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この文章に、ずっと焦がれている

 国語の授業は、私にとって素敵な文章との出会いの連続で、大好きでした。そんななか、他が霞んでしまうくらい好きな作品がありました。でも、どんなに好きなものも、時間の流れは残酷で、薄れていってしまいます。いつ習ったっけ?作品の名前は?私はもうこの作品について、「朝焼け」と「少女が空を見上げて言葉の無力さにムズムズしてる」ということしか思い出せませんでした。検索をかけてもなかなか見つからず…。それでつい先日、県立図書館で私が当時使っていた国語の教科書を漁ってみたんです。そしたら再会しました…執念の勝利!長年焦がれていた甲斐がありました。紹介させてください。

『朝焼けの中で』森崎和江

 八つか九つくらいの年頃だった。朝はまだひんやりしていた。私は門柱に寄り掛かって空を見ていた。朝日が昇ろうとしていたのだろう、透明な空が色づいていた。
 朝早く戸外にノートと鉛筆を持ち出して、私は何やら書きつけていた。が、空があまりに美しいので、その微妙な光線の変化を書き留めておきたくなって、雲の端の朝焼けの色や、雲を遊ばせている黄金の空に向かって感嘆の叫びを上げつつ、それにふさわしい言葉を並べようとし始めた。けれどもなんという絶妙な光の舞踏……。
 私はあの頃、初めて言葉というものの貧しさを知ったのである。絶望というものの味わいをも知ったのだった。自然の表現力の見事さに、人のそれは及びようのないことを、魂にしみとおらせた。打ちしおれる心と見事な自然の言葉に声を失う思いとを、共に抱き、涙ぐむようにしていると、父が出てきて、笑顔を向けてくれた。
 何を話してくれたか、もう記憶にない。ただあのときの強い体験にふさわしいようないたわりが、父から流れてきたことだけが残っている。空が白くなり、人間たちの朝が動いていく気配が満ちた。
 いつのまにか文筆にかかわって生きてきたけれど、言葉に対する私の感じ方の中には、あの朝の体験が深く広がっているようである。それは人間たちの深々とした生の営みの中で、言語化されている部分の小ささ、貧しさへの思いである。いや、まだ言葉になっていない広い領域のあることに対する、いとしさである。
 言葉は朝焼けの中の八歳の少女のようだ。

 和江ちゃん…。もうそう呼びたい。雲を遊ばせている黄金の空、絶妙な光の舞踏、父から流れてくるいたわり。私の感受性に引っかかった言葉たちが再発掘されていき、胸がいっぱいになりました。中学3年の新学期、国語の授業中。涙が溢れそうになり、慌てて拭ったのを覚えています。14歳の少女の、柔らかく繊細な部分に寄り添ってくれたんだと思います。和江ちゃんが父から受け取った''いたわりのバトン"は、この文章を通して私へと繋がれたわけです。ことばの1つ1つが"いたわり"そのものでした。そして、あの頃と変わらず、私はいくつになってもこの文章に焦がれているんだと思います。そうありたいです。自分の感受性くらい、自分で守りたいなと思います。

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