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娘とレストランと出会い SS0024

入学式 2019/4/5

「──警部はその際、怪我をして病院に向かわれ、軽傷だから家族には知らせるなと……」
 公衆電話の受話器から聞こえる、警察職員の申し訳なさそうな声に、私はため息を返す。
 今日は一人娘の小学校入学のお祝いを、家族水入らずで行うはずだった。奮発して予約したそごう柏の回転展望レストランで夫を待っていたが、約束の時間を過ぎても来ないので心配になって電話をしたら、このざまだ。
 千葉県警察機動隊所属の夫は、昨年文民警察官として派遣されたカンボジアから帰国したのち、人が変わった。今日も土曜日なのに部下の訓練に付き合ってからの待ち合わせだ。

 子連れの男性とすれ違い、席に戻る。先のことを考えると気が重くなる。頼れる親族もいない中、留守がちな夫と娘を育てるのは大変だ。それに夫の仕事には常に死の影が──。

「ねえ、お母さん、お父さんはまだ来ないの」
 窓から柏の風景を眺めていた娘は、夫が来ないと知るとぐずり出した。今日は入学式に参加できそうもない、夫の罪滅ぼしの場だ。
 やがて娘は泣き出した。いくらなだめても泣きやまない娘に、母としての自信が揺らぐ。

 この先、私はこの子をしっかりと育てることができるのだろうか。急に吐き気が込み上げてきた。慌ててトイレに向かう。涙と共に胃液を吐く。鏡には、やつれた顔が映る。

 席に戻ると娘の姿が見えない。お気に入りのセーラームーンの人形が、寂しげにたたずんでいる。レストランを一周したが、娘はいなかった。ありえない。ここからはエレベーターでしか降りることができない。従業員に事情を告げ、エレベーターのボタンを押した。

 玩具売り場にも、連絡通路でつながるスカイプラザの屋上遊園地にも娘の姿はなかった。
「義恵(よしえ)っ、義恵っ」大声で娘の名を叫びながら探す。
 失踪、誘拐──。最悪の事態が頭を巡る。私のせいだ。足がもつれ、通路に倒れ込む。先ほど一緒に買った真新しい鉛筆などの文房具が、寂しい音を奏でながら散乱する。
 目の前の文房具が、涙でかすむ。

 その耳に微かな鐘の音が聞こえ、やがて「イッツ・ア・スモール・ワールド」の曲が聞こえてきた。娘の好きなからくり時計が、刻を告げる音だ。
 もしかして──。柏駅につながるダブルデッキまで、階段を駆け足で下りて向かう。

 そごう柏の壁に掛かる世界の人形時計のからくりを見あげる人の中に、幼い娘が見えた。
 近寄り抱きかかえる。娘はきょとんとする。
「ああ、お母さんですか、良かった。レストランからその子が付いてきて、どこのお子さんかと心配していたのです」男の子を連れた中年の男が、安心したような声を掛けてきた。
 私は何度も頭を下げた。娘と同じ歳くらいの男の子は、私と娘をいつまでも見ている。
「信治(のぶはる)、行くぞ」男の声に男の子は、私たちに頭をぺこりと下げて去っていた。

「お父さんに似ていたの……」言い訳をする娘に、思わず手を上げようとしてしまった。
 体をすくめ肩を震わせる娘を見て、我に返る。寂しいのは私だけではない。父に甘える機会の少ない娘を、私は思いきり抱き締めた。

「おい、どうした、こんなところで」
 のんきな夫の声が、降ってきた。
「お父さんっ」娘が叫びながら夫に抱きつく。
 夫は娘を抱きかかえながらも、痛めたらしい脇腹を押さえた。急いできたのだろう、春の陽気なのに汗をびっしりとかいている。
 私は立ち上がり、夫に詰め寄る。
「あなた──」夫はおびえた顔になる。
「私より先に死んだら、許さないわよ」
 夫はおどけたように笑うと、娘を高く掲げた。その上には、春の淡い空が輝いていた。


 ※この「#記念日にショートショートを」は『桜と日章』の前日譚です。
 この家族のその後を知りたくなったら、ぜひ『桜と日章』を読んでみてください。
 未読でもこの「#記念日にショートショートを」は楽しめますが、読後だとまた違った味わいを感じることができると思います。

第13回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞して自衛隊ミステリー『深山の桜』で作家デビューしました。 プロフィールはウェブサイトにてご確認ください。 https://kamiya-masanari.com/Profile.html 皆様のご声援が何よりも励みになります!