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明日香 うたの旅 続々

 いつもお読みいただき、そしてこの記事に目をとどめていただきありがたうございます。一人でも見てゐてくれたら、さう思ひながら筆を執つてゐます。前回に引き続き、どうか、最後までお付き合ひください。

 甘樫の丘の道沿ひには、『万葉集』にちなむ植物が植ゑられてをり、登る人、降る人の目を楽しませてくれます。秋になれば、

 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花 (巻八・一五三八)

これら七種の花を眺めることもできませう。これは山上憶良の歌です(旋頭歌です)。
 頂上で、大和三山を堪能し、山を降りたら、自転車をさらに北へ走らせませう。

豊浦寺

 北へ行く前に少し寄り道し、豊浦寺に寄ります。ここは、かつて推古天皇の豊浦宮の所在地と考へられ、『万葉集』にもこの寺で詠んだ歌が残されてゐます。

 明日香川 行きみる丘の 秋萩は 今日降る雨に 散りか過ぎなむ (巻八・一五五七)
 (明日香川が流れる丘の秋萩は、今日の雨に散つてしまつただらうか)

これは丹比真人国人の歌です。

 鶉鳴く 古りにし里の 秋萩を 思ふ人どち 相見つるかも (巻八・一五五八)
 (古びた故郷の秋萩を、心を同じくする者同士で楽しんだものです)

これは尼の歌です。この尼の歌は素朴で私の好きな歌です。

向原寺(豊浦寺)
豊浦寺跡
丹比真人国人の歌

雷丘

 豊浦寺を後にして、しばらく進めば小さな丘が見えてきます。前の歌に「明日香川の行きみる丘」と詠まれた場所ではないかと考へられてゐます。それが雷丘です。何も考へてゐないと素通りしてしまふかも知れません。それくらゐ、小さい丘です。雄略天皇の御代に、雷がここに落ちたから雷丘といふさうです。

雷丘
雷丘

 ここは柿本人麻呂が、

 大皇は 神にし坐せば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも (巻三・二三五)
 (天皇は神にあらされるので、雨雲の雷の上でくつろがれてをられる)

と詠み奉つた場所です。どなたに対して奉つたかは議論のあるところですが、持統天皇と見て良いでせう。この歌には或本の異伝があり、

 大皇は 神にし坐せば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます
 (大皇は神にあらされるので、雷山に宮をお造りになる)

とあります。忍壁皇子に献られたといひます。忍壁皇子は、天武天皇の皇子で、大宝律令の制定に尽力されました。慶雲二年(705)五月七日(旧暦、新暦では六月二日)に薨去されました。高松塚古墳の被葬者を忍壁皇子とする説がありますが、如何でせう。高市皇子より信憑性があるやうな気がします。

 雷丘は、本当に小さな丘です。登り口に手すりが設置されてゐますが、足元が滑りやすくて一苦労です。そして登ってみると、そこは鬱蒼とした木々に囲まれ、人の手が加はつてゐない荒れた空間が広がります。「鶉鳴く古りにし」といふ表現がよく似合ふやうに感じます。ここで、当時の情景、すなはち持統天皇の行幸の様子を感じるのは難しいかも知れません。私は人麻呂の歌を静かに誦してみました。不思議といにしへびとの姿が脳裏に浮かんでは消え、消えてはまた浮かんできました。
 なほ、中世のいつか正確にはわかりませんが、雷城といふ城郭が建てられてをり、飛鳥時代の遺構はその時に壊されたとか。
 また、『万葉集』巻第十三には、

 三諸は 人の守る山 本辺は 馬酔木花咲き 
 末辺は 椿花咲く うらぐはし 山そ 泣く子守る山 (巻十三・三二二二)
 (三諸は人々が大切にする山。ふもとには馬酔木の花を咲かせて、頂上には椿の花が咲く、美しく素敵な山よ、泣く子を守るやうに人々が大切にする山よ)

といふ長歌があります。私の好きな歌です。中西進氏は、この「人の守る山」を雷丘としてゐました。なかなか興味深いものがあります。後で訪ねる飛鳥坐神社にはこの歌の歌碑があり、あの辺りや甘樫の丘も「人の守る山」と想定されるところです。むしろ、自由に「ここではないだらうか」と各自が想像して楽しんでも良いのではないかと考へたりします。

香具山

 雷丘を後にして、自転車を北に漕いで行くと、天の香具山のふもとに着きます。香具山といへば、持統天皇の御製でせう。

 春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山 (巻一・二八)

人口に膾炙してゐるのは、「百人一首」の、

 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

ではないでせうか。

天の香具山
天の香具山

 さて、香具山といへば、大和三山の一つです。『伊予国風土記』逸文によると、空から山が二つ落ちてきて、片方が伊予国に落ちて天山になり、そしてもう片方が香具山になつたといはれてゐます。他の二山は、畝傍山と耳成山で、畝傍山のふもとが初代神武天皇をお祀りする橿原神宮です。
 「天の」といふ形容詞が付いて神聖視されたのは、香具山のみであり、『万葉集』の中に香具山はたびたび歌はれました。

 ひさかたの 天の香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも (巻十・一八一二)
 (天の香具山に、この夕暮れ時、霞がたなびく春になつたらしいよ)

 これは「柿本人麻呂歌集」の歌であり、人麻呂本人の作と見てよいでせう。人麻呂には、香具山で屍を見て作った次の歌もあります。

 草枕 旅の宿りに 誰がつまか 国忘れたる 家待たまくに (巻三・四二六)
 (旅の宿りに、誰のつまが産まれた国を忘れてゐるのか、家族も待つてゐるだらうに)

 そして、三山といへば中大兄皇子の

 香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき
 神代より かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ
 うつせみも 妻を 争ふらしき 巻一・一三)
 (香具山は畝傍を男らしいとして、耳成山と争つた。神代から、かうであるらしい。昔もさうであつたからこそ、現実にも、愛する者を争ふらしい)

 の御歌で有名です。その香具山を今日、登つてみました。山の中には、天香山神社(御祭神は櫛真智命、太占を司どる神様ださうです)が鎮座してをり、地元の人が一所懸命に草刈りなどをして奉仕されてゐました。社頭で登拝と旅の無事、そして導いてくださつた神恩に感謝し、登りました。百五十メートル少々の小さい山なので、ギョサンでもすぐに頂上に着きました。木々の合間から、明日香、藤原の地が見えます。私はただちに舒明天皇の御製を口ずさみました。

 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山
 登りたち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 
 海原は 鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は (巻一・二)
 (大和国には、多くの山があるけれども、天の香具山に登り立つて国見をすれば、大地には竈門の煙が立ち渡り、海上には鴎が群れて空を翔けてゐる。美しい国であるよ、大和の国は)

 いはゆる国讃めの御歌であり、万葉の夜明けを告げる御歌でありませう。国讃めは儀礼的と言はれますが、それだけでは大御心を理解することはできますまい。きつと、舒明天皇は本当に大和国は素敵な国で、素敵な民ばかりであると御思ひになり、歌はれたのでせう。さうでなければ、その長い歴史上には道鏡や足利高氏、義満など由々しきこともありましたが、国体の精華は実現され得なかつたでせう。私は、君臣和楽といふ和歌のあるべき姿の源流をここに見た心地がしました。

香具山の頂きからの眺め
舒明天皇御製

泣沢の杜

 香具山を降り、ふもとのあたりを漕いでゐると、畝尾都多本神社、またの名を泣沢神社があります。注意してゐないと、素通りしてしまひさうな、ひつそりとした神社です。いふまでもなく、参拝させていただきます。

 泣沢神社

 『万葉集』でもつとも長い歌は、柿本人麻呂の高市皇子挽歌です(長歌はあまりにも長いので省略します)。その反歌と、或本の反歌に、

 埴安の 池の堤の 隠沼の 行方を知らに 舎人はまとふ (巻二・二〇一)
 (埴安の池の堤に囲まれた沼の水のやうに、どこに流れて行くとも知らず、舎人は迷ふことよ)

次に或本の反歌、

 泣沢の 杜に神酒すゑ 祈れども 我が大皇は 高日知らしぬ (巻二・二〇二)
 (泣沢神社に神酒を捧げて祈るのだけど、我が大皇は、高く日の神となられて天をお治めになつてしまはれた)

とあります。
 或本の反歌にある泣沢神社は、泣沢女命(伊弉諾尊が伊弉冉尊が亡くなられたのを悲しみ、その涙から生まれられた神様)をお祀りする小さな神社です。意識してゐないと気が付かないやうな小さな杜、そこです。ただし、この歌には注が付いてゐます。山上憶良の「類聚歌林」によると、「檜前女王の泣沢神社を怨むる歌」といふのです。なほ、檜前女王は謎の人物です。
 高市皇子も天武天皇の皇子で、持統天皇元年には太政大臣になりました。後に訪れるでせうキトラ古墳、またが前述した高松塚古墳の被葬者と考へられてゐることは少しだけ触れました。
 高市皇子が十市皇女の薨去の際に作られた挽歌が『万葉集』に残れされてゐます。三首あるうちの最後の御歌。

 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく (巻二・一五八)
 (山吹の咲く山清水を汲みたいと思ふが、どう行けばよいか道がわからない)

 「山吹」に黄泉の国の黄を、「山清水」に泉を匂はすといふ説もあれば、「山清水」を伝説上の生命復活の泉と見る説もあります。どちらか本当かはわかりません。謎多き御歌ですが、その調べの哀しみの深さや、不思議なもの悲しさは集中屈指の名歌の一つでせう。

犬養孝先生歌碑(犬養万葉記念館)

 香具山から北西に進めば、藤原宮跡が広がります。この香具山と藤原宮の間のあたりに、上の人麻呂の高市皇子挽歌にあつた埴安の池があつたと考へられてゐます。舒明天皇の国讃めの御歌にある「海原」を埴安の池と見ると、御製がよりわかりやすくなりませう。

藤原宮跡
藤原宮跡
藤原宮跡

 広大な藤原宮跡を見てから反転して南に戻ります。再び、甘樫の丘の前に来たら、東に進みませう。すると、何やら遺跡のやうなものが見えてきます。これが水落遺跡で、天智天皇の漏刻跡だと考へられてゐます。

水落遺跡
水落遺跡

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。次回は明日香の神社やお寺を訪ねてみませう。どうか、お楽しみに。(続)

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