
時代は飛び第2次世界大戦後のバブリーな時代。労働者の多くは企業や官庁などの組織に雇われるサラリーマンパーソンとなっていく。
「ウイリアム・ホワイト,組織の中の人間.」では以下の様に述べられているそうだ。
日本に経済が回り表面上豊かであった時代、私たちは会社や組織という共同体に守られ、長く務める事で、そこそこ幸福な人生を過ごす事が出来ると多くの人は信じていた。歪んでいたかもしれないがそれでも生きるべき価値観や方向性が在るのは一時的に人間にとってありがたいのである。
(戦時中だと忠君愛国)
(偏差値の高い大学にいって大企業に勤められれば将来安泰)
(国家資格を取得できればとりあえず職に困らない)等々
しかし、私たちを守ってくれていた会社や組織に綻びが生じてきた。
ブラック企業の顕在化や長時間労働等の問題である。
つまり、暴力が蔓延る会社や組織から自立したいというニーズが高まったのが2000年代の初頭である。組織の圧力から離れ私たちは、自由を手に入れたいニーズが高まっていくのだ。
なお、主流派社会が求めている人材は「操作可能性」である。
上記は人間を図る重要な指標である。
「操作可能性」の低い人間は扱いづらい「使えない人」として評価される。計画性や予測性や生産性を生み出す人材は予測しやすい優秀なパーツとして求められという意味では「人間疎外化」は潜在的に社会に根深く内在しているのではなかろうか?
難しい事を長々と述べたが、要は「忍耐強く働く」よりも
「自分らしさを大切にして働きたい」という機運が高まったのである。
独立起業ブーム・副業ブームというやつだ。
さあ、組織や社会という大船(護送船団)から大海原へ小舟(個人)で
航海を始めよう!!
自分らしい好きな事で働こう!!
きっと大丈夫、自分の強みや人生の目的があれば
激しい波や嵐にも耐えられる。
あなたの潜在意識は小舟で航海する事を望んでいるのだ。
このまま護送船団に残っても沈没を待つだけだよ・・・
大丈夫、小舟での航海のノウハウは私がお伝えしますから・・
「さあ、いきいきわくわくの未来へ出発だ!!」
そして個人化(小舟化)へ・・・
日本社会が豊かであった時代は組織や会社が私たちを守る余裕があったが
資本主義がグローバル化した事によって日本社会が貧しくなったのである。
中間共同体が解体され私たちは能動的ではなく受動的に個人化せざる得なくなったのだ。非正規雇用が増えた事や、正規雇用だとしても自分の人生を
一つの職場に預けられなくなった、、
(トヨタ自動車の終身雇用が守れない)
(雇用のインセンティブがあまりない)
(副業OKの企業が増えている)
生計多様化戦略を余儀なくされた昨今・・
東畑開人先生は「豊かさが失われ、リスクが残った」と述べられている。
グローバル資本主義は個人に容赦なく、私たちは自己責任論というリスクの担い手として大海原を生きていかなければならなくなったのだ。
そして、追い打ちをかけるようにコロナによる分断が起こる。
※ワクチン接種の有無や自粛警察などの現象
これらの変遷を基に現在に仕事観をまとめると以下の通りになる。
仕事は自己実現や社会貢献や趣味としての機会であって欲しいと願う人々が増えている。手軽なテクノロジー(SMS)が普及したため誰でもチャンスがあると言えば聞こえはいいのかもしれない。
一方で、いつ経済的な困窮がもたらされるか分からない、社会制度にも綻びが生じ、いよいよ未来が予測不可能な昨今。つながりが希薄となってしまった時代。コロナにより何を得て何を失ったか分からない喪失感がある時代に生きる私たち。
そうだ、、結局のところ「個の力があまりにも脆弱になってしまった」ことで私たちは恐怖してしまったのだ。だからこそ、私たちは不安な未来をできるだけ回避するために投資したり確実なキャリアを見出すために奔走するのだ。
上記の内容に警鐘を鳴らす小川さやか氏の問題提起をここに引用する。
昨今では「その日暮らし」を可能にしてきた社会制度に綻びが生じてきたため,未来への希望が持てず,「不安」がより増長している印象を受ける。
今を大切に生きる事ができない、、
確実な未来なんてものはあるわけがないのにも関わらず・・・
以上を踏まえ結論を述べる。
現代は「つながりの時代」なのである。
私たちは「心の触れ合いをもって、つながる必要がある」
孤独や虚しさや不安感をお互いに共有して安心したいのだ。
ビジネスのためや合理性や効率性のためのつながりなのではなく
損得を抜きにした「喜びと共感が紡がれるつながり」だ。
「無駄」と思われた事が実は私たちの日常を支えていたという事に気付くその様な時代なのだ・・
(鼻くそをほじる,雑談,悪口,ラジオ体操,扇風機の前で「アー」と叫ぶ等)
「健全な仕事観」をもってキャリア形成するために知っておくべき事
そのためには2つのポイントを抑えておく必要がある。
一つは、キャリアは偶然の要素で形成される事が多いという点だ。
スタンフォード大学のジョン・クランボルツ博士は多くの人のキャリア形成を調査した結果キャリアの大部分は偶然の出来事によって決定される事実を突き止めた。同教授は以下に述べるのだ。
成功者のインタビューを聞くとあたかも狙ってやったかの様に嬉々として語るのだが実際、後付けであることが多い。
結局その人のやり方で偶然が重なりいつの間にか上手く物事が進むケースが多いのではなかろうか?
実際私自身も、公認心理師資格を取得後は放課後デイやパーソナルトレーナーとして働くキャリアを目指したが面接に落ちた事で別のキャリアを模索し就労移行支援事業所で現在は勤務する形になったのである。
実は当初から狙ったわけではなく、偶然が重なり今があるのである。
(もちろん心理支援という大枠は目標として掲げていたが・・本当に偶然である)
従って将来を見通せない事をいたずらに不安がる必要はなく
①好奇心②持続性③柔軟性④リスクを取る姿勢をもってキャリアを切り開いていくしなやかさが必要なのである。
つまり「満を持して放たず」の精神である。万全状態を整え「ここぞ」
という時に勇気を出して機会(チャンス)を捉えられるしなやかさが良きキャリア形成に繋がっていくのである。
ラグビーのボールがバウンドして予測できない軌道をいかに即興で対応するのかに似ているではないか。
もちろん「予測が外れれば元も子もないじゃないか」という意見もあるかもしれない。しかしながら、「運が良い」人は確実に「何とかなる」という信念にみずからの運命を委ねる事ができるのだ。
「何とかなる。大丈夫!」良い言葉だ!!
この事を上手く表現したアメリカのラインホールド・ニーバーの言葉をご紹介したい。
キャリア形成において「変えられないものを受け入れる冷静さ」がなければ正しい現在地の認識はおろか理想と現実に葛藤が生じてしまう。
一度傷ついた心や体はそう簡単には戻らない。それを受け入れられずに過去の様に「元気に働きたい」と思うのであればそれは私からすればネガティブなのだ。現状を「受容」できていない「過去回帰志向」である。
それは「真の回復」とはいえない。
気持ちは分からなくもないが、例えば脊髄完全損傷者が前と全く同じ働き方をしたいと言ってもそれはやはり無理がある。身体であればまだわかりやすいが「心」は目に見えず形がない故に「受容」のプロセスに時間がかかるのかもしれない。
「私はこの程度なんだから、やれることを一歩一歩やっていくしかない」
今の在り方でどの様にして未来を紡いでいくのという志向性の背景には
「変えられないものを受け入れる冷静さ」が確かに存在するのだ。
まとめると、「健全な仕事観」をもってキャリア形成するための前提として「キャリアは殆どは偶発的に形成される」という前提を知る必要がある。
そして、偶然を掴むためには「しなやかさ」が必要で
そのためには「何とかなる」という信念に運命を委ねられるかがカギとなる。「何とかなる・・」つまり「受容」である。
※そして、何だかんだで「何とかなってしまう」のだ本当に・・
「健全な仕事観」をもってキャリア形成するための前提としてもう一つ挙げたいのが、「大きな世界で目の前の仕事に心を込めて取り組む」である。
有名な逸話として3人の石切職人の例がある。
旅人が3人の石切職人に何をしているのかを訪ねると彼らはそれぞれ以下の様に答えるのだ。
A:レンガ積みに決まっているだろう!!
B:家族を養うために仕方なく仕事(レンガ積み)をしています。
C:歴史に残る偉大な大聖堂を造るためにレンガ積みをしています。
モチベーションが維持されやすいのは、「C」であることはご理解して頂けるかもしれないが、ただ全員が「C」の様な「志や夢」を全員が持てるわけでもないし、頑張りたくても頑張れない人だっているわけだ。
「大きな世界」をみる・・・それは時には「やりがい搾取」にもなりかねないし縛られすぎるのも良くない。
それでもだ・・!自分が取り組んでいる仕事は「誰の役に立ち」そして
「未来にどの様につながっていくか」は理解しておいた方が良いだろう。
わけも分からずやらされている仕事程辛い事なんてないわけだ。
「大きな世界」とは、意訳すると「一隅を照らす、これ国の宝なり」という視点を持つという事だ。
※自身が置かれたその場所で精いっぱい努力し明るく光り輝くことが出来る人こそ何物にも代えがたい国の宝である。そして、その光の蓄積が世の中を創っていくのである。
つまりもっと簡単に述べるのであれば以下の通りになる。
「先を見ながら今を大切にして取り組む事」
これが「健全な仕事観」をもったキャリア形成の前提である。
終わりに・・・
「天我が材を生じる、必ず用あり」という言葉がある。
意味は「神様は私たちをこの世に生んだ以上必ず何らかの役割を与えてくださっている」という意味だ。
そして天に与えられた才をつかみ切った人々を私たちは「天才」と呼ぶ。
私たちは素晴らしい結果や社会的成功を残した人物(イチローや大谷選手)に「天才」というレッテルを張るが、そもそもごく限られた一部の人にしか用いられない言葉なのであろうか?
否・・人生哲学を定め最大限追求する態度やプロセスを「天才を発揮する」と明言するのであれば誰にでも「天才」になれるのではないか。
※天才とはある生き方でありプロセスなのだ。
「天才」とは非常に主観的である。
そして、仕事とは、「仕える事」である。
何に仕えるのか?それは「神なるもの」である。
神になるものとは究極的に自分自身である。(実存主義っぽい・・)
故に仕事とは「天才を掴み自分に仕え事を成す行為」ともいええうのではないか。
高望みもいいがどっしりと構えて今やれる事に心を込めて取り組んでみよう!良きキャリアや仕事とは結局自分の選択なのだから、、、
ご拝読ありがとうございました!!
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