多様性 人を尊重するということ

「多様性の対極はむしろ、相手を知ろうとしない態度」ブレイディ みかこ

元日の朝日新聞、「多様性ってなんだ」という対談コーナーに載っていた言葉。

ブレイディさんは、「多様性の対極が分断だとよく言われるが、私は多様性と分断は隣り合わせだと思っています」と言う。

分断という考え方に含まれていて、「相手を知ろうとしない態度」には含まれないもの、それは齟齬や対立だと言えないだろうか。一見するとどちらの言葉にも、齟齬あるいは対立といった、相手との不一致という意味が含まれているように思われる。しかし、「相手を知ろうとしない態度」(非接触)というものには、相手との不一致ということは絶対的なものとしては含まれていない。知らないだけで本当は同じ意見の他人だということも十分ありえるのだから。
対して、分断(対立、齟齬)という現象は、他との接触(contact)を必要な条件とする。つまり「相手を知ること」は、分断の生じる条件の一つなのだ。
そして、当事者双方の接触によって生じる意見の分断(齟齬)は、その接触という現象それ自体の力によって、同時に和解や(少なくとも)妥協の可能性をも生み出す。
齟齬を生みがちなコンタクト(他との接触)という行為は、それ自体のうちにその齟齬の解決の可能性をも孕んでいる。
逆を言えば、他者に触れることなしに他者との和解の可能性は生じないということ。
つまり、多様性という考え方のうちには、相手との齟齬や対立の可能性も含まれていて、分断という概念を対立軸としていてはそれが見えてこないということだ。
こうして、多様性における本当の対極(多様性の破綻)は、相手との分断(齟齬、対立)ではなく、相手との関わり合いをはじめから拒否することなのだ、とそう気付かされる。

私は、誰かと話していて意見が合わない時に、「いいんじゃない、あなたはあなた、私は私という他人なんだから別々の意見でも」という趣旨のことを言われることがある。この言葉は、なせだかいつも私を消化不良のような嫌な気分にさせる。
自分の意見に同調してもらえなかったという落胆(あるいは敗北感)も大きいと思う。でもきっとそれよりも本質的なのは、一見耳触りのよいこの言葉によって、通い合っていた(友好的か非友好的かは別にして)交流が突然見えない壁によって断ち切られたような(しかもそれが、その表面的な「個性尊重」からくる耳触りのよさによって正当性の雰囲気を纏っていること)、そういった感覚をひきおこすからなのだと思う。
相手を尊重することと、「相手を知ろうとしない態度」とは、似て非なるものだ。相手を尊重することのうちには、相手に対して向き合うこと、コンタクトを図ろうとすること(ブレイディさんはそれを「empathy」と呼ぶ)が含まれる。もしその接触によって、結果的に齟齬や対立が生まれようと、そこには相手に対する知が生まれ、それによる理解の可能性も生じているのだということ。

多様性というものが、バラバラの意見を持った個人がお互いにバラバラに存在しているということなら、それはそんなに難しいことではないだろう。ただ穏当に、「あいつはあいつ、俺は俺」と訳知り顔で言っていれば済む。
多様性というのは、きっともっと面倒くさいものなのだ。たまにケンカしながらも、お互いの落としどころを探りながら日々コンタクトを図っていくことでしか実現しないようなこと。いやむしろ、その妥協点の探り合いの過程それ自体が、多様性という「現象」なのだと、そう考えるべきなのかもしれない。

肯定的な外見を装った遮断より、否定的な態度で行うコンタクトの方が、人を尊重するという点ではずっとましなんだと、あまり人と付き合おうとしない自分を恥じながらそう思った。

#多様性 #人を尊重する

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