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明日香 うたの旅 続

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。前回に続き、明日香に万葉のうたを訪ねる旅を続けていきませう。どうか最後までお付き合ひください。

 真弓丘陵から北に少し行くと、マルコ山古墳があります。ここも、その出土品などから皇族級の方が埋葬されてゐたと考へられてゐます。天智天皇第二皇子であらされる川島皇子説がありますが、如何でせう。

マルコ山古墳
マルコ山古墳

 その他、近年では斉明天皇の御陵と考へられてゐる牽牛子塚古墳など、興味深いところはあります。

檜前大内御陵

 さて、高松塚古墳からさらに道なりに自転車を走らすと、すぐに古墳(上円下方墳)が見えてきます。ここは、天武天皇と持統天皇がおしづまりになる檜前大内御陵です。御陵の階段を登り、頂きにて両天皇の御霊に拝礼しました。

 天武天皇は、「大皇は 神にし坐せば」と讃へられた天皇です。壬申の乱といふ大戦に勝ち、大化の改新完成に向けた大きな事業(國史編纂、八色の姓をはじめとする大改革)をいくつも達成されて来られたからこその「神にし坐せば」との「讃へ言葉」でありませう。「神にし坐せば」の『万葉集』における初例は大伴御行の、

 大皇は 神にし坐せば 赤駒の 腹這ふ田井を 都となしつ (巻十九・四二六〇)
 (天皇は神にあらされるので、赤駒が腹這ふ田んぼを都とされてしまはれた)

 そして、もう一首。

 大皇は 神にし坐せば 水鳥の すだく水沼を 都となしつ (巻十九・四二六一)
 (天皇は神にあらされるので、水鳥が鳴き騒ぐ沼を都としてしまはれた)

があります。後者は誰が作つたのかわかりません。これらは、天平勝宝四年(752)二月二日に、大伴家持が誰かから聞いて、『万葉集』に記録したものです。大伴御行は壬申の乱で功績がありました。家持から見たら、祖父の兄弟といふことになります。『竹取物語』で出てくる同名の人のモデルです。
 壬申の乱や天智天皇について、山本直人さんの『敗戦復興の千年史』(展転社)といふ労作がありますので、ご参考までに。『マーケティング企画技術ーマーケティングマインド養成講座』(東洋経済新報社)の著者とは違ふ方ですので、お気をつけて。

 私が興味深く思ふのは、これだけ神と讃へられた天皇でありながら、『万葉集』にその挽歌があまりにも少なく、わづかに持統天皇の四首のみです。天智天皇と比べてみても、その差ははつきりとしてゐます。
 朱鳥元年(686)九月九日。天武天皇が崩御された際に、即位前の持統天皇がお詠みになつた御歌を見てみませう。

 やすみしし 我が大皇の 夕されば 見し賜ふらし
 明けくれば 問ひ賜ふらし 神丘の 山の黄葉を
 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも 見し賜はまし
 その山を ふり放け見つつ 夕されば あやに悲しび
 明けくれば うらさび暮らし 荒栲の 衣の袖は 乾るときもなし (巻二・一五九)
 (我が天皇の夕べにご覧になるらしい、朝にはお言葉をおかけなさるらしい、かみの山の黄葉に今日もお言葉をかけてください。明日もまたご覧になつてください。私は、その山を遠く仰ぎながら、夕べを迎へるとなにやら悲しくなり、明けても寂しく暮らし、衣の袖が涙で乾く間もありません)

 まことに哀切極まりない挽歌です。「やすみしし 我が大皇」と歌ひ出し、その内容は極めて身近な内容です。故に余計に胸に迫るものが感じられます。「神」だ「偉大だ」と讃へるよりも、身近な事柄でその人を偲ぶことが何よりも心に響くやうに、私には思ふのです。
 次は一書にある持統天皇の御製です。

 燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言はずや 面智男雲 (巻二・一六〇)
 (燃えさかる火を取り、包んで袋に入れると言ふではないか

 北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月を離れて (巻二・一六一)
 (北山にたなびく雲は、青雲の星を離れ、月も離れて去つて行つた)

 前の御製は、いはゆる難訓歌で、結句の訓み方が現代でもわかつてゐません。二首目の御製も意味が取り辛く、難解です。北山は原文「向南山」で神山と訓む説があります。明日香周辺に北山といふ山はなく、天子南面思想によるといふ説もあります。全体的に難解です。
 また持統天皇は、火葬をされた最初の天皇でも知られてゐます。

大原の里

 さて、天武天皇といへば、次のやうな御製があります。

 わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後 (巻二・一〇三)
 (私の明日香の里に大雪が降つてをるよ。お前のゐる大原の里に雪が降るのは、後のことだらうね)

 この御製に対して、奥様の一人である藤原夫人(鎌足の娘、五百重娘)は、

 わが岡の おかみにいひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ (巻二・一〇四)
 (さうではありませぬ。私のゐる龍神に言ひつけて降らせた雪がそちらに降つたのでせう)

 大雪といつても、北海道や福井で降るやうな大雪ではありません。大袈裟に大雪と詠まれ、夫人をからかつてをられるのです。それに対して夫人は、「何を言はれるのでせう」とやり返してをられるのです。このやうな掛け合いは万葉にはしばしば見られます。実に穏やかで和やかな風を感じることができませう。「神にし坐せば」と歌はれた天武天皇にしても、このやうに穏和な御製を詠まれ、楽しんでをられました。
 ある年の冬に明日香を訪ねた際、大原の里でハラハラと雪が降りました。「おかみ」が降らせてくれたのでせうか。とても嬉しく、また天武天皇の御心を追体験でき、ありがたく思ひました。

 大原の 古りにし里に 降る雪は 岡のおかみの しるしなるらし 可奈子

大原の里

甘樫の丘

 大内御陵から、自転車を北に走らすと甘樫の丘に至ります。甘樫の丘は『日本書紀』にその記述は見られますが、『万葉集』にはありません。甘樫の丘を歌つた歌もありません。巻第三に収められた山部赤人の歌「登神岳山部宿禰赤人作歌一首幷短歌(三二四〜三二五)」の「神岳」が甘樫の丘ではないかといふ説があります(後に記す雷丘説もあります)。

 飛ぶ鳥の 明日香にあるらし 神丘は こことは聞けど 誰知るらむか 可奈子

 甘樫の丘は高さ百四十八メートルで、大化の改新以前は蘇我氏の邸宅があつたといはれてゐます。頂きからは藤原京跡や、大和三山を見渡すことができます。そして、この丘の頂で、犬養孝先生は昭和天皇に御進講されました。『万葉集』を学ぶ者にとつて、そして日本人に生まれてこれ以上の名誉はありますまい。

甘樫の丘からの眺め
甘樫の丘からの眺め

 その犬養先生の歌碑が、この丘にあります。階段を降りてしばらく行くと、小さな歌碑が足元にあります。

 采女の 袖吹き返す 明日香風 みやこを遠み いたづらに吹く (巻一・五一)
 (采女の袖を吹き返す明日香風が、都を遠く無用に吹いてゐる)

 明日香風は、『万葉集』の中で唯一志貴皇子が使はれた表現です。とても素敵ですね。私は以前、今回の旅とは別にこの風を知りたくて明日香を訪ねました。よく晴れた日でしたが、風はありません。残念に思ひ駅に向かふ途中、一陣の風が私の前を吹きわたりました。それは、袖を吹き返すやうなものではなく、「フッ」と目の前を通り過ぎる、やはらかい風でした。

 ますらをの そでふきかへす あすかかぜ いかづちやまに いまもふくらむ 可奈子

志貴皇子

 志貴皇子は天智天皇の第七皇子です。天武天皇系の皇族が活躍される時代においては、不遇の日々を過ごされました。しかし、御子である白壁王が即位され、光仁天皇となられると、崩後に春日宮御宇天皇と追尊され、田原天皇と尊称されました。なほ、現在の皇統は、志貴皇子に遡ることができます。「まつのことのはのたのしみ」にも書きましたが、私は志貴皇子が大好きです。その御歌は、私にとつて模範であり、憧れです。
 志貴皇子の御歌、

 石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出る春に なりにけるかも (巻八・一四一八)
 (岩の上を走り、激しく流れる滝のほとりのわらびが、芽吹く春となつたナア)

は千古の響きを持つ名歌でありませう。そして、明日香村が今もいにしへの風を残し、私どもを安心させてくれるのは、犬養先生の功績です。私はかうした点からも先生に対して深い感謝を覚えるのです。

犬養孝先生歌碑
犬養孝先生歌碑 説明

 さて、志貴皇子は晩年、奈良市郊外の高円に住まはれ、恐らくその辺りで薨去されたと思はれます。志貴皇子への挽歌を詠んだのは聖武天皇に御仕へして、行幸の際にいくつかの歌を奉つた笠金村です。その挽歌を見てみませう。

 梓弓 手に取り持ちて ますらをの さつ矢手挟み 
 立ち向かふ 高円山に 春野焼く 野火と見るまで 
 燃ゆる火を 何かと問へば たまほこの 道来る人の 
 泣く涙 こさめに降れば 白妙の 衣ひづちて
 立ちどまり 我に語らく なにしかも もとなとぶらふ 
 聞けば 音のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き 天皇の 
 神の皇子の 出でましの 手火の光そ ここだ照りたる (巻二・二三〇)
(梓弓を手に持ち、ますらをたちが猟の矢を指の間にはさんで立ち向かふ高円山に、春野を焼く野火と見間違ふほど夜空に燃えてゐる火を、あれは何かと聞けば、道を行く人の泣く涙は雨のやうに流れ、衣も濡れて立ち止まつて私にいふには、何故そのやうなことを聞くのでせう。聞いただけで涙が出ます。語れば心が痛い。天智天皇の神の皇子である志貴皇子の御葬送のたいまつの光があんなに照り輝いてゐるのだ)

 反歌
 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに (巻二・二三一)
 (高円の野辺に咲く秋萩はむなしく咲いては散つていくのだらう、見る人(志貴皇子)がゐなくなつて)

 三笠山 野辺行く道は こきだくも しげく荒れたるか 久にあらなくに (巻二・二三二)
 (三笠山の野辺を行く道がこんなにも早く草が茂つて荒れてしまつたか。時も経たぬうちに)

 まるで、その情景が目の前に浮かぶ如き、悲しみの情深き挽歌であり、反歌もまた胸に迫るものがあります。まことに、風雅に生きた皇子に相応しい内容でありませう。

白毫寺
犬養孝先生歌碑
白毫寺からの眺め

 最後に、天皇陛下の御歌を「御製」と申し上げます。間違つて「天皇の和歌」などと言つてはなりません。このやうな名前の書があつたり、論文でそのやうに書く学者もゐますが、彼らは国体を知らぬ者と言へませう(それを訂正できない編集者にも問題はありますが)。

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。次回作も併せてお読みいただければ幸甚です。
(続)

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