早瀬輪

日々の中で感じたことを、哲学的な 視点から考えて投稿できたらと思っています。

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最近の記事

薪をもらうことと現代社会

田舎暮らしで薪ストーブをするような人は、消費的、資本主義的な暮らしに対してネガティブな感情を持っている場合が多い。 たとえば自給自足的な暮らしや自然な暮らし等を目指して日々を試行錯誤しているような人は、自分の目指す暮らし方の外側に消費経済的・資本主義的な暮らしがあるのだと思いがちかもしれない。  「ただで薪がもらえるなんて、なんて素敵な暮らしじゃないか」と、悦に入ったりして。 でももし、自分にとって理想的でない暮らしをしてる人達みんなが、自分と同じ「素敵な」暮らしを目指し始め

    • 嫌いと言うこと

      何かを「嫌い」と言うことは、自分を表現しているようでいて、実はそうではない。 それ(嫌いなもの)が自分には属さないと言っているに過ぎないからだ。 ある意味でそれは消極的な形での自己表現とも言えるだろう。自分に属さないものをあげつらっていくことで、自身の輪郭線を際立たせていく。 けれど、はっきりとしてくるその輪郭の内側に何があるのかということは隠されている。それを表現することこそ、本当の意味での表現だろう。 好き、と口にすることは、怖い。 それは輪郭の内側をひらいて見せることだ

      • 親と宗教

        宗教(信仰)を馬鹿にすることは、自分の親を馬鹿にすることと同じように、幼く、そして不幸なことだ。 宗教に対して親離れしたと思っている現代の日本人たち。そして私もまた。 本当の親離れとは、彼らを馬鹿にすることではなく、決して切れることのないその繋がりを受け容れ、見守られていることに対して素直になることだろう。

        • 草刈りをして

          草刈りをして 丘の上の木陰で一休みする 下の庭を 麦わら帽子をかぶった長男が 蝶を見つけたと大声で話しながら 次男をおぶった妻と猫と一緒に歩いていく 近所の家へ出かけていく 猫が道に寝転び 長男がふいに躓くのを妻が眺めている 俺はもう少し作業しよう この油がなくなるまで刈ったら 今日はもう ビールを飲んでしまおう

        薪をもらうことと現代社会

          自由とは、正しさに縛り付けられていることかもしれない。 世界との関わりの内にあって、自らにとって「これでいい」としか思えない何かから逃れられない時、それは自由かもしれない。

          自由とは、正しさに縛り付けられていることかもしれない。 世界との関わりの内にあって、自らにとって「これでいい」としか思えない何かから逃れられない時、それは自由かもしれない。

          プラスチックと合成洗剤

          田舎の道端に落ちているペットボトル。泥で汚れたビニールの袋。 そばに落ちている朽ちかけた小枝は気にならないのに、それら朽ちていくことのないものは、野の道に融け込むことなく、異物として、形を崩しながらも居座り続ける。 洗濯や洗い物の時に排水口へ流れていく洗剤もまた、液体になったプラスチックのようだ。 これらの泡はしぶとく消えることなく川の水面をただよいつづけ、見えないほど薄くなりながらも、分解されることなく残り続けていく。 死んだあとに、世界の内に溶けて消えてしまわない、消

          プラスチックと合成洗剤

          賽銭箱に小銭を投げるように投票する

          衆院選の投票日が近づいている。自分にも子供が生まれて、それなりにおじさんになった。よくあるように、だんだんと社会の問題の方へ興味が湧いてきている。ここ最近なんだか投票について考えずにはいられない。 「なんで投票率って上がらないんだろう。」「なんで投票ってかったるいんだろう。そのくせ行かないとなんで世間からなんとなく責められてるような気がするんだろう。」「若い人が投票に行くと、なんでちょっと意識高いまぶしい人みたいに思われたりするんだろう。」 色々考えたけれど、でもけっきょ

          賽銭箱に小銭を投げるように投票する

          資本主義経済と生きる能力

          前回のノートでは暮らすということについて考えてみた。今回はそこからさらに気付いたことについて書きたいと思う。 それは、資本主義経済の世界に暮らす人々は自分自身で生き抜くための力を弱めていくのであるが、そのことは資本主義経済においてむしろ本質的なことなのではないかということである。 資本主義経済とは同時に消費社会でもあり、(前回のノートで述べたように)消費社会における根本的な性格の一つは、自ら暮らすことを「他者」(人や機械や道具など)に肩代わりしてもらうことである。それは生活に

          資本主義経済と生きる能力

          暮らすことと消費社会

          消費社会の本質の一つは、本来は暮らしの中でみずからこなしていけることを、お金によって「他者」に肩代わりしてもらうことではないかと思う。もしもお金がなかったなら自分(や親しい人と)でやるしかないようなこと、たとえば服を揃えること、食べ物を生み出すこと、家を建てること。衣食住。現代的な消費社会は、これら暮らしにおける基本的な構成要素を、お金を使うことによって限りなく他者に肩代わりしてもらうように進んできたのではないだろうか。 暮らすこととは、みずから暮らすことである。みずからの

          暮らすことと消費社会

          Haruka Nakamura - Still Life(2020)

          https://youtu.be/1gCR4aFgst4 素晴らしい音楽。 素朴で拙いような音色から、美しくて祈りのようなメロディーが紡がれていく。 カタコトと、ピアノを操作する音も、人がこの音楽を生み出しているということを感じさせる。有限な存在が、無限をおもい、うたうことの尊さ。

          Haruka Nakamura - Still Life(2020)

          こどもと植物

          こどもという存在について考えるとき、彼らと植物とはなんだか似たところがあるな、とよく思う。植物をたとえとしてこどもを考えることは、彼らについての理解を深める助けになるような気がしている。 産まれてくるこどもは、まるでタネのようだ。それがどのようなタネかは、実ははっきりとはわからない。出自は多くの場合はっきりしている。けれどそれはただのタネではなく、突然変異体だ。保育者はそのタネのことを知っているとも言えるし、知らないとも言える。自分と似た特徴を備えたそのタネを、どのような土

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          「不要不急」って何?

          「不要不急の外出を自粛するよう〜が要請した」 みたいな文をここ数日しょっちゅう見聞きする。 「不要不急」って、でもそもそも何のことを言っているの?とつっかかりたくなるのは、自分がひねくれてるからだろうか。 気になりだしたらしょっちゅう見聞きするその言葉が鼻について(目や耳だけど)仕方ない。 誰にとって必要がなくて(不要)、誰にとって急ぎではない(不急)のだろう。いったい誰がそういうことを判断するんだろう。 もちろん「要請者」はその判断を、「被要請者」である個々人それぞれ

          「不要不急」って何?

          意図をすりぬけた美しさ

          ギター作りをなりわいとしている。 今年は暖冬だけれど、ここ数日は雨で気温が下がり湿度も高いので、ストーブを焚きながら除湿機もつけて作業をしている。 ノミとカンナでせっせと木を削ると、気づけば作業台のまわりや足元には、たくさんの削りくずが散乱していた。 ふと、その削りくずのひとつに目が行って拾い上げてみた。 螺旋状に渦を巻いたその削りくずは、ただのゴミのはずなのに、まるで貝殻のようで、とてもきれいに見えた。 それでまわりに散らばっているたくさんの中から、いくつか違う形のもの

          意図をすりぬけた美しさ

          生活する、暮らすということ

          数年前のこと。 友達が、何年か住んだ古民家を引っ越す時に、別れのしるしに自作の木皿をくれた。 小さいくてかわいい平皿。 それはその人が住んでいた古民家に、ずーっと置かれていた木を使って作られたものだった。 彼は農業をしながら自給自足的な暮らしを目指している人で、その皿は空いた時間を使って何枚か作られたうちの一枚だった。 十分に乾燥した硬い木(おそらくは桜の木)を、その人はノコギリと彫刻刀だけを使って刻み、その皿を作った。 よく見ると皿の表面には、いやその裏面にも、細かな丸

          生活する、暮らすということ

          多様性 人を尊重するということ

          「多様性の対極はむしろ、相手を知ろうとしない態度」ブレイディ みかこ 元日の朝日新聞、「多様性ってなんだ」という対談コーナーに載っていた言葉。 ブレイディさんは、「多様性の対極が分断だとよく言われるが、私は多様性と分断は隣り合わせだと思っています」と言う。 分断という考え方に含まれていて、「相手を知ろうとしない態度」には含まれないもの、それは齟齬や対立だと言えないだろうか。一見するとどちらの言葉にも、齟齬あるいは対立といった、相手との不一致という意味が含まれているように

          多様性 人を尊重するということ

          鍋、膝の上の娘

          家族で鍋を食べながら子育てについて思った。 今、眠気で打たれ弱くなっている娘が膝の上に座って、僕の鍋への動線を遮りながら、美味しいね〜とニコニコしながら食べている。ちょっとでもヘタを踏めば一瞬でダダをコネ出すセンシティブな状況。娘の頭越しにチラつく鍋の中身。箸もなかなか届かない。。 鍋を自由につまみたいのに、膝の上にはウネウネ動く娘。 これは、幸せな状況なのだろうか、客観的には。 僕はイライラしてしまうけども。 子育てとは、つまりはこういうことなんだろうか。 僕のやりたい

          鍋、膝の上の娘