見出し画像

小説『ピース・オブ・日曜日』

中編 約17500字


 渡された絵具には『ビリジャン ヒュー』と書かれていた。ばかにされているみたいだ、と宇内里穂は思う。金属チューブの中身が張り詰めて重く冷たい。キャップを開けなくても、深い緑色が詰まっているのを知っていた。

「今更言うのもなってもたもたしてたら何年もたっちゃってて。大きいサイズのやつだし、本当、返したいとは思ってたんだ。長い間ごめんね」

 ファミレスの窓は鏡のように室内の景色を反射しているので、外が暗いことを忘れてしまいそうだ。里穂はそこに映っている後ろ姿から、本体の藤百也に目を移す。揃った黒い前髪の隙間から平行な眉毛がのぞいていた。白い頬をオレンジ色の照明が染めている。襟足がほどよく跳ねて今はやりの韓国っぽい雰囲気だ。細く長い首にはグレーのタートルネックが似合っていた。

 こうして向かい合っていると、学生時代の記憶がよみがえってくる。今目の前にいる彼は里穂の知る昔とは別の印象を醸し出していた。その薄いくちびるは楽しい話をしているわけでもないのにゆるい弧を描いている。

「いやいや。わざわざありがとう。久しぶりに会えて嬉しかったし」
「そっかあ良かった。お詫びと言ってはだけど今日おごるよ」

 なめらかな、社交辞令のお手本みたいな会話だった。「それは悪いよ」「遠慮しないでよ」
「じゃあお言葉に甘えて」とあってもなくても結果の変わらない言葉が通り過ぎる。

「おれ、もう決まってるから」

 藤から手渡されたメニューを受け取って開く。藤の蛇みたいにつるんとした指に、見てはいけないものを見てしまったような気分がした。里穂は食べたいものと値段の間を探すようにしてページをめくる。

「いつもハンバーグ、頼んじゃうんだよね。好きじゃないんだけど」
 藤は頬杖をついた。まぶたを伏せて、大切な思い出のように話しだす。

「横の野菜が食べたいの。サラダじゃだめ。ハンバーグの横のさ、焼いた肉の汁が染みた野菜が一番好きなんだ。ちゃんと鉄板でジューってされてるやつ。それを食べるには現状、ハンバーグを頼むしかないんだよね」
「へえ……」
「胃の容量を犠牲にして好きなものを食べてる、現状」
「現状」まねて、里穂は言った。
「いつかハンバーグの横の野菜の、ハンバーグなしが出ればいいけど」
「ほんとそう思うよ。現状、その選択肢がないからさ。ある中から最善を選ぶしかない」

 ちょうど運ばれてきたトマトソーススパゲッティを受け取る。店員が来て二人の会話はいったん止まる。

「偽物って意味だっけ」

 スパゲッティをフォークで巻いていると、藤が言った。里穂はどきりとした。

「『ヒュー』のこと?」

 正面を見ると、藤もこちらを見ていた。切れ長で細い目だった。

「だいたい合ってるよ」

 絵具の中には、色名の後に『ヒュー』とつくものがいくつかある。里穂がよく使っていたのは、コバルトブルーとバーミリオンの『ヒュー』。もともとの色の原材料が高価すぎるため、似せた色味を安く作ったもの。そういう絵具に『ヒュー』がつく。『ビリジャン』はビリジアンともいって、くすんだ青みの緑色のことだ。

「美大に通った甲斐があったな」

 微笑みと一緒にさらに細められた藤の瞳は、黒い絵具で塗りつぶされているようだった。

「そういえばさ。同窓会あるみたいだよ」
「え、知らない。誘われてないかも」
「あー、違う違う。やろうと思ってるんだけどって来るか聞かれたから先に知ってるだけ。近々連絡回すとこだと思う」
「あ、そうなんだ」
「次会うのはその時かな」

 藤はフォークを置く。プレートの凹凸にあたってかちんと音が鳴った。いつの間に、ハンバーグも野菜もすっかりなくなっていた。

 社会人二年目になってしまった里穂の毎日はかなり平らだった。同じ時間に起きて、同じ銘柄の食パンを食べ、同じ時間に家を出て、同じ電車に乗る。やっと家に帰ってきたと思ったら、また同じ繰り返しだ。仕事が終わった金曜日の夜は驚くほど元気になるのに、土曜日は目が覚めるとほとんど終わっていて、次の日は仕事だと思うと日曜日には心が死んでいる。生き返らないまま月曜日が来てその繰り返しだった中で、火曜日の朝、藤からの連絡があった。彼は里穂たちとともに油彩科の二年生になることなく、いつの間にか静かにいなくなっていた人だ。貸した絵具のことなんてずっと前にあきらめて、忘れていたのに。


 蛍光灯の下で鍵を差し込んだ。週末の疲れがたまった体で押すドアは重たかった。鼻の頭が冷たくなっていることに気づく。部屋に入ると、ベランダからの明かりがレースカーテン越しに滲んでいるのが視界にうつった。なぜか閉じるときはずいぶん軽く、ドアは大きな音を出す。扉の外の蛍光灯の光は、一瞬のうちに絞られてなくなった。

 カーテンを閉めてから暗くなった部屋の中、手探りで電気をつける。パチンというスイッチの音と一緒に里穂は今日一日の傍観者になった。さっきの、同窓会に誘われていないと勘違いしたのを悟られていないか、ほかにも変な受け答えをしてしまっていないか、など。

 重たくて黒いコートを脱ぐと体が軽くなった。久しぶりに人と長く話した高揚感と疲れが少しずつ体から漏れ出していく。びっちり締まったタイトスカートのファスナーを下げるとやっと里穂は今日から解放される。

 藤は昔と比べるとあか抜けて、洗礼されたように見えた。彼の職業は知らないが、中退した人よりは自分の方がちゃんと働いているはずだと思う。里穂は劣等感につぶされてしまいそうになった時、他人を蔑むことしかできなかった。そうしてやっとのことでバランスをとる。同窓会とは夢と現実の答え合わせの日でもある。君華は来るだろうか。来るだろうな。

 新井君華とは卒業してからは連絡を取っていない。里穂が内定をもらった十月になっても君華は就活をしていなかったし、きっと今でも絵を描き続けているのだろう。これからどうしていくつもりなのか、里穂は一度だけ聞いたことがある。

「やりたいようにやりなさいって、パパの口癖でさ。お金のことは気にしなくていいからって」と君華は言った。彼女の父親に会ったことはないが、三階建てのアパートを持っていて、君華は月に一回必ずそこへ掃除に行っていた。それが君華の「アルバイト」だった。

 里穂は脱いだワイシャツと肌着を洗濯機に投げ込む。ストッキングはネットに入れた。部屋着を着る前にシャワーを浴びないと面倒くさくなってしまう。冷凍庫みたいに冷えた浴室に裸足でふみこんだ。実家では毎日湯舟に入っていたのに、ここに住んでからは一回も溜めたことがなかった。浴槽は薄汚れて、暖かいお湯が出るまで冷たいシャワーをぶつけられる役だ。四十二度になったお湯を頭から浴びながら目をつむり、頭の中で、絵を仕事にしている自分を思い描いていた。

 細かい振動の音で目が覚める。里穂は布団から手だけを出して音がした方をまさぐった。スマートフォンは冬の室温できんきんに冷えた塊になっていた。あの君華から連絡が来た。

『来て!』の一言とURL。そのあと続けざまにくるメッセージと一緒にスマートフォンが震える。ロックを解除しようとしてパスワード入力に失敗していると突然、着信画面に切り替わった。『新井君華』の文字がでかでかと表示され振動し続ける。里穂は驚きで急激に目が覚め、画面を凝視した。手の中の振動を止めるように緑色のマークを押す。

『里穂! 超久しぶり! 一番に言いたくて電話した!』

 寝起きにはつらいボリュームで君華の声が耳を割る。高いわけじゃないのに、遠くまでよく届く声だった。思い出すと、空白の時間に輪郭ができていった。

『聞いてる?』
「あ、うん、久しぶりだね」

 乾いた声が出る。君華が『寝起きじゃん』と笑い、聞いて! と興奮した様子でまくしたてた。

『私、受賞した! URL見て、送ったやつ』
「おめでとう。なんの賞?」
 確認せずにはいられなかった。

『国際絵画大賞展! 審査員賞だけど、やっと!』

 布団の中にあるはずの体がつま先から冷えていくのを感じていた。すぐに声を発することができず、当たり障りのない返事をした。

「すごいじゃん」

 国際絵画大賞は名前の通り世界から公募している賞だ。技法を問わないので君華の描く抽象画にもうってつけで、彼女は学生時代からもよくここに応募していた。すべての賞がホームページ上に掲載されるため、受賞者への注目度は高い。

『絶対来てね! 里穂にだけどうしても伝えたいことがあるから。待ってるからね』

 ままならない思考で、「どういうこと?」と聞くと「来た時言うから」としか答えず君華は通話を切ってしまった。里穂は急に静かになったスマートフォンを見つめる。かなり嫌な起こされ方だったが、眠気はすっかり消えていて目覚ましとしては優秀だった。のっそりと体を起こし始めると、スマートフォンが蝉の最期のようにびいいと鳴って、フローリングの床に反響して大きな音が出た。

『明日、二時に中野駅で!』

 ベージュのマフラーからはみ出した里穂の鼻と頬は赤くなっている。コートのポケットに手をつっこんで、約束の時間、きっちり二時には中野駅の北口にいた。商店街の入り口にある大判焼き屋から甘い匂いが漂ってきていた。木を囲んだ丸いベンチの横で「お願いします、お願いします」とビラをくばる高齢者を眺めていると、ときおり鳩が近寄ってくる。里穂は片足を軽く浮かせてシッシとする。少しするとまた鳩が来る。きりがないので無視することにした。つま先から冷え始めてきたので時計台を見ると、二時を十分過ぎたところだった。そろそろだということが里穂には分かった。

 蛍光ピンクのマフラーが目に飛び込む。水色のコートとの相性が悪く見えないのが不思議だった。改札から出てくるたくさんの人の中で君華の色はばつぐんに目立っていた。前髪ぱっつんの丸いボブ頭も昔と変わらない。
「おはよ!」と言われたので、全然朝でもないけれど里穂は「おはよう」と答えた。久しぶりだね、痩せたね、でも変わらないね、あ、こっち、と、君華は歩き出す。彼女の大きな平たい丸のピアスが揺れる。厚めのくちびるが休むことなく動いているのを里穂はたまに横目で見た。商店街の中で人をよけながら二人で進んでいく。君華はシーシャの店に行った感想を延々としていたので、里穂はほとんど相づちだけしていた。かねてからシーシャをよく思っていなかったらしく、正式に体験してから悪口を言いたかったらしい。

 途中、右に曲がって居酒屋の通りに入った。中野にはたまに来るのに、進むのは知らない道だった。里穂は行ったことがないところには入れないタイプなので、お店は安心できるチェーン店を好む。シーシャなんてもってのほかだ。

 レンガ造りの建物の前に立て看板があった。ちょっとした公園と合体した施設で、足元には落ち葉が溜まっていた。君華が数段しかないそこの階段を上ったので、目的地であることを察する。でかでかと貼られているポスターには、絵画のコンクールっぽくない黄色の背景に文字だけで『国際絵画大賞展』と書かれている。里穂はそれを横目で見ながら、まだ話し続ける君華の後ろに続いた。

 室内は暖房がかかっていたがコートを脱ぐほどでもない。学校のような、年季の入った白いコンクリートの壁がどこか冷たさを演出している。思ったよりも広い印象だった。いくつかの絵が額縁の中に飾られ、点々と並んでいる。やっと満足に話し終えたらしい君華の後ろをついていくあいだ里穂の目を引くものは一つもなかったが、そのどれもが堂々としていたので、居心地が悪かった。

「これ、ここ、あたしの」

 子供が親に『見て』をするときの表情に似ていた。君華は自慢げで、万が一にも誰かがこの絵を否定する可能性なんて微塵も考えていないようだった。

「君華の絵だ」

『太陽の捕食』。赤を基調とした中にふつふつとある水色が、水彩画独特のにじみのように描かれている。その後ろには絵具を塗り重ねた鋭い白が細かく存在し、そのすべてに黒い点があることで目玉に見える。

「すごいね。おめでとう」
「ありがとう!」

 大きな目を半月の形にして君華が笑った。喜び方も子供のようで、この作りものでない無邪気さは君華の変わらないところだ。

「モチーフと、油絵具で水彩っぽさを出してるところが評価してもらえたみたい。この白は本物のナイフで乗せたりしてみたの」

 聞いてもいないのに君華は絵について色々と話し始めた。里穂はまた得意の相槌だけうち続け、気が済むまで話してもらった。

「里穂は、どう?」
「どうって、何が?」
「絵だよ。調子どうなの」

 真正面から聞かれると、藤の時のように濁すわけにはいかなかった。
「今は描いてないよ」

 えっ。と君華の声が飾られた絵画たちを包んで反響した。一瞬、周りにいた客が二人を見た。

「なんで? じゃあ何してるの」

 さっきまで楽しそうに話していたあの顔が、露骨に変化していく。

「普通に働いてる」
「普通に? 普通にって……」

 君華の黒々として長いまつげが一回、瞬いて大きく開かれた。

「『そう』じゃないじゃん里穂は。あたしたちは違うじゃんか!」

 里穂のコートのはしを掴んで君華が言った。ぱっつんの前髪が少し乱れていた。突然近くで発せられた大きな声で反射的に肩が上がる。正しい返事がわからなくて、黙っていた。『そう』が二人の間で同じ意味を持っているであろうことは分かった。

「……そういう、しんどい時もあるよね。でもさ、頑張ろう、一緒に」

 少しの沈黙の後、独自の解釈をした君華が言った。里穂は「そうだね」と言わざるを得なかった。それで君華はさっきまでの朗らかさを取り戻してくれた。

「あたし個展をやれることになったの。やっぱり直接会えてよかった、今の話聞いたら思った。今日伝えたいことがあるってさ、言ってたじゃん」

 うん、と里穂は答える。

「里穂の絵を飾らせて。あたしにできることをさせて」
「そんなの、いいのに」

 里穂の意思が正しく伝わらないままで、君華は話を続ける。

「ううん。理由がないと続けるのなんて難しいもんね。あのね、実はもうテーマは決まってるんだ」

 問いかけずとも君華は嬉しそうに言った。

「延命措置」

 習慣づくと、何も考えなくても体が動くようになっていた。動ける植物状態である。止めることを見越して六時にかけた一回目のアラームを止めて、二回目にかけていた六時十五分のアラームで起床する。タイマーで暖房がかかるようにしていたので、カーテンを開けたら結露で窓がびしょびしょだった。隙間風が冷たい。

 月曜日、里穂の平らな毎日がまた始まる。水道水をケトル満杯に入れてお湯が沸くのを待つ間、食パンをトースターにセットする。沸いたお湯でインスタントのコーヒーを溶かして、いつもと同じ朝食を食べ終えたら顔を洗い、化粧をする。髪は毎朝整えるのが大変なので、一つにまとめてしまう。歯を磨いて黒いスーツに着替えたら家を出る。同じパンプス、同じ通勤路を通って同じ時間の電車の同じ号車に乗り込んだ。各駅停車はほんの少しだけ空間に余裕があって、みんな一人一つのつり革を持っている。空いているつり革を握って居場所を定めた。ここまで来てやっと、里穂は植物状態から意識を取り戻す。あくびをかみしめるのに、里穂の眉間には力が入る。昨日は頭が冴えて寝付けなかった。月曜日の訪問と闘いながら、君華の言葉を反芻した。最初から彼女は、自分の個展の中で一枚だけ、里穂に頼むつもりだったらしい。里穂はまだ了承していなかったが、断りもしていなかった。

 この毎日を繰り返す合間に絵を描くことができるのか、考えてみる。定時は六時で、そこから帰宅するまでに一時間かかる。当然、ぴったりに上がれるわけではないのだから八時に家に着いたとして夕食を食べてお風呂に入って―――眠気で思考が途切れた。ぼんやりと、『そう』じゃないじゃん、という君華の言葉を思い出していた。

 仕事中も里穂はパソコンに向かっているふりをして、画面の内容とはまったく関係ないことを考えてしまった。『そう』ではない彼女には里穂の持つような悩みはないのか。想像の中で何度も何度も自分と比べた。帰宅中の電車でスマートフォンをつけると、君華からのメッセージがあった。ちょうど里穂の昼休憩が終わった後に送られてきていたようだ。

『この間の話よろしくね! あと言い忘れてたんだけど同窓会やるんだって! 里穂も回しておいて。うちらは駅で待ち合わせよー!』

 メッセージの下に、コピーしたのであろう長い詳細が書かれている。思ったよりも早い連絡だったが、ちゃんと自分のところまで回ってきた。藤と話したあの時には、まさか君華に会うのが同窓会より先になるとは思いもしていなかった。

 部屋に着いて条件反射的に見た時計は七時四十分をさしていた。すぐに暖房のスイッチを入れ、スーツから着替えて冷凍パスタを取り出す。少しの時間も惜しいので、包装の開け方はめちゃくちゃだ。素早く雑な手つきで電子レンジにつっこむ。温めているのを待つ間、マグカップに水道水を注いで一気に飲み干した。平日に好きなことをする余裕がないのは正社員にとって普通のことだ。これに気が付いたのが社会人になって初めての失望だった。

 ローテーブル横の一時的なんでも置き場となっている床に、金曜日の夜から置いたままの『ビリジャン ヒュー』がいるのが目に入る。捨てられずに長らくしまったままの絵を描く道具たちは今でもクローゼット奥深くに封印されている。油彩道具一式が入った木箱の形を里穂は頭の中で鮮明に思い描いてみた。金具を開けて、絵具に油壷、筆の一本までを記憶の中で眺めた。百円ショップで買ったプラスチック容器に入れこまれている、メーカがばらばらな絵具ひとつひとつまで。今度は現実のクローゼットの奥に手をつっこんで木箱とプラスチック容器を取り出してみる。少なくないほこりが舞って鼻がむずがゆい。中身は思い描いた記憶のままで、それらは鮮やかに、里穂と、里穂とともに帰ってきた『ビリジャン ヒュー』を歓迎しているようだった。時間さえあれば、描けるはずだと里穂は思い始めていた。電子レンジのチン! という音が心なしかいつもより明るく聴こえた。出来上がったたらこパスタが光り輝いて見えた。気がした。


 藤が来たのは姿を見なくても分かった。里穂が三週間分の繰り返しオートモードを終えた金曜日の夜、同窓会という名目の飲み会には二十人程が集まっていた。複数のテーブルに分かれてグループごとに座っている中、ほの暗い居酒屋がざわめいて、里穂の耳に彼の名前を届けた。退学した人にこんなに分かりやすい反応をするのはさすがに失礼だと思ったが、あたりを見渡して里穂は違和感を覚える。

「久しぶり」「来てくれて嬉しいよ」と口々に同級生たちが藤に話しかけ、彼の周りには人が集まり始めた。入口から離れた君華と二人きりの席でしばらくそれを観察する。

「どういうこと?」

 里穂は怪訝な表情を隠すこともせずにつぶやいた。

「今回は藤くんがメインって感じだよね」

 君華は唇の両端を釣り上げてにやりとする。それから手元のカシスオレンジに口をつけた。

「あれ里穂、知らないの?」
「退学の子でしょ」
「退学の子って! 違う違う! モデルやってるんだよ、結構今有名」

 有名な雑誌に出たとか、あの芸能人と共演したとか君華が一人で話し続けている。適当に相槌をうつが、頭には入ってこなかった。
「里穂さん」という声にはっとして、意識が現実に引きもどる。横を見るといつの間にか藤が立っていた。

「この間ぶり」

 藤は共犯めいた言葉と一緒に笑ってみせた。細長い目がさらに線に近くなる。まわりからの視線を感じた。この人たちは藤を呼びたくて同窓会なんかを開いたのだとやっと、気が付かされた。

「あれ? 二人って仲良かったっけ」
「仲良くはない」

 君華の質問には反射で答えていた。藤は「え、ショックなんだけど」と笑う。表情は誰もが勘違いするほどにやさしい。藤の職業がわかった今、『そういう目』で見ると恐ろしく納得させられた。

「あ、てかそういえば展示会のことインスタに載せてくれてありがとね。おかげで個展開けることになったし、藤様様だよ。絶対招待するからね。あ、そう! それで里穂も描いてくれるんだよね」
「へえ! それは楽しみ」

 突然二人が里穂の顔を見る。意思は殺されたようなものだった。里穂が答えないので、会話が途切れたタイミングをうかがったかのように三人組の女子が混ざってくる。藤と話したそうにちらちら見てくるのを少し前から察していた。一気に蚊帳の外になったので、里穂はもくもくとアルコールを飲む置物になる。学生時代、この三人とは特に仲良くなかったので下の名前を思い出せなかった。盗み聞きしていると、彼女たちもどうにか絵を仕事にしようとしているらしい。絵画教室にボランティアで参加しながらアルバイトをしていたりして、定職にはついていないという。ここにいる人間はみんな同じだ。『そう』じゃなくなるいつかを夢見ている。

「さっきは里穂さんの絵、見たくてああ言ったけど、無理してない?」

 幹事の集金を待っている最中、藤がそろりと話しかけてきた。首筋にほくろがある。見てはいけないものを見た気がして目をそらした。

「ああ。大丈夫だよ、気にしなくて」
「大丈夫ならよかったけど。じゃあまた。ね」

 意味などないのに、ありげに「ね」と付け足してくる。気色悪いが、不快ではなかった。藤はすっきりした顔でするりと立ち去っていった。

「やっぱ二人って何かあるんでしょ」

 二人でぼそぼそ話しているのを見ていたらしく、君華が肩にひっつく。

「何にもないって」
「ふーん? あ、ていうか、絵なんだけどさ」

 君華が思い出してしまったようだ。

「あれ、打ち合わせとかしなくていいの?」
「いらない! 里穂のそのままの表現が見たいから」
「かぶっちゃうかもしれないよ。君華の個展なのに」
「あたしと里穂だよ、違いすぎて同じもの描いたとしてもかぶることないって! 三月いっぱいまででよろしくねい」

 君華は「終電あるうちに帰ろ!」と言いさっさと歩きだす。久しぶりに人の温度に触れた気がした。それは部屋に帰った後も里穂の記憶に残り、眠る前に思い出すくらいだった。

 他人の家の窓から漏れる薄い光だけを頼りに、街灯のない道を歩いて帰宅していた。この間の金曜日に同窓会があったのも遠い昔に感じてしまう。出勤から退勤までの感情はわずかにも揺れることなく平坦だ。里穂の部屋は駅から徒歩十八分ほどかかる距離だが、物件紹介ページには十五分と書かれていた。住んでみてからその時間内にたどり着けたことはない。たった三分の誤差は毎日続くには大きすぎた。着々と家に近づくにつれて明かりが減っていく。暗闇に置き去りにされるようだった。

 ぽつりと明かりのついたアパートにたどり着くと、玄関の扉のポストに不在票が入っていたので、すぐに記載されていた番号に電話をかけた。里穂は電話が苦手だが、不在票の番号にだけは躊躇なくかける。平日の宅配は受け取れないのが当たり前で、休日にいつインターホンが鳴るかわからない不安と一緒に過ごすのは耐えられなかった。帰宅したらすぐに再配達をお願いするのが現状の最善だ。ドライバーの営業時間内ぎりぎりのため、来てくれない場合もある。不在票とは一刻を争う事態なのだ。

 以前、共用部のブレーカーが落ちていて部屋以外が真っ暗だったことがあった。復旧していないか確かめるのに部屋からインターホンをつけてみると、ホラー映画ばりの暗闇が映った時のことは今思いだしても恐ろしい。大家に電話するのが嫌だったので、そのうち誰かが言うだろうと放置していたら一週間も経っていた。結局、限界がきてしぶしぶ電話したが、里穂がやっていなければ今でも暗闇のままだったかもしれない。

 最善を尽くしたおかげで受け取ることができた荷物の送り主は、新井君華だった。段ボールと同じ色の包み紙についたガムテープをちぎりながらいそいそとちぎり破く。出てきたSサイズ20号のキャンバスは、正方形で、バスタオルを二つ折りにしたくらいの大きさだ。この部屋にはまぶしすぎる白だった。里穂はその表面の凹凸を指の腹でなぞる。何度もなぞった。これならうちに1つだけあるイーゼルに乗るな、と思った。何を描くか考えるところから始めなくてはならない。

 里穂の生活の軸がいつの間にかすり変わっていた。出退勤中の道で目に入るもの一つずつが『延命措置』にふさわしいか精査する。誰もいない小さい公園、信号を待っていた人と同じタイミングで付いてしまう歩道橋、行列のできるラーメン屋の開店前―――どれも自分の毎日になじみすぎてぴんと来ない。そのまま帰りにスーパーに寄る。入ってすぐの場所には果物と野菜がコンテナに入れられて並んでいた。毎日特売の表示になっている納豆を取り、近くにあった消費期限が今日の笹かまぼこが三割引きされていたのでかごに入れた。その隣の隣に『ほぼカニ』という名前のカニカマに里穂は目を引かれる。白と赤のうまく混じった感じのそれは食品サンプルのようにも見え、本物のカニにも見えた。

 土曜日、里穂は白目をむきながらどうにか午前中に起床した。日常からはふさわしいモチーフを探せなかったので、とにかく外に出てみることにした。百二十デニールのタイツにワイドパンツ、ヒートテック二枚重ねに厚いニットを着込みダウンコートを羽織った里穂は激しく着ぶくれる。扉を開けた瞬間に凍った風が顔を刺したせいで家の中に戻ろうとしかけたが、澄んだ冬の空と日差しに背中を押されて外に出た。

 休日の外は平日の景色とずいぶん違った。誰もいなかった公園には子供がいたし、ラーメン屋には人が並んでいる。十八分くらいかかる駅までの道をもっと時間をかけて歩いた。大通りの信号をきょろきょろしながら待つ。いつも「閉店」を掲げていた饅頭屋が開いているのを初めて見た。商店街に入ると、逆に閉まっている居酒屋の並びになぜかあるメロンパン専門店からの香ばしい匂いが漂ってきた。里穂は誘惑に耐えながらそのまままっすぐ歩く。長い商店街の、まだ行ったことがない最果てを目指していた。駅を通り越した先にも続くスーパーや本屋、仮設露店にいるおばさんが素手で今川焼をひっくり返していた。レンタルビデオ屋もアイスクリーム屋も通り過ぎたところにある花屋に飾られた生花、その隣に百円ショップがあり、まるで花屋の延長のようにしれっと造花が置かれている。里穂は花屋と百円ショップの境目に立ち止まって間違い探しをするように眺めていると、店員が話しかけてきた。花屋のほうだ。

「これ、わざとなんです」
「はい?」
「隣に同じ花おいてるでしょう」

 ソバージュっぽい、色の抜けた茶髪の女性店員だった。白いワイシャツを腕まくりし、緑のエプロンを着ている。

「なんで隣に?」

 隣同士にされている生花と造花は、白のものと淡いピンクの個体がある。花弁が丸まった薔薇のような形の花だ。両方の店に、『ラナンキュラス』と書かれたカードがある。

「どっちでもいいって人が見比べやすいから。御用があったらお声がけくださいね」

 言い去ろうとするのを里穂が引き留めた。

「両方ください、これ、長く持つように」

 かしこまりました、と答えた店員は一時停止して言った。

「そちらはお隣で買ってきてください」


 ふくらはぎが張って痛む。長い道のりから帰宅し、厚い靴下を脱いでから足をもんだ。商店街はあっけなく家系ラーメン屋を最後に終わってしまった。ビニール袋から生花と造花を取りだし、百円ショップで買ったまったく同じ二つの花瓶に同じ量の水をついで、生花と造花とを分けて入れた。白い不透明の花瓶なので造花のほうに水を入れる意味はないが、里穂は生花と同じ扱いをした。BGMがわりにテレビをつけると、知らないドラマのエンドクレジットが流れている最中だった。座り込んで本格的にふくらはぎのマッサージをしながら里穂は目をやる。画面が暗くなり「この物語はフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません」と真ん中に表示された。久しぶりにこの表記を見たような気がした。

 モチーフが決まってからの里穂は、憑りつかれたように日々キャンバスと向かい合っていた。仕事がない土日に絵を描き進め、平日は一時間だけでも手を付ける。そうやっていると一週間は何度も過ぎていった。ただ掃除は一生後回しで、部屋は順調に汚れていった。仕事中も早く帰りたくて仕方なくなり、駅についてからの帰り道は走った。何もかもうまくいっているような気がしていた。

 ベージュのカーテンの前に、同じ角度でラナンキュラスの入った花瓶二つを置いている。左が生花で右が造花だ。描くときはカーテンが背景にないといけないので、半分だけずっと閉めたままだった。床に座り、キャンバスと静物を何度も交互に見る。下書きを終えて、後ろにあるものから塗り進めた。背景、地面、二つの白く不透明な花瓶、ピンクと白のラナンキュラス。全体の下塗りが終わったら、絵具を重ねて、ぼかして、描き込んでいく。生花のもつみずみずしさと、造花のポリエステルを、現実の写し絵のようにキャンバスに再現する。そのための繰り返しの工程を無心で続けた。手持ちの油壷ではすぐ濁ってしまい不便だったので、食器として使っていた浅めの広い皿を溶き皿として使うことにした。夕食を食べるのも忘れ、日付が変わってから我に返ることも多かった。以前にもまして家にインスタント食品が増えた。特に九十円で買える正方形の豆腐三個セットによくお世話になるようになった。慢性的に睡眠時間が減っているのに集中力や体力に限界を感じることもなく、快適な生活に感じ始めたが、全てつかの間でしかなかった。


 不自然なボーナスが出た。納期が遅れているので取引先へ頑張っているというアピールが必要らしく『毎日プラス3時間は残業していってほしい、ボーナスはそのための前払いですから』とめったに顔を出さない上司の上司が朝の全体会議で言った。ただの新卒二年目の正社員である里穂に従う以外の選択肢はなかった。だんだんと、全部がどこか他人事になっていった。いつもと同じ分厚いダウンコートを意思なく着ていくと妙に汗をかいた。それで季節が変わろうとしていることに気づく。帰りの急行電車を待つ間、とっくの前に再生が止まったままのイヤホンをつけたままで、数歩、踏み出す想像をしてみた。到着する列車とともに強い風が吹いて、束になった前髪が揺れる。たった数秒しか開かない扉の、箱にも思える車両へ踏み出し、大勢の大人の中に流れ込んだ。

 絵はしばらく描けていない。帰宅すると1Kの部屋に放置されたキャンバスから目をそらす。あんなに輝いて見えた画溶液や油絵具の匂いに吐きそうになった。周りが汚れないように敷いた新聞紙もそのままで、歩くと足にひっついてうっとうしい。

 部屋中の色々なものを無視してスマートフォンに充電器を差し込むと、君華からの着信履歴がある。複数のメッセージも届いていた。里穂がアプリを開いて既読が付いたのを確認したのだろう、その瞬間に着信が来た。

『LINE見てよ! 心配した! 調子どう?』
「調子…… 最近は良くない」

 答えてから、何の調子について聞かれているのか理解する。

「間に合うとは、思うけど」
『なに、その言い方』
『間に合わせのものを出すことになるかもって意味?』

 君華の声色はとたんにひりつく。

「そういうつもりはないけど」
『やる気がないなら最初から断ってくれたらよかったのに』

 いまの里穂を止めてくれるものはもう何もなくなっていた。

「何それ。そっちが断れないようにしてたんじゃん、最初からずっと」『だって里穂、やりたかったでしょ。里穂って昔から自分の意見とか何も言わないじゃん。言わないんだからやりたいんだと思うでしょ普通』
「何も言わないって、君華が言わせないんじゃん。自分が思ってることが相手もそうな訳ないでしょ。決めつけないでよ」

 君華は絵を描き続けている。卒業しても父親の持つアパートの掃除を月に一回するだけで、夢を成功させるかもしれないところにいられる。

「あなたはいいよね! 好きなことだけできて」

 頭に血が上って、声が震えた。君華の返事はなく、里穂はかろうじて「期限までには完成させるから」と言って電話を切った。自分の口から出たとは思えない弱弱しさだった。

 この日はそのまま眠ってしまった。次の土曜は昼過ぎまで眠って、起き上がっても頭痛がして何もできなかった。日曜になると、月曜日がすぐそこに控えていることが耐えられずまた何もできない。月曜日が来たら決められた機械のように出勤して、働く。

 藤はハンバーグに添えられたにんじんを転がして均等に焼き色が付くようにしている。香ばしい肉とデミグラスソースやらが混ざった匂いはオートモードだった里穂の脳みそまで届いた。

「ほんと、今日は急に誘ったのに来てくれてありがとう」

 何周目かわからない月曜日、藤から連絡が来ていた。里穂は二十一時過ぎに仕事を終えた後、この間と同じファミレスに集合した。

「全然いいよ、気にしないで」

 里穂が嘘を答えると藤は安心したようにする。

「そういえばさ、この間初めてテレビに出たんだけど」

 細い指でナイフとフォークを器用に使いながら、自慢げでもなく藤が言った。里穂はデミグラスソースのオムライスをスプーンで崩しながら食べる。ぱっとメニューを決めないといけないときはいつもこれだった。

「あ、でも、ほんとちょっとのやつ。そんなに喋ってない。でもすごいんだ、エゴサしたんだけどさ、あれやめられないね。ソシャゲのガチャみたいな感じかな、中毒性があって。褒めてるのも悪口もあるところが。ソシャゲ知らない? ソーシャルゲームの略なんだけど。スマホのゲームみたいな。でもおれも知ったつもりで言ってた。説明できないかも。恥ずかしいな」「私もSNSとか、使ってるけどなんの略かわかんない」
「ソーシャルは『社会的な』って意味でしょ」
「じゃあソシャゲは『社会的な遊戯』?」
「高貴だ」

 ケラケラと藤が笑うので、つられて里穂もやや微笑んだ。

「有名になると大変なんだね。想像したら怖いな」
「怖くはないよ。おれはおれを知った人みんなに好かれたいから頑張らないとって思う」

 綺麗ごとを言っている風でも、希望や欲に満ちたような言い方でもない。頭上のオレンジっぽい電球の光が当たっていても、瞳は深い黒色をしていた。見つめすぎていたことに気づき、里穂はオムライスを食べることに専念する。その間藤はハンバーグを十六等分くらいにちまちま切り刻んでいた。

「君華さんと展示会のこと連絡しあってたんだけど、返事が来なくなっちゃったんだよね。何か知らないかな」

 少しの沈黙ののちに突然出た話題だった。

「今日、それが聞きたかっただけ?」
「あ、いや、ううん、メインはこれだけど…… ごめん」
「謝る必要ないのに」
「気分を害してしまったと思ったから」
「人を伺いすぎだよ」
「ごめん……」
「変なの」

 しつこく謝ってくる藤に、里穂は苦笑してしまう。

「真剣なんだけどな。今すごく悩んでるところなのに」
「私は藤くんや君華が真剣にうらやましいところだよ」
「君華さんはわかんないけど、おれなんてうらやましがること何もないよ。誰にも嫌われたくなくて怯えて生きてるだけで」

 藤は自分の頭を人差し指で掻いたあと、真顔になる。表情がないだけで怒っているようにも見えた。

「里穂さんがうらやましがるくらいほしいものって何?」

 答えない里穂から目線を外して藤は続ける。

「俺はね、愛が欲しい。全員に好かれたいから」

 藤は無表情のまま、里穂に視線を戻した。

「ねえ、里穂さんは何が欲しいの」

 里穂は一回、まばたきをした。

「……日曜日」

 藤の切れ長の目は開かれ、黒い瞳の丸いふちがよく見えた。里穂が身構えたのち、藤は声にならない息を漏らして、
「なにそれ!」
 と破顔した。今まで見た中で一番人間らしい表情だった。



 絵を描き終えたので、君華に一報した。モチーフを描き途中だったものから変更してしまったため、ほとんど設営日に合わせた出来だ。乾かす時間も半日しかとれなかった。塗り重ねれば修正がきくのが油絵の良いところだが、そのせいで箇所によっては触ると油彩がついてしまい、持ち運ぶためにどうするか里穂は試行錯誤した。仕方なく、ゴミ袋用の大きいビニールに包むことにした。少し動かすだけでがさごそ鳴り、会場のある高円寺までの電車内、里穂は身を固くしていた。休日に早起きしたのが久しぶりなせいか、立っているのにうっすらした眠気がもたもたと近づいてくる。つり革につかまりながら目をつぶり、起きているのに寝ている雰囲気を味わう。キャンバスを入れたトートバッグの取っ手が肩に食い込んでいく。しわになるだろうが、持ち替える気にもならない。開いた扉から流れていく人々と一緒に電車を降りた。改札を出るまでずっと同じ塊の中で流され、それを小走りの人がじゃまそうにしながら抜け出していくのを見ていた。君華とは現地で待ち合わせの予定だ。スマートフォンの位置情報をオンにして、展示会場の住所を入れる。徒歩のルートは6分ほどらしい。北口を出て広場を越え、案内された通りの方角に曲がり目的地まで一本道になったところで里穂はナビを切った。通りには年季の入った古本屋や、新しく見えすぎない外装の雑貨店などがぽつぽつと並び、本来の「昔」っぽさと、意識して作られた「レトロ」が混在している。そろそろかなと思っていると、木枠にガラス張りのそれらしい建物を見つけた。艶のあるショートボブに緑のワンピースを着た君華をガラス越しに確認する。透明なガラス扉についた木製の取っ手を押してみると、力を込めたつもりはなかったが勢いよく扉が開いてしまった。おかげで君華がばっと里穂を見つけることになる。

「おはよう」と言われたので「おはよう」と返した。壁にはすでにいくつかのキャンバスで等間隔に埋められていて、君華らしい赤や黄色といった原色の多い景色になっていた。攻撃的でもあり、子供が選んだクレヨンのようで幼くもある。君華によって表現された『延命措置』。その中で一か所、ぽかんと白い空間があるそこが里穂の場所であることはすぐに分かった。いそいそとトートバッグを床に置きキャンバスの入ったビニールを取り出す。君華はなにも言わなかったが、がさがさとうるさいビニールの音が気まずさを多少埋めていた。

「あ、それ、ここで」思った通りの白い空間を君華は指さし、「あ、うん」と、あたかも知らなかった様子で里穂はキャンバスをかけた。一歩下がって、まっすぐになっているか確認する。し終わると手持無沙汰になり、二人で棒立ちしていた。永遠にも感じられる数秒後、
「ごめん」
 と君華が言った。へそのあたりで、右手を使い左手の中指をいじっている。

「ごめん。言われるまで気づかなかった」

 目が合うことはない。お互いに関係ないどこか体の一部に視線をやっていた。でも、と君華は続ける。

「あたしだって里穂の方がいいなって思うことあるよ。親から離れて暮らせてるのとか、自分で自分の分稼いでることとか。嫌でもうらやましくても、今はこうするしかないから。あたしは」
「それは、ごめん。自分だけがって、思ってた」
「謝ることじゃないよ。全部手に入ることなんてないもん、誰も」

 里穂は黙る。白い壁に飾られた、蛍光の黄色がまぶしい君華の絵に目がいった。気づいた君華もそれに視線を移す。

「それ好き? 『祈る交差点』」

 君華が言った。全部黄色の、三つ横に並んだ丸と、二つ縦に並んだ四角は信号機を表しているようだ。希望の黄色と警告の黄色。

「まぶしい」
「雑な感想」

 君華は怒ることもなく言う。

「里穂の絵、先にタイトルだけ聞いてたからもっと暗い絵かと思った。『逃亡』なんて」

 二人は里穂の絵を見た。カーテンが開いた窓の前に置かれた一本の花瓶の中にラナンキュラスがある。

「これ、生花と造花? よく描き分けられたね」
「そこだけは、大事なところだから」
「さすがだよ。電話した時あんな感じだったから、もっとひどい出来かと思った。全然いつも通りじゃん」

 里穂は意味のこもった微笑で
「良かった」
 と答えた。君華は考える素振りを見せてから、なるほどね、と言い、続ける。

「偽装と逃亡が、里穂にとってそうなんだね」

 良く晴れた日曜日の夕方、クーラーのよく効いたファミレスに二人はいた。ここのところ藤は理由もなく連絡をしてきたり、里穂もしたりするようになった。

「なんで絵具、貸したんだっけ」

 今では残り少なくなった絵具のことを思い浮かべた。

「でかい緑色の丸を描こうとしてたんだよ」

 藤が答える。その視線の先には彼が頼んだハンバーグが二つあった。付け合わせの野菜を食べたいがために二つ注文したのだ。

「でかい緑色の丸?」
「白いキャンバスにでっかい緑の丸だけがある有名な絵があるじゃん」
「ああ、あの一億くらいする?」

作品名を直訳すると『緑白』という題名になる名前の通りの絵だ。

「そうそう。あれを描こうとしてた」
「人から借りた絵具で」
「あれっていろんな緑色を使った絵だったでしょ? 里穂さんのはおれが持ってない緑だったんだって。人から借りた絵具の色も混じってるとかアートっぽくない?」
「藤くんが中退した理由がよく分かった」
「あんまりだね」
「そもそも人の作品を真似しようとしてる時点で何も思わなかったの」
「みんなが認めてるものが一番素晴らしいと思ってたんだよ、真剣に」
「誰にでも人生の大勘違いはあるよね」
「大間違いじゃなくて、大勘違いね。おれは今も見つけた。見て」

 紙ナプキンが入ったケースを藤が指さす。こちらから見える面にはドリンクバーセットの案内、その逆側に『NEW』と書かれている。テーブルの外側に向けて置かれていたので二人とも気が付かなかったようだ。

「ハンバーグの野菜、プラス料金で増量できるって書いてる。これいつから? ていうか頼んだ後に気づくとかつらすぎる。ハンバーグ二個食べる一大決心したのに」
「しょうがないよ、次から超増量してもらいなよ」
「里穂さんにハンバーグ半分あげる」
「ええ。それは。もらうけど」
「そう言うと思ったんだよね」

 藤はケースから取り出したてのナイフでハンバーグを切り込む。里穂は動かすたびに肉汁が鉄板に逃げていくのを眺めていた。そうしてきっちり半分になったハンバーグをご丁寧に小皿に乗せて手渡されたので里穂も丁寧に受け取る。自分の『十六種類の野菜カレー』の上にそれを乗せたので、理想的で完璧なカレーになった。途中で里穂のブラウスにカレーの汁がとんだらしく、染みになってしまっているのを発見する。

「これ仕事でも着れるから便利だったんだけど。カレーだとなあ」
「と、いう事はスーツじゃなくなったんだ。いいね」
「そうなの。オフィスカジュアル。スーツより楽だけど選ぶの大変」
「ふうん。自慢げだ」
「自慢したいからね」
「おれは毎日私服だけど」
「私の中での最善を藤くんと比べないでよ」
「ものすごく正論だ」

 橙色の空には紺が混ざり始め、日曜日は終わりへ向かっていく。明日からまた月曜日が始まる。

この記事が参加している募集

#私の作品紹介

96,225件

#眠れない夜に

69,281件

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?