「不要不急」って何?

「不要不急の外出を自粛するよう〜が要請した」
みたいな文をここ数日しょっちゅう見聞きする。

「不要不急」って、でもそもそも何のことを言っているの?とつっかかりたくなるのは、自分がひねくれてるからだろうか。


気になりだしたらしょっちゅう見聞きするその言葉が鼻について(目や耳だけど)仕方ない。

誰にとって必要がなくて(不要)、誰にとって急ぎではない(不急)のだろう。いったい誰がそういうことを判断するんだろう。
もちろん「要請者」はその判断を、「被要請者」である個々人それぞれに求めている。
じゃあ、要請されたその一人の人は、いったい何を基準に【自分の】行動が「不要不急」なんだと決めればよいのか。
【私の】行動が【私にとって】今すぐ必要なものかどうかを判断する「私」は、何を根拠にその判断を下せばよいのか。
公園で花見をしたい人が、明日には散ってしまうかもしれない桜の花をど〜〜しても今日見たい理由があるとしたら、その理由が「不要不急」であるかないか、誰がどうやって判断すればよいんだろう。

けれど、こんなふうにくどくどと考える自分だって本当はわかっている。誰に言われずとも、肌に染み付いた何かが、「不要不急の外出は控えて下さい」という誰かからの言葉を、にごった空気をしかたなく呼吸するように、自然と理解させるのだ。

私の「常識」は陳腐な言葉で私にこう告げている。「空気」を読めと。「世間」に従えと。「常識」を感じ取れと。

判断を下すのは主体である私だ。なのに判断の根拠は私ではなく、「世間」や「空気」、「常識」と呼ばれる人格(主体性)を持たない「他者」だ。なんともボンヤリと不明瞭で見えにくい。
なのに、こんなに不明瞭な言葉で、私たちの生活はあからさまに押さえつけられていく。

他者の顔色を伺うことを、自ら志願する(volunteer)ように迫ること。それはつまり、自己の主体性を自己自身で抑圧するように他者が強いることである。というより、他者が強いることなく、相手が自ら主体性を放棄するようにしむけることである。
「要請」、「自粛」ーーこういった言葉は、【自分の意図】を相手自身によって【相手自身の】意図として受け取らせようとする性格のものになりうる。今回のような「不要不急の外出に対する自粛の要請」みたいな文句の場合は、これが当てはまるだろう。

個人(私)がいて、要請者(個人でなくてもよい。むしろ顔の見えない「世間」のようなものと考えたほうがいいかも)がいる。
要請者は個人に対して、その主体性を放棄することをーーより正確にはその主体性を「他者」(世間、常識、空気etc.)と「同化」することをーーその【個人自身】の主体性において行うことを「要請」(強制ではなく)する。この時の「要請」は個人自身の主体性に訴えかける体裁をとって、どこまでも消極的な形での強制となる。裏を返せば、それはどこまでも積極的(強制的)な形をとった「お願い」でもある。
このことをつづめて言えば、「自粛を要請する」ということになるだろう。

ここには問題がいくつかあると思う。
1つは、個人の判断基準が曖昧になるということ。要請する側が、自らの「意図」を相手に対して伏せたうえで相手自信に「汲み取らせる」(忖度させる)という形を取るせいで、判断する側の個人に対して、何が正しく何が間違いなのかがはっきりとは示されない。このことは、個人が判断を下した後に、その判断に対する評価の基準が明らかでないことを意味する。つまり、個人がどんな判断を下しても、あとからそれが正しかったかどうかいくらでも理由をつけて都合の良いように言えるということになる。
例えば「公園での花見の自粛」という「要請」を受けた人が、「公園はダメだけど、レストランの桜の木の下で記念撮影するのはオッケーだよね」と考えることが正しいのか否かは、あとからどうとでも言えることになる。
しかもさらに問題なのは、判断についてあとからどうとでも言えてしまうのが、判断を下した本人だけでなく「他者」である他の誰か(あるいは「世間」)でもあるということだ。
私がしたある行為が正しかったかどうか、私だけでなく私以外の誰かによっても好きなように解釈できてしまうということ。そして、往々にして一人の個人の判断などは、より強い立場の「誰か」によって潰されてしまうということ。

2つ目は、判断の責任が「要請者」ではなく個人に向けられうるということ。
「自粛の要請」というのは、どこまでも消極的な体裁をとった強制であって、それはあくまでも判断主体である個人に【主体的に】「世間」の「空気」と同化することを求めるものである。最終的な判断の権利は(体裁としては)個人に帰せられることになる。それは同時に、その判断に対する責任もその個人に帰せられることを含む。
「要請者」はあくまでも個人の判断に「任せる」ことによって、自らの要請内容に対する責任を、要請された個人に被らせることが可能になる。
「不要不急の外出というのはあくまで要請、つまりお願いであって、ワタクシが国民にそれを強制したというようなご指摘は当たりません」みたいな言葉が聞こえてきそうだ。
国や県のような公の機関が個人の生活に対して制限を課すというのに、その責任の所在が制限される側の個人に帰される可能性があるというのは、あまりにもこわい。
しかも今回のウイルス騒動は「お上」が申すに、「戦い」なのだそうだ。「緊急事態宣言」なるものも出す可能性があるそうだ。国が「戦い」(戦争)だというその問題について、対策についての責任の所在すらはっきりせず、対策についての判断も「顔」(主体性、人格)を持たない「世間」や「常識」に任せるというのは、いつかの時代を彷彿とさせてなんとも不気味な気がしてくる。

けれどもちろん、「要請」という手段をとることそれ自体を批判することは可能だ。例えばもっとはっきりとした具体的な指示を出すことによって、責任の所在と判断の基準を明確にすることもできる。
私も別に(言い訳させてもらえば)、好き勝手に外出をすることが正しいということが言いたいわけではない。
「不要不急」、「自粛」、「要請」という、何重にも相手任せの言葉で個人を縛ろうとする、そのやり方が気持ち悪いのだ。
しかも、そんな甘えの染み込んだ言葉を苦もなく理解して普通に自ら従おうとする、そんな自分自身に対しても、ちょっと立ち止まって考えてみた方がよくない?と言いたくなるのだ。





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