見出し画像

資本主義経済と生きる能力

前回のノートでは暮らすということについて考えてみた。今回はそこからさらに気付いたことについて書きたいと思う。
それは、資本主義経済の世界に暮らす人々は自分自身で生き抜くための力を弱めていくのであるが、そのことは資本主義経済においてむしろ本質的なことなのではないかということである。
資本主義経済とは同時に消費社会でもあり、(前回のノートで述べたように)消費社会における根本的な性格の一つは、自ら暮らすことを「他者」(人や機械や道具など)に肩代わりしてもらうことである。それは生活における不便や苦労からの開放であり、だからこそ人々はそのような「成長」を推し進めてきたと言えるだろう。けれど一方において、暮らすことを際限なく他の誰かに肩代わりしてもらうことは、自ら暮らしていくための能力を失うということを引き起こす。 
しかしそこであることに思い至る。人々における生活力の弱体化というものこそ、もしかしたら資本主義的な経済を進めていくうえでむしろ歓迎されることなのではないか。
必要なものを自分で作り出すことが、暮らすということの基礎をなす姿勢だと思う。けれど、もし資本主義経済において、多くの人が商品やサービスを極力使用することなく自分達で自身の暮しを成り立たせていこうとしたらどうなるだろう。人々のそのような姿勢は、資本主義経済を成り立たせる上で根本的な要請である成長と拡大というものの脅威になりはしまいか。資本主義経済を成り立たせるためには、人々は自ら暮らす力が弱ければ弱いほど望ましいのではないだろうか。

自ら暮らす力のない人々が、互いに自らの暮らしを顔の見えない多くの「他者」に肩代わりしてもらいながら生きていく。そしてそれによって空いた時間は、消費のためのお金を稼ぐことに無駄なく使われる。純粋な消費社会における暮らしとは、実は消費そのものである。そこではお金を支払うことが暮らすことである。けれどそのような「暮らし」とは、本来的な暮らし、自ら暮らすということの破壊となってしまう。

資本主義経済はなんとよく出来ているのだろう。人々は暮らすことをお金で買うために、お金を稼ぐことを生活の中心に据えた。そしてほかの全て(つまりそれは暮らすことであるが)を後回しにしてお金を稼ぐことに邁進することで、暮らすための基本的な力をなくしていってしまう。もはや人は消費することなしには暮らすことができなくなる。それは暮らすことの喪失ではあるが、その人はもうそこから抜け出ることができない。資本主義社会はどこまでも速く効率的に進んでいくしかないから。一旦その足で乗り込んだ資本主義という列車から降りるための脚力を人はいつの間にか失ってしまっている。そして、それこそ資本主義と消費社会にとって望むところなのだろう。

私達は現代の暮らしの中で、着々と暮らすための力を失っている。そしてそのことは望まれていることなのだ。それは資本主義経済がスムーズに進んでいくことを望む全ての人々によって望まれている。ただしそれを望む人々はそのことをあくまでも他人に対して望むのであって、自分自身に対してではない。そしてその他人とは顔の見えない他者であり、つまりは誰と指定されることのない人々のことである。お互いがお互いに、見えない誰かが暮らしを失っていくことを望んでいる。自分自身ではなく、知らない誰かがそうなることをお互いに望んでいる。望んでいるということにすら思い至ることなく、自分自身のことについても置き去りにしながら。
そうしてこの社会がスムーズに進んでいく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?