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恐るる何かについて

小学6年の時の担任の先生は詩を書かせることが好きな人で、一ヶ月に一度は生徒にそれぞれ詩を書かせて、それを教室の後方に掲示していました。そこに
「ぼくは死ぬのがこわい」
という一遍の詩があったのを、今ここで目に見えるように記憶しています。


私はその時には、死を恐れてはいませんでした。けれど私にも、死ぬということが恐ろしかった時代があります。
小学4年生の頃だったでしょうか。何かあったという訳でもないのですが、とにかく死ぬということが恐くて恐くて。

で、父親に聞いてみました。死ぬのは恐いよねって。
そうしたら父親は、死ぬのはずっと寝ているようなものだって言いました。
それも恐いよって言ったら、恐くないよって言われました。ぐっすりと眠っている時に、何か考えているかと聞かれました。考えていないと言いました。朝起こされるまであっという間だって。
そうしたら、それと同じことなのだと言われました。死ぬことは、寝ている時と同じ状態。だったら恐くないね、と言ったと思います。


父は死んだことはないはずなので、実体験ではないはずです。あれは私を安心させるために言ったのか、自分でもそう考えているのか、分かりません。
けれど私はずっとそれを信じていることで、今は死ぬこと自体を恐いとは感じていません。死ぬまでの過程は別です、ちょっと恐いです。


祖母は、祖父が亡くなった後かなり沈んでいました。それが晴れたきっかけは、近所の人に言われた言葉だったそうです。
「そんなに泣かなくても、今頃はあの世で、うちの旦那と飲み会してるに違いないんだから」
その言葉で祖母は楽になったと言っていました。あの人はきっと笑っている、そう信じられることは幸せなことです。

私の妹は、幽霊も死後の世界も信じません。けれど私は、死を安らかに迎えられるきっかけが宗教だろうが妄想だろうが、それは救いだと思います。
死の先に待っているのは無かもしれない、地獄かもしれない、輪廻転生かもしれない。それは死んでみないと分からないけれど、恐い思いをせずストレスを感じずに過ごせるなら、何かを信じられることは支えになるものだと思うのです。
事実、死ぬことを恐がって生きるより、恐くないと信じている方が私はずっと楽です。


山田詠美さんの、どの小説かは憶えていないのですが、あとがきに、死についてこう書いてありました。
曰く、死ぬのが恐い。自分の死そのものは恐くない、けれど自分が死ぬことで悲しむ人がいるということが恐ろしい、と。


死ぬことが誰かを悲しませることなら、私も死が恐ろしいかもしれません。そしてそれなら、生きることとは自らの死を悲しんでくれる誰かを増やすこと。そう言えるようになれたらいいなぁと思うのです。


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