お伊勢さまと奈良の旅
この記事に目をとどめていただき、ありがたうございます。
少しばかり前に出掛けた時の内容です。もしかしたら、記憶が曖昧かも知れません。最後までお付き合ひいただけたら幸甚です。
1、序
令和四年三月五日から七日までの三日間に、私は七日に古希を迎へる母と、神宮と奈良、そして大神神社へと旅に出ました。各地の社寺の由来等は、それぞれのHPやWikipediaなどをご参照ください。
くさまくら、旅のはじまりは、新幹線です。朝七時ちやうどに東京駅を出発するのぞみ203号に乗り、名古屋駅まで来ました。名古屋は味噌煮込みうどん、台湾ラーメン、あんかけスパゲティ、きしめんなど食味をそそるものが多くありますが、今回は素通りします。大好きなびっくり味噌カツ弁当すら、買つてゐません。
JR名古屋駅から近鉄名古屋駅に移動しました。九時十分に乗る予定であつた列車より一本早い、八時五十分発の特急列車に間に合つたので、そちらのきつぷを買ひました。伊勢方面へ行く特急のプレミアムシートはJR特急のグリーン車より安く、快適です(本当はしまかぜに乗りたいのですが…)。
ところで、近鉄名古屋駅は何やらものものしい雰囲気であり、母がいち早くそのことに気がつきました。ホームにはSPと思しき人がをり、駅長と思はれる人がホームで車内にゐる誰かの見送りをしてゐます。気になつたので、プレミアムシートがある車両の中を散策してみると、なんと元首相の故・安倍晋三がゐるではありませんか。彼はリクライニングを下ろし、携帯電話を眺め気楽さうにしてゐました。山口県出身で地元が同じである母は、とてもよろこんでゐました(母は以前、桜を見る会にも参加してゐました)。七月八日、理不尽きはまりない通り魔的な凶弾に倒れたこと、無念でありませう。
余談ですが、七月九日の朝刊の一面、デイリースポーツのみ、阪神タイガースの青柳投手でした。かういふブレない姿勢が好きです。ちなみに、私は中学生以来の阪神タイガースファンです。佐藤輝明選手を応援してゐます。輝明と大山で本塁打七十本を期待してゐます。
2、伊勢
近鉄特急は木曽川を渡り、しばらく走ると、煙突がいくつも見えてきます。四日市のあたりです。松阪駅を出れば、伊勢市まではもうすぐです。松阪も行きたいところですが、今回は見送りました。松阪牛も良いですが、私はもう一度、本居宣長の旧宅も訪ねたい、と考へてゐます。そして、無事に伊勢市に到着しました。
特急列車を伊勢市駅で降り、次にJR参宮線に乗り換へました。二見浦に行くためです。二見浦駅を降り、しばらく歩くと海が見えてきます。寒い一日でしたが、太陽が照つてゐて気持ちが良い。
二見興玉神社を参拝し、夫婦岩を拝しました。二見興玉神社の御祭神は猿田彦大神と、宇迦御魂大神の二柱です。
二見浦から再び参宮線に乗り、伊勢市に戻ります。まづは豊受大神宮(外宮)を参拝します。御祭神は豊受大御神です。伊勢市駅から歩いて十分ほどで、拝殿に着きました。神宮は私幣禁断の地、私はただひたすら導いてくださつた神恩に感謝しました。
続いて外宮からバスに乗り、次に皇大神宮(内宮)に向かひます。バスを降り、橋を渡り、五十鈴川で手を清めます。透き通つた美しい流れです。
拝殿に至り、神恩をありがたく思ひつつ、その感謝を神様にお伝へした際、一陣の風が吹きました。私どもに神様が感応してくださつたのでせうか。伊勢の枕詞は「神風」ですが、まさにこのやうなものなのでせうか。
神宮を参拝すると、心ある人は西行法師が詠んだとされる、
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
の歌を想像されるでせうが、私は橘曙覧先生の次の歌を思ひ起こします。
天つ日の 御霊をつけし 御鏡は 五十鈴の宮に 鎮まりいます
神宮は、神々しく、そしてなんともいへないありがたさに満ちてゐます。このありがたさ、かたじけなさは何とも表現しがたく、まさに「体中ぬくぬく」です。
神風の 伊勢の宮居に 吹く風は 母をし呼べる しるしなるらし 可奈子
おかげ横丁を歩き、途中、伊勢うどんや牡蠣、お酒等、伊勢の名産を堪能しました。「而今」と「三諸杉」といふお酒が美味しく、焼き牡蠣とよく合ひました。名実共に「ぬくぬく」です。
あの一帯は、観光客が多く、とても武漢熱禍とは思へない活況でした。マナーが守られてをれば、かうした活況は神様も地元の人もよろこぶことでせう。
神宮を参拝後、バスで宇治山田駅に移動し、宇治山田駅から大和西大寺駅まで特急で移動します。車内では、赤福を食べてゐました。絶品です。途中、大和三山の一つ、耳成山が少しだけ見えました。
大和西大寺駅から各駅停車で近鉄奈良駅に行きます。車窓左手には、平城宮大極殿跡が見えます。
本来、奈良のみやこといへばこの辺りなんですよね。今、私どもに馴染みある東大寺や春日大社の辺りはみやこのはずれです。さらにいふと、平城京はとても歴史が短いみやこでもあります。我が和銅三年、西暦では710年を「なんと(710)見事な平城京」で覚えた方もゐると思ひますが、それから一時的に紫香楽宮や難波、恭仁京への遷都もあり、さらに延暦三年(784)には長岡京に都を遷してゐます。なので、どちらかといふと奈良よりも飛鳥の方がみやことしての歴史は長く古いでせう。
閑話休題、奈良に着いてから、最高級の手ぬぐいで知られる朱鳥でお土産を買ひました。ここの手ぬぐいは抜群の一品です。そして、山辺の道の帰りにいつも立ち寄る天理スタミナラーメンを食べました。思ひの外、母が気に入つてくれたことが意外でした。
ここからJR奈良駅前まで歩き、駅前のスーパーホテルLOHAS奈良に宿泊しました。ここは、温泉が良いです。奈良や山辺の道を歩く際には、常宿にしてゐます。
3、奈良めぐり
東大寺
翌日。三月六日は、奈良市内から斑鳩方面を巡ります。まづはバスで東大寺まで移動し、東大寺を参拝します。吉城川を渡り、東大寺大仏殿に入ります。吉城川は小さな細い川ですが、実はこの川は『万葉集』に詠まれてゐます。
吾妹子に 衣春日の 吉城川 よしもあらぬか 妹が目を見えむ (巻十二・三〇一一)
(私の大切な人に衣を貸す、春日の吉城川よ。手立てもないものか、あの子に会ひたい)
素敵な歌ですね。男性の歌ですが、私も異性からこのやうに思はれてみたいものです。
幾度か焼け、その都度復活した大仏殿を見てから、境内を散策します。
ちやうど、お水取り(修二会)の時期です。その舞台である二月堂を見、遠くから正倉院を見てから、鹿の頭を撫でつつ春日大社まで歩いて行きます。若草山が相変はらず、綺麗でした。
春日大社と万葉植物園
春日大社を参拝しました。前日には、薩摩琵琶奏者の友吉鶴心さんが奉納演奏をされたさうです。参拝後は、昭和天皇より御下賜金をいただき造られた万葉植物園を見てまはりました。万葉植物園は、季節によつて見せる顔が違ひます。春には春の花が、秋には秋の花が咲きにほひ、私どもの心を和ませてくれます。それぞれの花の前には、丁寧な字で書かれた万葉の歌の案内板があり、親切です。春日大社に参拝した折は、いつも立ち寄つてゐます。私のすごく好きなところです。
寒き朝開 春日の園の 梅の花 けふをさかりと 咲きにけるかも 可奈子
興福寺と猿沢の池
植物園横の喫茶店で少し休んでから、次に興福寺を参拝します。宝物館では阿修羅像が注目されますが、私は山田寺仏頭の方が興味があります。といふより、私は仏教関係に興味がありません。
興福寺から猿沢の池に出ます。『大和物語』によれば、平城天皇の采女(各地の豪族の娘で、容姿端麗な人)が猿沢の池に身投げをし、後に行幸の際に天皇が歌を奏上させた中に柿本人麻呂が歌を詠んだ…といふ話しが伝はつてゐます。その歌が、
わぎもこが 寝くたれ髪を 猿沢の 池の玉藻と 見るぞ悲しき
といふものであつて、人麻呂の力量から見ればとてもとても及ばない歌です。人麻呂伝説の一つといふものでせう。
池の横を通り、率川を渡ります。率川は川の流れさへも絶えてしまつたやうな小さな堀のやうな川ですが、この川も『万葉集』に出てゐます。
はねかづら 今する妹を うら若み いざ率川の 音の清けさ (巻七・一一一二)
(はねかづらを新しくする彼女が初々しいので、サアと誘ふ、率川の音の清らかなことです)
元興寺
少し行けば、元興寺です。妖怪ぐわごぜには今日も会へませんでしたが、飛鳥時代から残る瓦を見ました。なほ、ぐわごぜのことは『日本霊異記』に書かれてゐます。故・水木しげるが『日本霊異記』を漫画にしてをり、そこにも描かれてゐますので手早く読みたい方はどうぞ。
また、元興寺では、かつてここにゐた僧侶について思ひ起こします。
白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我し知れらば 知らずともよし (巻六・一〇一八)
(真珠は人に知られない。しかし、知られなくても良い。たとへ知られなくても、自分が知つてゐるならば、良い)
修行を積み、知識もありましたが、世に顕れることなく人に軽蔑されてゐたさうです。そして、この歌を作つて、自身の才能を嘆いたと左注に書かれてゐます。
また、元興寺はかつて明日香にありました。平城遷都に伴ひ奈良に移つてきたのですが、かつての元興寺の里を思ひ、大伴坂上郎女が作つた歌、
故郷の 明日香はあれど あをによし ならの明日香を 見らくしよしも (巻六・九九二)
(古京の明日香も良いのですが、奈良の明日香を見るのも良いものです)
も思ひ出されます。
唐招提寺
元興寺から歩いて近鉄奈良駅前に戻り、ここからタクシーで唐招提寺に向かひます。鑑真については谷省吾先生の『石のひゞき』(皇學館大学出版部)中の「御目のしづく」にとても親切な記述があります。
芭蕉の、「若葉して 御目のしづく ぬぐはばや」の句が思ひ出されます。平泉澄先生が『芭蕉の俤』(錦正社)の中で、芭蕉を歴史家と評しましたが、その意味がよくわかりませう。
薬師寺
唐招提寺から歩いて薬師寺を参拝します。天武天皇九年、天武天皇が後の持統天皇となられる鵜野讃良皇女の御病気の平癒を祈られて発願されました。しかし、天武天皇は完成を見ずに崩御され、持統天皇の御代に藤原京に造営されました。
母は大谷徹奘のファンであり、著書を買つてゐました。私は高田好胤をとても立派な人だと思つてゐます。
法隆寺
薬師寺を参拝後、バスで斑鳩に出ます。中宮寺は参拝できませんでした。私は仏像にまつたく興味がありませんが、中宮寺の半跏思惟像だけはその神々しさ、美しさといふ点において抜群のものだと考へてゐます。私の好きな浅田真央ちやんによく似てゐますね。
法隆寺では夢殿を見、釈迦三尊像などを見た後、宝物館を見学しました。大山某といふ某大学の教授が聖徳太子不在説といふ珍説を唱へてゐました。せめて、東北大学の田中英道氏の反論に答へてほしいものです。そのやうなことを思ひつつ、百済観音像や玉虫厨子を見てゐました。
あをによし 奈良のみやこの 寺々を 巡り歩けば うれしくもあるか 可奈子
法隆寺を参拝し、再びバスでJR奈良駅前に帰つて来た時には陽が暮れてゐました。駅前の飲み屋で夕食を食べ、昨日の三諸杉を堪能しました。ホテルに帰りすぐにお風呂に入り、早く寝ることにしました。
4、大神神社と大和神社参拝
三月七日。最終日は、母の誕生日です。ホテルでゆつくり朝食を食べ、JR奈良駅から桜井線(万葉まほろば線)に乗ります。まづは、大神神社を参拝します。三輪駅を降り、しばらく歩くと、大神神社の拝殿に着きます。ちやうど神職たちによる朝拝が行はれてゐました。それにしても、巫女さんは綺麗ですね。憧れます。
大神神社の拝殿に今日、ここに招いてくださつた神恩に感謝の祈りを捧げました。薬道を通り少しだけ北に歩くと狭井神社に着きます。狭井神社で御神水いただき、参拝をしました。ここから三輪山に登拝できますが、武漢熱禍により、果たせませんでした(なほ、余談ですが、私は武漢熱のワクチンを受けてゐませんし、これからも受けるつもりはありません。理由は近藤誠氏、または内海聡氏の本をお読みください)。
狭井神社から、展望所である大美和の杜展望台に行けます。ここからの眺めは、まさに絶景。花の咲く時期は、さらに良いことでせう。耳成山はもちろん、畝傍山もよく見えました。
そして、母とわづかな距離ですが山辺の道を歩きました。田舎に似てゐて落ち着くと言つてました。なほ、山辺の道については前に書いたものがありますので、そちらもご参照ください。
倭笠縫邑の伝承地である檜原神社を参拝し、遠目に二上山を見、巻向駅まで歩きました。途中、垂仁天皇纏向珠城宮跡の前を通りました。巻向といふと、卑弥呼がここにゐた説が「学界」では有力(多数決の結果)ですが、私は田中卓先生に従ひ九州説が真実に近いと思つてゐます。ここから電車で長柄駅まで行きます。長駅から十分程歩くと、大和神社に到着します。
大和神社の拝殿には、柏木白光氏の筆による本居宣長の、
敷島の やまと心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花
の書が飾られてゐました。柏木氏は、各地の神社に書を奉納されてゐる書家で、大変見事な書風です。
また、山上憶良の好去好来碑などもありました。この碑の字もとても見事なものでした。
大和神社は戦艦大和にゆかりある神社であり、文字通り大和守護神とされました。祖霊社に伊藤整一中将らを祀つてゐます。一人でも多くの方に参拝していただきたい神社であるやうに感じました。奈良まで旅行された際には、一度参拝に訪れてみてはいかがでせう。
母の希望で、再び、奈良駅に帰り天理スタミナラーメンを食べました。さういへば、奈良名物はほとんど食べてゐません。奈良漬も買つてゐなければ、柿の葉寿司も三輪素麺も食べてゐません。よくよく考へてみると、奈良には美味しいものがあまりないやうな気もします。奈良の方に申し訳ないのですが…。
帰りは、近鉄奈良駅からのんびりと京都駅まで行き、新幹線で帰りました。
古へゆ まれなるとしの めでたさを 三輪のやしろに いはひけるかも 可奈子
余談ですが、私の愛用するギョサンは、奈良県御所市の丸中工業所で作られてゐます。Made in Japanです。とても丈夫で、滑らないのが特徴です。見た目も案外、オシャレですよ。
最後までお読みいただき、ありがたうございました。
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