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宗教のカネ集めーー「勧進」の文化

宗教の高額すぎる「集金」はよく社会問題になる。

しかし、宗教は昔から「カネ集め」に血道を上げるものである。どうやってカネ(資財)を集めるか、それを常に考えているのが宗教である。これは古今東西を問わない。

宗教に勧誘する、とは、その人からカネを取る、ということと同義だし、ある宗教を信仰する、とは、その宗教にカネを払う、と同義である。

日本では、このカネ集めのことを「勧進」と言った。


たくさん「勧進」できた者が、宗教界の中で出世する。これは会社で営業成績を上げた者が出世するのと変わらない。

そういう優秀な「営業マン」がどうカネを集めるかというと、払えば払うほどリターンが大きいと「客」を説得する。

あなたは単にカネを払っているのでなく、死後の世界でいい思いをするために投資しているのだ、というのがセールストークだ。カネを使うのではない、それは「喜捨」だ、と(このように、実態を隠す言葉を多用する点は、宗教も詐欺も変わりない)。

安倍暗殺犯の母親は1億円ばかり統一教会にお布施して家庭を崩壊させたそうだが、そんなことを言えば、中世の天皇は極楽浄土に行こうとして国家予算の大半を寺社に寄付した。そのカネは人民から吸い上げたもので、その分、人民は疲弊している。そのカネで出来た豪奢な寺社を見て喜んでいる人たちが、暗殺犯の母を批判できるだろうか。


いかに抵抗なく、気持ちよく「勧進」に協力してもらうか。

宗教の人たちは、昔からそこにいろいろ工夫を凝らしてきた。

戦国時代、天皇のようなパトロンが離れ、貧窮した紀州・熊野三社が編み出したのが「熊野比丘尼(びくに)」だ。

これは熊野三社が組織した尼僧の営業隊で、全国を渡り歩き、仏道のありがたさを紙芝居のようなもので語りながら(だから「絵解き比丘尼」と呼ばれた)カネを集めた。

若い女性を営業の最前線に使うのは、今の企業も、今の新興宗教も変わらない。ヤクルトレディとか、北朝鮮レストランの美女たちもマッサオの活躍ぶりで、全国に何千という熊野神社を建てた(それがまた集金の拠点となる)。

私が熊野比丘尼に関心があるのは、私が住む柿生(川崎市麻生区)でも大活躍したのは間違いないからだ。前に書いたように、もともとこの土地は、紀州から来た鈴木一族に支配されていた。そこに比丘尼たちが派遣され、現在の麻生区の範囲でもたくさんの熊野神社が建立されている(ほとんどは現在の月読神社に統合された)。


霊感商法が問題というが、私に言わせれば、寺社で賽銭を払うのも霊感商法である。金額の多寡ではない。


だが、私は宗教を詐欺と同じだと言いたいわけではない。

熊野神社だけでなく、高野山を擁する紀伊半島は昔から宗教の一大拠点だが、同時に、政治(世俗)権力に対する抵抗拠点でもあった。

海賊(倭寇)を生み、秀吉の権力に最後まで抵抗し、独自に海外と交流し、近代では大逆事件やゾルゲ事件の温床ともなった「自由な気風」を文化として持つ土地だ。

我々は日本史で、鉄砲は1543年にポルトガル人からもたらされたと教わったが、現在は、紀州の倭寇が1542年に密輸入したというのが定説となりつつあるようだ。(前川未希「降倭沙也可にみる東アジアの鉄砲伝来」)

宗教共同体には、より大きな政治権力に対抗して、自分たちの自由な生き方を守りたいという志向がある。そのために、カネも、鉄砲も必要なのである。


「信教の自由」とは、単に近代の憲法上の自由権というだけではない。人類の歴史の中に根付いた「人間の生き方」そのものだということを押さえておきたい。




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