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言葉の蛇口〜啐啄同時〜一人では何者にもなれない

啐啄同時 親になる、教師になる
禅の教えに、「啐啄同時(そったくどうじ)」というものがあるの。
時々、引用されているから読んだことがあるんじゃないかしら。
鳥の雛が卵からかえる時に内側から殻をつつくと、親鳥が外側から殻をつつく様子から、成長しようとする子供と、それを促す大人の関係を表すのに使われることが多いわね。私は、天邪鬼だから、少し違うことを話すわね。

小さい頃からこの家に出入りしていた子がね、大学を出て、中学校の先生になったの。時々、仕事帰りに近況報告をしに来てくれるのよ。この間は、生徒や親との関係で悩んでいるようだったので、こういう話をしたの。

大学を出て、教員免許とって、採用されたことと先生になるっていうことは、少し違うのよ。先生になるっていうことには、生徒から先生って認めてもらうことも含まれるの。いくら「俺は教師なんだ」って威張っても、生徒に認められていなければ、先生にはなれないの。
親になるっていうことも同じよ。出産して、役所に届けて、子育てをしているからって、お母さんやお父さんになっているとは限らない。子供が「お母さん」「お父さん」って呼んでくれるから、言葉にできる前から泣いて頼ってくれるから親になれるの。
先生だって同じよ。あなたが先生になるための努力を重ねることはもちろん大事。それは頑張りなさい。教壇に立つということの責任の重さを忘れないように。
しっかり勉強して、準備をするのよ。
それが、啐啄の『啐』。あなたが内側から殻をつつくということ。
でも、それだけだと殻を破ることはできないの。
あなたが先生になるためには生徒たちの『啄』、外側から殻をつついてもらうことが必要なの。
生徒たちはあなたの『啐』の音をよく聞いている。殻を破ろうとする姿をよく見ている。その上で、外側から殻をつついてくるのよ。それは、あなたが期待するようなやり方ではないかもしれない。殻を壊されるような思いを抱くこともあると思うわ。でもね、生徒たちの『啄』なしには先生にはなれないの。あなたは、あなたの殻を外側から破ろうとする生徒たちの先生になるのだから。
自分一人では先生にはなれないの。目の前の生徒たちの存在なしに先生にはなれないでしょ。生徒たちに先生と認められるためには、「啐啄同時」の経験が必要なのだと思うわ。生徒たちは、あなたが殻を破って自分たちの前に先生として現れることを待っているのだから。
ややこしいのだけれど「啐啄同時」っていう関係はその「啐啄」の役割が相互に入れ替わるものなの。あなたが先生になるっていうことを経験する時、生徒たちも生徒になるっていることを経験しているの。
「私たちの先生」として、あなたを迎えてくれる生徒たちは、その瞬間にあなたの生徒たちになっているはずよ。先生と生徒がお互いの成長のために相互に「啐啄」を経験している。そんな風に考えてみたらどうかしら。
私だって、こうしてあなたが話に来てくれるから、ばあちゃんとしての役割が果たせるのよ。あなたが相談してくれるから、ばあちゃんとして話せるの。
親子だって、先生と生徒だって同じよ。
友達だって、夫婦だって同じよ。
人間は、そうやってお互いのために働きながら成長してゆくものなのだから。

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