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意図をすりぬけた美しさ

ギター作りをなりわいとしている。

今年は暖冬だけれど、ここ数日は雨で気温が下がり湿度も高いので、ストーブを焚きながら除湿機もつけて作業をしている。
ノミとカンナでせっせと木を削ると、気づけば作業台のまわりや足元には、たくさんの削りくずが散乱していた。

ふと、その削りくずのひとつに目が行って拾い上げてみた。
螺旋状に渦を巻いたその削りくずは、ただのゴミのはずなのに、まるで貝殻のようで、とてもきれいに見えた。
それでまわりに散らばっているたくさんの中から、いくつか違う形のものを取りあげてみた。
前に一度、同じように「木の削りくずって面白い形だな」と思ったことはあった気がするけれど、あらためて見てみると、やっぱりとてもよいかたちをしている。

よく見れば、渦を巻いたその線に細かなヘリンボーンみたいな模様が入っていたりする。

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こんなただの削りクズなのに、センスのある人がこれを拾って、たとえば立派な一枚板の木のテーブルとか、床の間の違い棚とかにそっと置いたら、きっと美しく映えるんじゃないかと思わせる。

この美しさはどこからくるのだろう。
これは僕の行為から生み出されたものだけれど、僕が作ったものではない。
僕が木をある形になるように意図して削る、その作業の結果、知らないうちにうまれていたかたちだ。
僕の意図をすりぬけてうまれたかたち、きっとだからこそ美しいんだろう。
意図なしにはうまれなかった。けれど意図に従ってうまれたわけでもない。
そこで思うのは、自然がうみだすものは、実はすべてそういうものなんだろうということ。木は美しいかたちになろうとして、葉や枝をあんな風に伸ばすわけではない。ただ一心に生きようとするそのなかで、あの美しい姿がうまれてきたのだ。

人間にもそんな離れ業が可能だろうか、とても無理なのではないか。そう悲観していたのだけれど、気づけば目の前にその実例が転がっていたわけだ。それはただの木の削りクズで、しかも作ろうと思ってできたものでさえなかったのだけれど。


柳宗悦は、『美の法門』において、美しさは自由から生まれるということを述べている。ここでの自由は「自在」とか「無礙」などの仏教用語で言い換えられ、「美醜の二つの執着から開放されること〜〜根本は自我に囚はれないことを意味する」(P.80)と言う。
「それ故美しくなければいけないとか、醜くてはこまるとか、さりとて醜くともかまはぬとか」(P.83)、そのようなことを思う状態は不自由であり、自我に囚われていて、したがって美しさは生じてこないということになる。
こだわらないこと。美しさにも醜さにも、うまく作ろうとすることにも下手に作ろうとすることにも、とにかくあらゆる誘惑に囚われないこと。そこに彼の言う美しさ(それは美しさと醜さという区別を超えた絶対的なものなのだけれど)が生じてくるということだろう。
なんだか途方もない話に聞こえて「はあ、そうですか。でもそれは理想としての話でしょ。」と流してしまいそうになる。けれど驚くことに、彼はその本の中で、彼の言う絶対的な美しさを纏ったものたちの実例をいくつかのせている。


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【朝鮮半島の陶磁 - 所蔵品|日本民藝館】


たとえばその一つが、上の写真の「刷毛目茶碗」で15〜16世紀頃の朝鮮半島で作られたものだ。
柳は、このような茶碗は当時における名もなきいわゆる「下賤」の陶工達が作ったもので、しかしだからこそそこに美しさが宿っているのだと言う。彼らには美への執着がなかったのだと。
けれどここには本当に、柳の言う無我の美しさがあるのだろうか。恥ずかしながら、正直に言うと僕には(写真を見た限りの話だが)そのすごさがあまりよくわからない。確かにかわいらしいし、古色も出ていて、手元に置いておきたい器ではある。いや、むしろじっと見ていたらなんだか欲しくてたまらなくなってくるような魔力をほのかに感じもする。でもこれが本当に、柳の言うところの絶対的美しさを纏ったものなのだろうか。
けれどふと気づく。もしかしたら、絶対的な美しさを持ったものとは、別に「すごい」ものである必要はないのかもしれない。いやすごいとかすごくないとか、威厳があるとかないとか、そんなことを超えるということこそ、そもそも柳が言いたかったことなのだろう。
滝のように壮大なものも、一粒のどんぐりのような可愛らしさいものも、美しさという点で上下はないということなのだろう。
柳は民芸運動の創始者として、当時の日本人が顧りみることのなかった日常の品々の中にも美しいものがあることを見出した。
彼が蒐集した数え切れないほどの品々は、彼が述べる美しさ(絶対的な美)を目に見える形で実証するものだ。
もし柳の審美眼が確かなものであったなら(僕は柳ほどの審美眼の持ち主はそういないと思っているが)、少なくとも柳の時代における世間は、美しいもので溢れていたことになる。柳自身は、自身の時代においてすでに美しいものは少なくなったと嘆いているけれど、それは現代においてはますます強く言えることだろう。

現代における美しいものは、どうしたらありえるのだろう。それはつまり、どのようにして意図を〈超えた〉ところでのものづくりが可能かと問うことだろう。
意図を捨てるのでなく、かといって意図に縛られるのでもなく。


削りクズは、僕の意図をすり抜けてうまれた。一生懸命思い通りに作ろうと空回りする僕の後ろで、スマートに「自然」が生まれていた。
そこに何かおぼろげなヒントがあるような気がした。
答えなど出ないけれど、自我という執着と付き合いながら、美しさが生まれでてくるようなどこかを目指して、引き続き精進に励む。
しかないのかな、やっぱり。


柳宗悦『美の法門』春秋社、昭和48年

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