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プロフィール


30人分だと言われた事がある私の半生です。

覚書として、またなかなか面と向かって話しにくい内容もあるので、この機会にここで公開します。

愛媛県新居浜市出身。
未熟児で産まれたため半年ほど病院で過ごす。
無事元気に退院。
私の髪が薄毛となるきっかけとなったらしい。

小学校時代は学年で下から2番。
成績表は5段階中オール1&2。
先生の授業に全く興味が沸かず授業中はいつも遊んでいた。
放課後も毎日遊ぶことだけ考えていた。
見かねた担任の先生が特別に補習をしてくれたお陰で成績はオール3へと進化。

4年生の頃父親の仕事の関係で東京へ引っ越す。
塾へ通うことにはなったがトイレットペーパーを投げて遊ぶなど、愛媛時代のスタンスは継続。

しかし、6年生の頃肺炎で1か月学校を休むことになり、そこから危機感で突然勉強を始めた。
イタズラでも何でものめり込んだらトコトンまでやる性格なので、毎日勉強に励んだ。中学校では学年トップレベルへと成長できた。

法政大附属高校に入学。野球部でピッチャーを努め、補欠ではあったが甲子園出場。

その後は肩を痛めたため野球は引退した。
坊主を卒業したはいいがコンプレックスである薄毛に悩む日々が始まった。

法政大学へ進学後は馬術部に入部したがやはり野球ほど没頭できず退部。
野球を失ったことにより心に穴が空いたような生活が続く。その後は塾講師、アイス屋さん、印刷会社、工事現場などでアルバイトをしながらスキー、ゴルフ、テニス、旅行、ディスコなど、遊びや趣味から自分を見つめ直す日々。

大学生活。野球の坊主を卒業した私にとって人生で最もおしゃれをしたい時代だったが、私の髪は相変わらず薄かった。
何軒も何軒もカリスマサロンを回り理想の髪型を求めていったが、私の薄毛を操れるスタイリストは皆無だった。

大学生活は厳しく、なけなしのお金でヘアスプレーを何本も駆使し、当時流行していた少年隊の東山紀之氏や三上博史氏のようなヘアスタイルにしていたが、やはり私の薄毛は昼までもたなかった。
昼休みは毎日アパートに帰りセットし直す日々だった。今思えばこの頃には心が野球から美容へと着実に移り変わっていた。
しかしまだ美容師以外にも教師、サラリーマンなど魅力的な働き方に迷いがある中就活がスタート。

ある日何となく懸賞に応募したらIBMのパソコンが当たったのをきっかけに色々調べた。どうやらすごい企業らしい事が分かり、絶対に働きたいと強く思った。

卒業後、日本IBMに入社。

1週間寝る暇も与えてもらえないような超スパルタ研修からスタート。現代なら大問題だ。
しかし、現在も私のベースとなっている「仕事を楽しむ」事への考え方やあらゆる問題に対し処理能力を高めるノウハウを学ぶ事が出来、原点となった。

営業部へ配属、国内、海外で自社製品を売る毎日。成績が認められるなど順風満帆だった。

そんな中、髪にコンプレックスのある人達を助けたい、美容師になりたい、という夢が日に日にふくらむ。

やはり自分の夢だった美容師になるためIBMを退社。

京都の美容学校を経て近くのサロンに就職。

当時27歳だった私は焦っていた。27歳で美容師見習いは昔は特にだが、遅すぎた。
18から20歳前半の同期とともに厳しいレッスン、テストが続く。絶対に最短でスタイリストになる目標を掲げ、美容だけに全神経を集中させる生活を送った。美容学生時代から毎日レッスンしてきた事が功を奏し、1か月でスタイリストデビュー、1年後に店長になる。
経営難に苦しむ金沢や三重のサロンからお呼びがかかり、1年でV字回復に成功し代表も務める。

教える立場で毎日美容師として過ごす中、更に「教育」に関して学びたくなった。経営者として多忙な中ではあったが、母校の通信科に通い直し、社会科で中高教員免許を取得。

お店の代表を譲り、今度は経営難の美容専門学校から引っ張っていただき主任教員として立て直しに協力した。

「先生」として本格的に動き始める。

教員免許を更に生かすため公立中学で社会の常勤講師として勤務。
初めての部活の顧問はバスケ部。
1年で地区大会優勝を果たす。

この頃「美容師になりたい高校生」を最短でスタイリストにさせてあげたい、教員としてサポートしたい気持ちがふくらむ。

ご縁があり一時教員を離れ美容メーカーで管理職を経験。教育担当として社内で「鴨田塾」を開く。のちに携わる、商品開発に有効な知識をここで得ることができた。

目標であった美容科のある高校で働くため現在勤務している高校を志望したが、ストレートにはいかず、まずは非常勤講師として三重県の公立中学で勤務。
「生きる力育成サポーター」として授業で支援が必要とされる中学生を1対1でサポート。翌年は、同校で国際学級の担当となり外国人を支援。

その後も志望は通らず、聾学校の常勤講師として手話で社会の授業や担任を受け持つ。
しかし同校には理容科があり、自分の目標としている「美容を教える」システムに近いものを間近で見ることができた。
また、この経験をきっかけに特別支援免許全種類、心理カウンセラー資格を取得。

三重で教員として勤務を続けること2年。
美容を学ぶことのできる、現在も勤務している高校へ、まずは社会の常勤講師として勤務。
その間は、地元サロンから派遣された美容師さんがメインで教えていたが、私もサポートとして授業には参加していた。
1年後、美容師さんがサロン営業に力を入れるため同校を退職。

立場としては社会の先生のまま、本格的に美容を教えることになる。

日本初、高校生美容室を立ち上げ、高校内でサロン営業。

日本初、公立高校で美容師を目指す生徒が集まるビューティクリエイト部を設立。

ワインディング全国大会優勝。(高校生では全国初)

商品開発において、商品が一から作られる過程と、実際に販売体験もできるプロジェクトスタート。

教員採用試験を受けるが2回落ち、3回目で合格、初の教諭となる。
日本初、高校在籍中に美容師免許を日本最速で取得するダブルスクールシステムを確立。
美容競技大会では8年連続全国大会出場&4回全国大会制覇。

商品開発プロジェクト「ナノニン」「ピアニン」を手がけ、販売累計13万本達成。美容を学ぶ高校生とともにオールインワンジェル、オールインワンホイップ、マスク、シャンプー、トリートメント、ヘアオイルを開発、製造から販売まで体験。

当時の地方創生担当大臣、県知事、市長表敬訪問。全国知事会から表彰。市長より感謝状授与。
美容業界内外のあらゆる分野を体験したことや教員としての知識を生かし、現在特に若手育成や、専門学校の校長2校を歴任、経営&教育のシステム構築、美容業界を盛り上げるため日々奮闘中!

薄毛はなんとか今でも存続しています。

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