生活する、暮らすということ

数年前のこと。
友達が、何年か住んだ古民家を引っ越す時に、別れのしるしに自作の木皿をくれた。
小さいくてかわいい平皿。

それはその人が住んでいた古民家に、ずーっと置かれていた木を使って作られたものだった。
彼は農業をしながら自給自足的な暮らしを目指している人で、その皿は空いた時間を使って何枚か作られたうちの一枚だった。

十分に乾燥した硬い木(おそらくは桜の木)を、その人はノコギリと彫刻刀だけを使って刻み、その皿を作った。
よく見ると皿の表面には、いやその裏面にも、細かな丸刀の刃の跡が一面に並んでいる。
そして裏にはかすかに高台のくぼみもつけられている。
けっして、職人技のようなきれいな仕上がりではない。けれど雑な仕上がりでは全くない。
良く言えばあたたかみのある、悪く言えば素人の慰み仕事と言えるような、そんな小皿。

けれど僕はその皿に、自分には辿りつけない何かを感じて、美しいと思った。
皿のおもてに無数に残る刃の跡は、硬い木をただ黙々と刻んでできたものだ。それは現代の木工作家がよくやるように、機械で荒取りしたあとに、お化粧としてわざとつけるノミの跡とは違う。
その人は電動工具を使わずにこの皿を作った。この木の表面に残る刃のあとは、ただ〈結果的〉にできたものなのだ。
その証拠に、彼はわざわざペーパーをかけて刃の跡をなめらかにしようとしたという。
僕からしたら、むしろそのせいでせっかくの美しい仕事がぼかされてしまったように見えるのに。

僕も木を使って物を作るから、彼の皿を見るとわかることがある。
彼は急いでいない。効率を第一に考えていない。正確さも、目的にはなっていない。
おそらくは、彼は皿を作ろうと始めたが、途中から木を刻むそのこと自体を楽しんでいたのだろう。
皿を作り出すために木を刻んだというよりは、木を刻んでいて気づいたらこんな皿になっていた、というほうがより近いのだろう。

彼はなぜそのような仕事ができたのだろう。なぜ僕にはそれが難しいのだろう。
僕は楽器作りで生計を立てようとしているから、効率を求めることは仕方がない部分は当然ある。効率的に、素早く正確に、というのは楽器作りを学んでいた時に叩き込まれた作法だ。
けれど、気づけば僕は、仕事でないどんなものに対しても、その作法にしたがって作るようになってしまっていた。たとえば誰かへのプレゼントのスプーン、娘への誕生日プレゼントの椅子、前から作りたいと思っていた民族楽器ーーそんな対価を求めない、あるいは作りたいから作るはずのものを作るときでさえ、僕はなるべく早く効率的にそれを仕上げようとしていた。
まるでものを作ることが、早くそこから立ち去るべき場所のようで、作業を始めても、何かにせき立てられながら、せっかく始めたそのことを、もう終わらせようと努力し始めている。
好きでやっている作業でさえも、いつの間にか効率と速さを求め、到着地点(完成)へとまっしぐらに進むことばかりで、その作業を楽しむことを置き去りにしてしまうことがままある。
こういう姿勢は仕事以外でもおそらく僕の生活全般に、通奏低音のように流れているものだろう。

そして、彼の小皿にはそのようなものが感じられなかった。
彼は〈生活〉をしていた。皿を作ることが、ただ皿を作ることであり、木を刻むことが、ただ木を刻むことであり得た。おそらくは、同じように野菜を作り、家族と過ごし、そうして暮らしてきたのだろう。
生活とは、暮らしとは、それ自体に目的があるようなものではないだろうか。それは、ある行いが単に他の目的のための手段であるようなこととは違う。
その意味で、彼は〈生活〉していたのだと僕は思う。

彼は日々生活をしながら、早くそれを終わらせようとは考えなかった。何かをすること(例えば皿を作ること)は、その作業の中にじっくりと腰をすえて、黙々と進められたのだろう。その作業は、次の何かをするために早く終わらせるべきものではなく、彼の手の動くスピードと同じスピードで味わわれながらなされたのだろう。

そんな彼とくらべると、僕には何が足りないのだろうと思う。何を焦ってこんなに先に進もうとしているのだろう。目の前の作業は、次の作業へ到達するための飛び石でしかなくて、その飛び石は悪無限のようにイメージを置いてきぼりにしてぼんやりと彼方へ続いている。
急ぐ僕には作業を味わう時間がない。エンデの『モモ』に出てくる時間どろぼうが現実にいるみたいに、節約された時間はそれを使う暇もないまま、どこかに消えていく。

彼のように、今を今として味わうこと、それはどのようにしたら可能なのだろう。
彼の小皿にはっきりと刻印された生活のあとを見て、その時の僕はなんだか羨ましく、そして少し哀しい気持ちになった。この哀しみは、おそらく僕が既に諦めてしまっていることを示しているんだろう。でもこの羨ましさもまた、僕がまだ諦めきれてないことを示しているんだろう。
彼の皿を見て美しいと思えた自分には(自惚れかもしれないけれど)、彼と同じように「今を今として味わう」ことを求める気持ちがあるのだろうと、そう感じる。

日々、少しずつ、暮らしを暮らしていけるよう試行錯誤していきたいと思う今日この頃。




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