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『子ども白書2022』ができました   追加公開 養老孟司さんインタビュー オンライン時代を生きる子どもたちへ

 1964年の創刊以来、今年で58冊目を迎えた『子ども白書』(日本子どもを守る会編)。児童憲章の精神に基づき、子どもたちが安心して暮らし、豊かに育ち合っていける社会の実現をめざして刊行を続けています。今年の特集は「オンラインで変わる子ども世界 コロナ禍からの問いかけ」。かもがわ出版のnoteで内容を一部公開していきます。
 今回は、追加公開として、養老孟司さんへのインタビューをお届けします。(聴き手:成田弘子、高野慎太郎)

養老孟司さんインタビュー              オンライン時代を生きる子どもたちへ(抜粋)

仮想現実やメタバースをどう捉えるか

高野:メタバース(仮想空間)をどう捉えるかという話題をお伺いしたいのですが、まず「現実」という言葉について確認です。ご著書では、「現実とは、出力に関係してくる入力である」と定義されておられましたね。

養老:そうです。例えば、歩いていて足元に石ころがあれば避ける、現金があれば拾う。避けたり拾ったりといったような出力に結びついてくる「石ころ」や「現金」が現実です。もしも競馬を知らない人であれば、足元に馬券があっても拾わないわけですね。

高野:そうした意味論を含めた入力が「現実」ということですね。巷では仮想空間の話題が花盛りです。このままいけば、おそらく入力も出力も仮想空間で行われるような状況も生じると考えられます。そうなると、当たり前ですが、我々の生や実存を支える基盤が変わってきます。もしも、理想的な仮想世界に脳をつなげて、仮想世界だけで生きていけるとしたら、それでいいのか。ロバート・ノージックが投げかけた問題が現実に問われています。つい先日、メタバースに関わる組織の理事長に就任された養老さんは、こうした問題について「それでいい」とお考えでしょうか。

養老:技術というものはすべて使い方次第だと考えています。結局は上手に使うことができればそれでよいわけです。例えば、身体的な事情で移動が難しい人にとっては、VR を使えば世界のどこにでも行ける。わざわざ身障者用のベッドを頼んだり、追加料金を支払って移動するよりも、VR があればよっぽど助かるわけですね。だから上手く使えば技術は有益です。でも、下手に使われるとどうにもならない。人間が新技術を使いこなすだけの能力があるかどうかは未知数です。メタバースに関する組織も、そういったことを考える場だということでよいものだと思いました。全体の議論が変な方向に進む前に、可能性や限界を含めた議論をはじめるほうがいいのではないかと考えたんですね。

高野:VR の福祉・医療的な意義について、おっしゃる通りと思います。一方で、より多くの人々にとっては、可変性のある実体世界に参画することよりも、ファイン・チューニングされた仮想世界でまったり生きるほうが魅力的に感じられるのではないかとも危惧します。そうなると、まさに脳死問題と同じように「何が人間的な生なのか」という線引きに関わる議論となるわけですが、そのあたりについてはどうお考えですか。

養老:当然そうなりますね。ただ、そうした議論をする際に、日本では議論の基本に「人間」を据えて議論をしますね。しかし、いまでは人間そのものを生物学的に変更する技術が出てきてしまっています。人為的に身体を変えるという意味では、ワクチン接種だってそうですね。基準にしていた人間そのものが変わってしまえば、さっき高野さんが言われた問題は問題ではなくなってしまうんですね。

高野:「それが何か問題でも?」となる。

養老:そうです。そこで、「何か変だ」と感じるということは、それは感覚が反応しているのであって、A = B が変だというのと同じことですね。その感覚が悪いわけではないけれど、いまの社会で生きていくためには圧倒的に不利になってしまう状況があるわけです。そうすると次の問題は、仮想世界を変だと思うような人は初めから作らなければいいという話になってくる。「スーパーマン」の物語を描くみたいに、基本となる設定自体を変えてしまおうという話になるわけです。そういったかたちで人間自体に手を加えると、人間というモノサシが消えてしまいますから、「人間として…」ということが言えなくなるんです。ここからいえることは、人に基準をおいた倫理観は危ないということでしょうね。人そのものが変わったら変えざるを得なくなるわけですからね。

成田:一方で、『スマホ脳』(新潮社、2020年)に書いてあるように、人間の脳は4 万年前の「サバンナ脳」の時代からほとんど変わっていないということも言われていますよね。

養老:だからこそ変えようという議論になるんだと思います。進化を加速させようと考える人々がいるわけです。そこが現代の科学の難しいところですね。

テクノロジーが先行すると?

高野:歴史的にも、価値観の変化の始点には技術がありますね。鉄道が敷かれたことで「時間厳守」の価値観が生まれたり、体重計の普及で「減量」という行為が始まって、「摂食障害」の症状が広がったりしてきました。技術が先行し人倫が後追いするという流れがあるわけですが、現在も資本主義と結びついた技術革新がもたらした人間拡張や仮想世界の技術が先行しています。価値観はもはや後追いするほかないという状況のように見えるわけですが、こうした状況は何か喜ぶべきことなのでしょうか。

養老:そもそも、すべての物事に良い悪いはないと思っています。すべては「なるようになる」という性質のものだと思うんです。何が良くて何が悪いかということは、すべての事柄の細部まで検討してみなければ判断できないことですね。そうした価値観が端的に現れているのが一神教の世界の「最後の審判」という考え方です。最後の審判では、その人がしてきたことのすべてが裁かれると考えるわけですね。しかし、我々のような人間にとってみれば、何がどのような結果に結び付くかはわかりません。親が子にしたことが、子どもには悪かったけれど、孫には良い影響を与えたということもあるわけです。それこそ最後の審判でもなければ、そんな判断は原理的にできないんですね。

高野:科学的に考えれば物事に善悪はないわけで、「価値自由」の議論になりますね。一方で、養老さんは自然や身体の視点から社会を批評するような、価値観を伴ったお仕事をしこられました。その意味では、技術のなりゆきを見守るというお立場には少し意外な感じを受けるのですが、いかがでしょうか。

養老:ただ、そこで「自然」と言うときに、「自然」という要素を概念化して抽出しているのは人間の側ですからね。自然のなかには何が自然かという線引きなど、まずないでしょう。必ず人間の主観が入ってしまうので、こうしたテーマを原理原則から議論するのはとても難しいことです。進化論でいえば、数値的に実証された適者生存という考え方もあれば、今西錦司さんの進化論のような立場だってあるわけですからね。

成田:メタバースの議論に入られたのも、何かお考えがあってのことだろうと思いました。

養老:いま具体的に考えているのは、VR を使ってラオスの森にみんなに行ってもらおうということです。実際に行くのは危険で困難なので、メタバースでその世界に行ってもらおうと。メタバースで体験してもらって、例えば森の保全にどんな意味があるのかを具体的に考えてもらう。そして、クラウドファンディングでみなさんに森の保全を応援してもらえないかと。森を体験してもらって、最的には世界の自然をどう見るかとか、そういった体験や常識を増やしてもらいたいと考えているんです。

成田:ここまでお話を聞いて、養老さんがメタバースを活用してやろうとされていること
が、とてもよくわかりました。

高野:VR だからこそ見ることができる世界がありますね。「ポスト・ヒューマニズム」と呼ばれる議論がありますが、人文系の議論では、これまでの人間が持っていた人間中心の視点が問題視されます。克服に向けては木や川や動物といったアニミズムの視点がカとなってきますが、GoPro(小型カメラ)やVR を使うことで、そうした視点を実際にとることができます。我々の視点を豊かにする方向で技術を活用することができますね。

養老:あまり老人に難しいことを考えさせないでください(笑)。VR ではラオスの山に登ることだってできます。「あの山に登るとどのくらいかかるのか」と聞くと、ラオスの人は「生きて帰ってこられるかわからない」って言うんです。そんな場所にだってカメラを置いておけば、いつでもその視点から世界を見ることができる。視点を豊かにすることができるんです。

*インタビュー全文は『子ども白書2022』でお読みください。

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『子ども白書2022』