私はまだ未熟だった

成長物語にまだ震えるなんて

大量にコンテンツを消費する日常は食傷を呼び起こし、話題の新作は、テーマも演出もカタルシスでさえ、どこかの焼き直しに感じる。だから琴線に触れる作品との出会いは、ことさらに貴重な体験になる。

先日観た、Netflix「SEX EDUCATION」は、まさに色褪せた日常をしばし回復させる力のある作品だった。


恋愛や親子の愛情だけでなく、女性格差や人種差別、マイノリティーの課題を描くこの作品は、その感性も法整備も進んでいないこの国で、評価する人は少ないのかもしれない。そして私もまだ未熟で、愛情のなんたるかをわかっていない。

作品をみて日常の愛情についてモヤモヤとしていた。ふと、疑問が頭をもたげる。


異性の友情は成立するか

いまさらの問い。思春期なのかってくらいチープ。この絶対の答えのない問いを改めて考えたくなるってどういうことなのか。結論は出ている。そんなの人によるってことだ。そして。気づく。私は問題をすり替えている。目の前にいる女性を問題にしている。そして、更に驚くべき示唆もある。あぁ。私は意識している。同時にその気持を抑えようとしている。なんてことだ。相手と過ごす時間が長すぎた。知りすぎたんだ。そして過去は変えられない。だから問題は未来で、私の理性だ。と、まぁ、文章に直して今まさにわたしは取り乱しているのですが、この作品の力は、そのくらいすごい。


静かに傷つき鈍化した人々

この作品に登場する人々の人生は平等ではない。努力を支える環境は常に不公平で、恵まれない家庭を言い訳にもできない常識との戦いも描かれている。不平等に押し付けられた知性と容姿は、仮初の実力主義で比較される。金の有無が愛であることを疑わない男性や、美醜の牢獄に囚われ続ける女性を思い起こさせる。よくある話だ。強く賢くあるのが大人の条件だ。しかしだからといって、愛情の豊かさや深さについて、わたしたちが語り合えないのでは、いつまでたっても、このつまらないやせ我慢から抜け出せない。


見える世界が変わる

私の身近にいる女性は、アセクシュアルだ。たぶん。しかし私達には共通の概念がない。別の女性は、過去の性的被害に悩まされている。作品をみるまでそれが性的被害であるとの自覚すらなかった。わかりやすく不倫や堕胎に傷つく人もいる。そしてこれらは、私の問題ではない。これは本当だろうか。簡単に触れてはいけないことと、腫れ物にすることとは違う。ただ友だちのシグナルを見落としていた気がする。


共通の友人グループ

男女で構成されるわたしのコミュニティーでは、親友である男性が、露骨ではないもののパパ活をされている。断られれば無理強いもしないし、金払いもよく、紳士的にも見えているが、彼の女性からの評判は心底わるい。公平を期すと、認める女性も居る。そのそれらの理由が今ならわかる。いやーまいった。まいったよ。おれの目は曇っていた。そしてクリアカットされた周囲の歪みはもう見なかったことにできない。


慌てる時間じゃない

焦っても問題は解決しない。そして私の問題だとしても、解決できるものでもない。ただ自覚できたことが成長だということにしておこう。作品の登場人物の誰もが弱く悪くそして美しい人達だった。わたしの友人たちもそうであると信じなければ。

https://www.netflix.com/jp/title/80197526

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