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山辺の道を歩く旅

 この記事に目を留めていただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
 今回の内容は、表題の通り、奈良県の山辺の道(桜井市から天理市を経て奈良市)を歩いた時のことを思ひ出しながら書いたものです(八月十四日、加筆修正)。私は山辺の道が好きで、令和四年八月現在で九回歩いてゐます。とても素敵な、いにしへの風を感じられる土地です。
 どうか、最後までお付き合ひください。

山辺の道の図

出発

 楽しみは いづくか知らぬ あしひきの 山辺の道 たづね歩く時 可奈子

 バスタ新宿から、グランドリーム七号に乗り奈良駅へと向かひます。早朝の奈良駅に着き、駅前のコンビニで行動食や飲み物を買つてから春日大社までタクシーに乗りました。
 出発の時間はちやうど朝の八時です。今日歩く、山辺の道といへば『日本書紀』にその記述があり、わが国最古の道と考へられてゐます。しかし、実際にどのやうな道で、どこを歩いたものであつたのか、まつたくわかつてゐません。『万葉集』にも詠まれた海柘榴市が起点と考へられ、三輪山のふもとから石上神宮あたりに通じ、さらに現在の奈良市あたりまで続いてゐたといはれてゐますが、その全容も中身もわかつてゐないのです。

 一応、一般的に北コースと南コースが知られてをり、北が奈良市内の新薬師寺の辺りから天理市の石上神宮まで。南コースが石上神宮から海柘榴市までといはれてゐます。特に南コースは見所が多く、距離もそれほど長くなく楽しいところです。そして、それは東海自然遊歩道の一つとなつてゐます。

 つまり、現在「山辺の道」といはれてゐる場所は大雑把にいふと現代の人が「大体こんな感じだらう」といつて決めたものです。今のいはゆる「山辺の道」が古代の道かどうか、確かなことはいへません。しかし、私はこの「山辺の道」が好きなので何度も歩いてゐますし、仮に古代とまつたく同じではなくても、いにしへの息吹は感じられると思ひ訪ねてゐます。

春日大社


北コース

 まづは春日大社の神々に、旅の無事を祈ります。いふまでもなく、春日大社は藤原氏の氏神を祀つてをり、その創建は奈良時代の頃です。私の思ひ付きでは、「山辺の道はこの辺りが終点ではないか」と思つてゐますが、これは最後に紹介しませう。

 北コースは人気がないのでせうか、歩いてゐる人が少ないです。観光化されてゐないので、どこか牧歌的な感じがします。しかし、そこがとても魅力的です。

春日大社の南側、山辺の道最北の標識

 春日大社の本殿から南に下りしばらく歩くと、山辺の道最北の標識があります。私はいつもここを歩く起点(または終点)としてゐます。そこから南に少し歩くと、新薬師寺に着きます。今回は立ち寄りませんが、ここに鎮座する木造薬師如来坐像や塑像十二神将立像は国宝にも指定されてゐます。小さなお寺ですが、趣深いものがあります。開山は聖武天皇とも光明皇后ともいはれてゐます。
 しばらく行くと、小さな川があります。その川は、能登川といひ『万葉集』の中にも詠まれた歌があります。

 能登川の 水底さへに 照るまでに 三笠の山は 咲きにけるかも (巻十・一八六一)
 (能登川の底まで照り輝くまでに、三笠の山は花が咲き満ちてゐることです)

 またしばらく歩くと、左手に白毫寺が見えてきます。このお寺は、萩の名所として知られ、かつては志貴皇子の別荘があつたとされてゐます。私が歩いた時にはまだ萩は咲いてゐませんでしたが、境内へと至る階段には萩が植ゑられてゐました。後ろを振り返ると、奈良市内が眼前に広がります。そして、目の前には高円山です。境内には、私が尊敬する万葉学者・犬養孝先生の歌碑があります。笠金村の志貴皇子への挽歌です。

 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに (巻二・二三一)
 (高円の野辺に咲く秋萩はむなしく咲いては散つていくだらう。見る人(志貴皇子)がゐなくなられて)

 雅にして、清新な御歌を詠まれた皇子を偲ぶのに、まことにふさはしい挽歌でせう。
 「明日香 うたの旅 続」にも志貴皇子のことを書いてありますので、併せてお読みいただけたら幸甚です。

犬養孝先生万葉歌碑
白毫寺からの眺め

 白毫寺を後にして、しばらく舗装された道を歩いて行くと、柵が見えて来ます。柵には扉が付いてをり、それを通過すると農道のやうな道に出ます。なほ、この柵と扉は鹿や猪が入つて来ないやうに設置されたものです。ここからしばらくは、田んぼの脇など自然を感じられる道を行きます。

イノシシ防護柵

 歩いてゐると、ところどころに歌碑が建つてゐます。ちなみに、北コースは南コースと違い、石碑が少なく、特に歌碑は木の板に記したものばかりです。しかし、字は地元の高校の先生などが書かれたもので、とても上手です。
 仏教にその名の由来があるといふ鹿野園といふ地に着くと、間もなく八阪神社が見えるでせう。そこからさらに溜池の堤の上の細い道を歩き、寂しい道をただ歩いて行きます。道がひらけてくれば、白山比咩神社が見えてす。その近くには、嶋岡神社が鎮座してゐます。ここには中臣宅守の歌碑があります。

白山比咩神社

 あをによし 奈良の大路は 行き良けど この山道は 行き悪しかりけり (巻十五・三七二八)
 (奈良の都大路は行きやすいけれども、この山道はなんと行き悪いものよ)

 この歌は宅守の越前下向の歌なのでここにあるのは違和感がありますが、少なくても現在の山辺の道は当時より「行き悪しかり」し道ではありません。

白山比咩神社
中臣宅守歌碑
崇道天皇陵

 次に見えてくるのが、崇道天皇陵です。長岡京遷都に反対し、淡路にお移りする途中、薨じられた早良親王の陵です。ここから細い道を通つて円照寺の前を通ります。円照寺は尼寺で、拝観はできません。細い道を抜けると、池の前に出ます。右に曲がり、田んぼの中を進んで行きます。しばらく行くと額田王の、

 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さうべしや (巻一・一八)
 (三輪山をあのやうに隠すものか、せめて雲だけでも思ひやりがあつても良いものなのに、あのやうに隠してよいものか)

の歌碑が見えてきます。ここから三輪山はまだはるか南にあり、まだまだ見えません。この歌碑を目印に左に曲がり、今度はひたすらまつすぐ進みます。車の往来が激しくなり、注意が必要です。しばらく進むと、田んぼが見えてきます。六、七月にはカブトエビやホウネンエビの姿が見られるでせう。

よく見るとカブトエビが…
弘仁寺

 田んぼの脇を歩いて行くと、山道に入る階段があります。ここを登ると弘仁寺です。とても立派なお寺ですが、ひつそりとしてゐます。
 お寺の階段を降り、田んぼの脇道を歩きます。ここからしばらくゆるい登り坂になります。天理大学のグラウンドが見えてきて、その脇を道なりに進むと、白川ダムに着きます。晴れた日には、ヘラブナ釣り師がで釣りを楽しんでゐます。

白川ダム

 しばらくダムを眺めながら南に向かつて歩いて行きませう。名阪国道の真下をくぐり、ゆるい登り坂を進んで行くと、竹林に入ります。ここはウワナリ塚古墳、石上大塚古墳で、古墳時代後期の古墳です。古墳の脇を通り抜け、しばらく畑の脇道を歩くと、天理の街が見えてきます。

竹林
石上大塚古墳

 天理市街を尻目に、しばらく大通りを歩くと、矢印が見えてくるので左に曲がりませう。農道のやうな細い道を道なりに歩くと、豊日神社が見えてきます。さあ、間もなく北コースも終はりが見えてきました。豊日神社からもうしばらく南に進んで行くと、『万葉集』にも歌はれた布留の高橋が見えてきます。

 石上 布留の高橋 高高に 妹が待つらむ 夜ぞ更けにける (巻十二・二九九七)
 (石上の布留の高橋のやうに、高々と爪立つ思ひで彼女が待つてゐるであらう、夜が更けて行く)

 大切なあの人を思ひ待ち続ける彼女を思ふ男性の歌です。素敵です。

ふるのたかはし

 現在では、コンクリート製の橋に架け替えられてゐますが、何となくいにしへの息吹が感じられるのではないでせうか。左手にはハタの滝が見えるでせう。橋を渡れば、石上神宮はもう目の前です。細い道を、急いで歩けば神宮の楼門が見えてきます。

石上神宮楼門

南コース

 石上神宮に旅の無事を祈り、境内で鶏と戯れたら、さらに南に進みませう。池が見えてくると、その脇には僧正遍昭の歌碑が立つてゐます。前述した通り、南コースの歌碑は、北コースと違ひそのほとんどが石碑です。

石上神宮の鶏
石上神宮境内の柿本人麻呂歌碑

 そして、南に進んでゐると芭蕉の句碑が見えてきます。この一帯は内山永久寺跡で、廃仏毀釈により跡形もなくなつてしまひました。句碑の横には小さな池があります。この池には鰉といふ魚がおり、明治天皇が大変好まれた魚です。
 しばらくまた道を進みませう。登り下りを繰り返し、歩いてゐると小さな森が見えてきます。これが夜都伎神社です。木々に囲まれた小さなお社です。

夜都伎神社

 またしばらく進むと、古い民家が見えてきます。そこを通過して行くと、竹内環濠集落に出ます。そして畑の間を歩いて行くと右手には生駒山も見えてきます。かつて、雨の日に山辺の道を歩いた時、次の万葉歌を思ひ浮かべたものでした。

 君があたり 見つつも居らむ 生駒山 雲なたなびき 雨は降るとも (巻十二・三〇三二)
 (あなたの家のあたりを見ながら、お待ちしませう。生駒山に雲よ、たなびかないでおくれ。雨は降つても)

そして、この歌は、

 君があたり 見つつを居らむ 生駒山 雲な隠しそ 雨はふるとも

『伊勢物語』の「筒井筒」にある歌とよく似てをり、その理由を考へたりしました。『万葉集』と『伊勢物語』を関係について、私はまだ何の見解も持つてをりませんが、決して両者は無関係ではない。さう感じてはゐます。

雲な隠しそ 雨は降るとも

 のんびりした景色が続きます。途中、みかんや農産物の無人販売所もあります。西山塚古墳を通過すると、念仏寺の墓地の間を通り抜けて行きます。間もなく、大和神社御旅所に着きます。ここはさながら小さな公園です。大和神社は大和の地主神である日本大国魂神をお祀りする神社です。山辺の道からは少し離れたところに鎮座してゐます。

大和神社御旅所

 さらに進むと、再び犬養孝先生の揮毫による、柿本人麻呂歌碑があります。

 衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし (巻二・二一二)
 (衾道の引手の山にあの人を置いてきて、山道を行くも、生きてゐるとも思へない)

 柿本人麻呂が亡き妻を偲んで詠んだ、いはゆる「泣血哀慟歌」の長歌の反歌です。

犬養孝先生歌碑

 歌碑の向かふに見える山が歌の中にある引手の山です。ここを通り抜けると、天理トレイルセンターに着きます。ここで昼食を食べたり、休憩するのも良いでせう。

 天理トレイルセンターの前には、長岳寺といふ空海が開山したといふ伝承のあるお寺があります。今回は、長岳寺には立ち寄らず、そのまま南に歩きます。しばらく歩くと、崇神天皇陵が見えます。第十代天皇で、皇學館大学名誉教授の故・田中卓先生は『古代天皇の秘密』(サンブックス)の中で崇神天皇の存在を確実なことだとしてゐます。私はその説を最も合理的かつ説得力のあるものと考へ、支持してゐます。
 以下のURLは、国書刊行会の田中先生の御著書です。
 https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336061669/

景行天皇御陵

 再び山道に入つて行きます。間もなく景行天皇陵に至ります。日本武尊の御父にあたり、九州まで征討されたことが知られてゐます。御陵からは、畝傍山、耳成山、そしてさらにその向かうに楠木正成公ゆかりの金剛山も見えます。

右の岡が景行天皇御陵です。

 柑橘系の畑を抜けると、脇道の向かうには纏向日代宮と相撲神社があります。景行天皇の御宮です。巻向は、「柿本人麻呂歌集」にたびたび詠まれたところです。

 あしひきの 山川の瀬の なるなへに 弓月が嶽に 雲立ち渡る (巻七・一〇八八)
 (山川の背の音が高鳴り、弓月が嶽に雲が立ち渡る)

 鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の 檜原の山を 今日見つるかも (巻七・一〇九二)
 (噂に聞いてゐた巻向の檜原の山を今日、見たことよ)

 ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き (巻七・一一〇一)
 (夜がやつて来ると巻向川の流れの音が響きわたる。山の嵐が激しいのだらうか)

 さらに巻向川を渡り、景色を眺めながら歩いて行きませう。

万葉歌碑
棟方志功筆 万葉歌碑
私の好きな景色です

檜原神社

 途中の歌碑に目を向けつつ、道なりに進んで行くと桧原神社に着きます。笠縫邑の伝承地とされてゐます。私は、崇神天皇の御宮の跡が近くにあることから、この地が八咫の鏡をお祀りした笠縫邑ではないかと思ふのです。鳥居のかなたには、大津皇子の葬られた二上山がはつきりと見えませう。

檜原神社
檜原神社より二上山をのぞむ

 うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を いろせとわが見む (巻二・一六五)
 (今を生きる私は、明日から二上山を弟と見続けよう)

 これは大来皇女の御歌です。大津皇子といへば、折口信夫の『死者の書』も思ひ出されませうが、天武天皇の皇子です。体が大きく、頭も良く、文才もあり、剣を好まれた。さらに自由気ままで謙虚であらされたとは、『懐風藻』の評です。

狭井神社

 再び、山道を進みませう。玄賓庵の前を通過して、小さな狭井川を渡ります。この川は『古事記』にも出てきて、神武天皇の皇后である伊須気余理比売に次のやうに詠まれました。

 狭井川よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす

 川を渡り、いかにも山辺の道といふ風情のある道を歩いて行くと狭井神社が見えてきます。この神社から三輪山登拝ができます。美しい御神水がこんこんと湧いてゐます。

狭井川
狭井神社
三輪山登拝の注意書き

大神神社

 大神神社は狭井神社からすぐです。拝殿の向かうには神々しい何かを感じることができませう。そして、杉の木、いはゆる「三輪の神杉」からも見えない何かを感じることもできませう。

三輪の神杉
大神神社拝殿

 余談ですが、かつて二度ほど三輪山の登拝をゆるされ、その磐座を拝することができました。その頂きで、磐座を拝したとき、不思議な体験をしました。登拝の疲れが一気に消え、心が晴れたのです。悩みやストレスが一気に消えてしまひました。
 その時の感動を次のやうな歌にしました。

 三輪山の 神つ磐座 とこしへに かはらずあらむ 神つ磐座 可奈子

海石榴市

 大神神社を発ち、平等寺の脇を通過して細い道を歩いて行くと、崇神天皇の御宮の跡である磯城瑞垣宮跡があります。さらに進んで行くと金屋の石仏があります。石仏から海柘榴市はもう目と鼻の先です。
 海柘榴市には、椿市観音が鎮座してをり、清少納言の『枕草子』などにも書かれてゐます。やつと、山辺の道を踏破です。私の計測では、約二十六キロメートル、歩数にして四万二千歩でした。

むらさきは…の歌碑

歩き終へて

 海柘榴市は、大和川の水運と「八十の衢」といはれたその土地柄から、交易の盛んなところでした。『万葉集』にも詠まれました。

 紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十の衢に 会へる子やたれ (巻十二・三一〇一)
 (紫染めには椿の灰を入れるものだ。その海柘榴市の八十の衢に会つたあなたはどこの誰ですか)

さらに歌垣も開かれ、男女の出会ひの場となつてゐました。

 山辺の道は、大和川の水運、海柘榴市の市、磯城瑞垣宮(崇神天皇)、大神神社(三輪氏)、纏向日代宮(景行天皇)、石上神宮(物部氏)、さらに北に和邇氏、春日氏と氏族の拠点(春日大社のあたり)とつながつてゐます。
 それらから思ひ付くのは、山辺の道とは「皇室と氏族を経済によつてつなげる道」なのではないか、といふことです。もちろん、これは私の勝手な想像ですが。古代史の専門家からは、到底相手にすらされないでせう。

 さて、海柘榴市から大和川の前に出ると、仏教伝来地の碑があり、桜井駅までは残り二キロ程です。

仏教伝来地

 仏教伝来碑から少し脇道に逸れてみませう。東に少し歩くと、敷島公園といふ小さな公園があります。ここはかつて、欽明天皇の磯城嶋金刺宮があつた地と考へられてゐます。保田與重郎の筆による、「欽明天皇磯城嶋金刺宮址」の碑がありますが、私はそれ以上に、「柿本人麻呂歌集」の歌が刻まれた小さな歌碑に注目します。

 敷島の やまとの国は 言霊の さきはふ国ぞ 真幸くありこそ (巻十三・三二五四)
 (敷島の大和の国は、言霊の幸運を与へてくれる国です。どうかご無事で)

 この歌碑の揮毫をされたのは、平泉澄先生です。私の『万葉集』でもつとも好きな歌を先生が揮毫されてゐるといふ喜びは、何にも変へ難く、まさに心の中「ぬくぬく」です。

欽明天皇磯城嶋金刺宮址
欽明天皇磯城嶋金刺宮址
平泉澄先生揮毫 万葉歌碑


 なほ、参考までに吉川弘文館から『山辺の道』が出てをり、各地の神社や古墳、祭祀など幅広く学術的に学ぶことができませう。また、大神神社が発行する『大神神社と山の辺の道』も親切で素敵なガイドブックです。

5月7日に山辺の道を歩いた際に作つた歌

追記…
 山辺の道を歩いた後、ついつい私は天理スタミナラーメン(チャーシュー麺、大盛り)を食べてしまひます。
 美味しいですよね。
 そして汗を流すのに、いつも大西湯に行きます。ミストサウナもあり、風情のある素敵な銭湯です。水風呂はありませんが。

近鉄奈良駅前の天スタ
大西湯

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。こちらも山辺の道に触れてゐますので、併せてお読みいただければ幸甚です。

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