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暮らすことと消費社会

消費社会の本質の一つは、本来は暮らしの中でみずからこなしていけることを、お金によって「他者」に肩代わりしてもらうことではないかと思う。もしもお金がなかったなら自分(や親しい人と)でやるしかないようなこと、たとえば服を揃えること、食べ物を生み出すこと、家を建てること。衣食住。現代的な消費社会は、これら暮らしにおける基本的な構成要素を、お金を使うことによって限りなく他者に肩代わりしてもらうように進んできたのではないだろうか。

暮らすこととは、みずから暮らすことである。みずからの暮らしを、他人に代わって暮らしてもらうことはできない。もしも本来の暮らしを成り立たせる多くのことを、自分ではない何か(機械や道具や他者)に肩代わりさせてしまえば、それは暮らすということを放棄することになってしまう。みずからによってみずからの暮らしをこなしていく程度が少なければ少ないほど、その人は暮らすということをせずに日々を送っているのだと言える。しかし、それはいったいどのような事態だろうか。人が暮らすことなく日々を送るとはいったいどういうことだろうか。
もしも、日々を暮らしていくことが生きるということだと言えるとしたら、暮らすことをしない人はまさに生きていないということになる。その人の日々は死んだものとなる。
便利さや快適さを求め、暮らしの中でみずからこなしていくしかなかった様々の事柄を他のモノに肩代わりしてもらうことが、発展と成長であるとして現代まで推し進められてきた。けれどそのことの代償として、人はみずからの暮らしを暮らす力を失ってきたのではないだろうか。
みずから営むことのできなくなった暮らしを暮らすためのお金を必死に稼ぎ続けることで、皮肉にも、その暮らしそのものが薄らいでいく。

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この前、近所の百姓の人の稲刈りの手伝いをした。その人はこのあたりでは珍しい専業農家(ウチの近所は小規模の農家のほとんどは兼業農家)で、米と椎茸を作り、牛を育てながら暮らしている。
調子の悪い稲刈り機を覗き込んで調整するその人を見ながらふと、「ああ、この人は、今この時を暮らしているんだなあ」と思った。彼は、別のいつかの時のために今を犠牲にしているわけでもなく、嫌々それをしているわけでもなく、ただ淡々と今こなすべきことをこなしていた。晴れた秋の田んぼは気持ちよくて、今していることがそのままこの人達の暮らしを成り立たせているんだなという気がした。

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現代の少なくとも多くの日本人は、自分(あるいは自分達)で為し得ることが実はとても沢山あることを忘れてしまっているのだろう。とても無理だと信じ込んでいるのかもしれない。けれど、もしお金を稼ぐことのみを追求することから少し距離を置けるとしたら、あるいは時間を節約するために他の全てを犠牲にすることがなくても済むとしたら、きっとそこには、みずからの暮らしを暮らすための時が生まれてくる。自分にもそのような時が訪れたら、少しでもそれを活用できたらなと思う。それはおそらく生きるということと同じだろうから。

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