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明日香 うたの旅

 いつもお読みいただき、そしてこの記事に目をとめていただきありがたうございます。
 各地への旅を振り返り、noteに書き記してきましたが、私のもつとも好きな地についてまだ書いてゐませんでした。

 さう、そこは万葉のふるさととでもいふべき、明日香です。

 明日香は大好きな地です。のどかで、現代的な建物が少なく、時間の流れがゆるやかです。そして、そこには数千年前の偉大な何か、さう「やまとことば」であり「まつのことのは」の源流が冥々のうちに生きてゐるのです。私は、それを心と体で感じ、探求するのが好きなのです。
 明日香は、今では飛鳥と書きますが、明日香の枕詞に飛ぶ鳥が使はれ、いつしか飛鳥の字が充てられました。何故、明日香が飛鳥なのかはまつたくわかつてゐません。中には、鳥がたくさんゐたといふ学者もゐますが、さうならば鳥に因む地名がたくさんあつても良いはずなのに、それがありません。

 明日香へは多くの人が近鉄、または自動車を使ふことになりませう。しかし、私は免許をもつてゐなければ、車も嫌ひなので電車を前提に記します。
 近鉄吉野線の飛鳥駅を降りると、そこは大きなビルもない、素朴な田舎が広がります。しかし、かつてここには都がありました。すなはち、わが国の中心だつたのです。

 たのしみは ひとりたびして とぶとりの あすかのさとに うたをおもふとき 可奈子

 私はいつも駅の右手にある明日香レンタサイクルで電動自転車を借ります。千五百円を窓口で払ひ、正面の道を真つ直ぐ漕ぎ出します。最初の目的地は、高松塚古墳になるでせう。

高松塚古墳

 高松塚古墳の被葬者はわかつてゐません。有名なその壁画や、出土品から皇族級の人物だと推定はされてゐるものの、具体的には何も解明されてゐません。なほ、地元の人が生姜を保存しやうと穴を掘つたのが、壁画発見のきつかけでした。
 位置的に見ても、天武天皇の皇子が妥当のやうに思はれます。例へば、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子らが挙げられませう。ただし、高市皇子は『延喜式』によれば、ここではありません。
 オカルト好きな人のために余談ですが、高松塚古墳にまつはる「呪い」もあるとか。現に、発掘調査に関はつた人が何人も亡くなつたりしたさうです。「弓削皇子の怨霊」だのと妄言を吐いた梅原某といふ烏滸なのもゐますが、こればかりはわかりません。

高松塚古墳
高松塚古墳

文武天皇御陵 

 高松塚古墳から少し歩くと、そこには文武天皇御陵があります。文武天皇は、第四十二代天皇で、御父は草壁皇子。御母は元明天皇です。持統天皇の譲位により、文武天皇元年(697)十五歳で高御座に登られました。その御代には大宝律令の制定が知られてゐませう。宝算二十五にして崩御されました。

 『万葉集』には、文武天皇の御製と伝へられる御歌が一首あります。

 み吉野の 山の嵐の 寒けくに はたや今夜も わが独り寝む (巻一・七四)
 (吉野の山の嵐が寒いことであるが、あるひは今夜は朕が独りで寝るのだらうか)

 文武天皇がまだ御幼少の頃、当時は軽皇子と申し上げました。持統天皇六年の冬の頃でせうか(『万葉集』の配列から類推)。柿本人麻呂らと安騎野へ遊猟に出掛けられました。安騎野はかつて、御父である草壁皇子が遊猟された地です。そこで人麻呂が作つた歌が次の歌です。

 軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌
 やすみしし 我が大皇 高照らす 日の皇子
 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 
 隠口の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山路を
 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして
 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 
 旗すすき 小竹をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古へ思ひて (巻一・四五)
 (わが大皇、日の皇子、皇子はまるで神のやうに神々しく坐しまして、都を後にして泊瀬の山道を、岩や樹木をおしわけて、朝方に越えて来られて、夕方になれば雪の降る安騎の野にすすきやしのを押しなべて、旅宿りをなさる。草壁皇子の古へを思はれて)

 短歌
 安騎の野に 宿る旅人 うち靡き 寐も寝らめやも 古へ思ふに (巻一・四六)
 (安騎の野に宿る旅人たちは、寝られやうものか。古へのことを思はれて)

ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し (巻一・四七)
 (ここは荒れた野であるが、今は世を去られた君=草壁皇子の形見としてやつて来たことだ)

 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ (巻一・四八)
 (東の野に曙の光がさす。ふりかへれば、西の空に月が見える)

 日並の 皇子の命の 馬並めて み狩り立たしし 時は来向ふ (巻一・四九)
 (日並皇子の命が馬を連ねて、遊猟なさらうとされた、あの時刻が今日も来る)

 『万葉集』を代表する歌であり、私が万葉を好きになつたきつかけとなつた四八番歌があります。この歌は今でもその訓み方について様々な説があります。原文は「東野炎立所見而反見為者月西渡」となつてをり、上記の訓は、江戸時代に契沖、賀茂真淵らによつて定められました。私はこれ以上の訓みは今の学者はもちろん、後の世にもできないと思つてゐます。この通りで読むべきであり、沢瀉久孝が『万葉集注釈』(中央公論新社)で真淵の功績を讃へてゐたやうに、先学の研究成果を素直に認めるだけです。むしろ、現代の学者がなした訓みは、「不細工」です。例へば、角川ソフィア文庫のものでは、「野にはかぎろひ」としてゐますが、この程度の訂正であればそのままで良いでせう。

真弓丘陵と束明神古墳

 さて、日並皇子とは草壁皇子のことです。草壁皇子といへば天武天皇の皇子であり、皇太子となられましたが、持統天皇三年(689)四月十三日、皇位に就かれることなく、わづか二十七歳にして薨じられました。その陵は、文武天皇御陵から西、いはゆる「佐田の岡辺」一帯にある岡宮天皇真弓丘陵です。

岡宮天皇真弓丘陵
岡宮天皇真弓丘陵

 草壁皇子の挽歌も人麻呂は詠み奉つてゐます。

 日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首幷短歌
 天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に
 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして
 神あがち あがちし時に 天照らす 日女の命
 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を
 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と
 天雲の 八重かき別きて 神下し いませまつりし
 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御の宮に 
 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます国と
 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ
 我が大皇 皇子の命の 天の下 知らしめしせば
 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと
 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて
 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか
 つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし
 みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ
 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも (巻一・一六七)
 (天地の開けし時、天の河原にたくさんの神々様がお集まりになり、神々をそれぞれのお治めになる国々をお分ちになつた時、天照大神は天を支配されるといはれるので、葦原の中つ国を隅々まで統治される神の命として、雲をかき分けて神々しくお下し申した、天高く輝く日の御子は、明日香の浄御原の宮に神として御統治あそばされ、やがて天岩戸を開かれ、神としてお上りになつた。その後、わが大皇たる皇子の命が、天下をお治めになれば、春の花のやうに貴いことでせう、満月のやうに満ち足りたことでせうと、天の下の人々が大船のやうに期待して、天の慈雨を仰ぐごとくであつたのに、どうしてからか、真弓の岡に宮柱を立派にお建てになり、宮殿を建てられ、朝の奉仕にも御言葉を賜はることなき月日が多くなつたことです。そのために、皇子にお仕へした人々は、どうして良いものか困つてゐるものです)

反歌
 ひさかたの 天見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも (巻一・一六八)
 (天を見るやうに仰いだ皇子の御殿の荒れて行くだらうことが惜しまれるよ)

あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも (巻一・一六九)
 (日は照らしてゐるが、日の御子は夜の月のやうに隠れてしまはれたことが惜しい)

 或本歌一首

 島の宮 まがりの池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かず (巻一・一七〇)
 (島の宮のまがりの池の放ち鳥は、人の目を恋ひて、池に潜らうとせぬ)

 長歌には、『記紀』には書かれてゐない神代のことが書かれてゐます。まことに、雄大にして、哀切なる響きに満ちてをり、草壁皇子にふさはしい挽歌といへるのではないでせうか。当時の天皇を貴ぶ気持ちは、幕末期の「尊皇攘夷」や水戸学のそれとは異なりませう。しかし、当時のものと幕末期のものを同じやうに解釈しては無理が生じませう。犬養孝先生のいはれるやうに「古い時代のことを今の感覚でとらへてはならない」のです。私は、このやうに純粋なる日本の言葉で、かつ哀切きわまりなく、崩られた天皇、皇族方に対して挽歌をかく詠み奉ることも立派な尊皇だと思つてゐます。
 草壁皇子の舎人たちも、皇子を偲び歌を奉りました。

 天地と 共に終へむと 思ひつつ 仕へ奉りし 心たがひぬ (巻二・一七六)
 (天地の終はるまで、お仕へしやうと思ひ続けてゐたのに、その心と違ふことになつてしまつた)

 朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ わが泣く涙 やむ時もなし (巻二・一七七)
 (朝日の照る佐田の岡辺に、群がりつつお仕へする私どもには、涙の乾くときもない)

 彼らの歌も、純粋で、飾らず、人の胸を打ちます。
 後に石舞台古墳のあたりでお話ししますが、あの辺りを島庄といひました。そこはかつて蘇我氏の邸があり、後に草壁皇子の宮(島の宮と呼ばれました)となりました。

 また、現地の人たちによると、草壁皇子の陵はここではなく、もう少し北にある束明神古墳だといふのです。何が真実かわかりません。私は両方とも参拝しましたが、どちらに草壁皇子が安まつてをられるのか、わかるはずもありません。ただ、公式の発表を信じたいと思ひます。

束明神古墳
束明神古墳

 その草壁皇子の御歌は『万葉集』巻第二に残されてゐます。石川女郎に贈られた御歌。

 大名児が 彼方野辺に 刈る草の 束の間も わが忘れめや (巻二・一一〇)
 (大名児が遠くの野辺で刈る草の、ほんのわづかの間も私は忘れることなどありませうか)

 あなたのことを常に思つてゐると歌はれた御歌です。素敵ですね。私も恋人からこのやうに思はれたいものです。
 最後までお読みいただき、ありがたうございました。次号も併せてお読みいただけたら幸甚です。
 (続)

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