見出し画像

社会主義者・堺利彦、資本主義者・渋沢栄一との最後の戦い

渋沢栄一の命日(11月11日)に書いた原稿ーー

「あの露骨な、無頼な、醜悪な、恥知らずの、泥棒市議の続出と、およびそれと大差のない、ただわずかに検挙を免れていたに過ぎないだろうところの、彼らの同僚ーーそして自ら進んで辞職することもなしえず、浄化の、革新のと空疎な言葉ばかり口にしながら、後生大事になおそのいすにかじりついて・・・」

辞職勧告に応じない、某都議のことを言っているのではない。

1929(昭和4)年、東京市議となったときに堺利彦が「労農」に書いた文章だ(「堺利彦全集6」)。

堺利彦はこの時、59歳。日本の社会主義リーダーの反骨心はなお旺盛だった。

その堺が市議会で最初に行ったのが、渋沢栄一の「東京ガス」への攻撃だ。

「堺利彦略年譜」にある。

「昭和4年7月 市議会で東京瓦斯会社の暴利を糾弾し、またガス料金値下げ演説会を開催、料金不納同盟を組織する。」

当時、渋沢は90歳。とっくに現場からは引退していたが、「東京ガス」が渋沢の会社であることは誰にも常識だったろう。

渋沢栄一と東京ガスとの関係を、東京ガスの「渋沢栄一とガス事業 公益追求実績の軌跡」から引用しよう。

<引用始め>

(渋沢は)大蔵官僚を辞して民間の立場となり、明治7年(1874年)に東京ではじめてのガス事業に携わると、明治9年(1876年)からは東京府ガス局長として事業の健全化に務めました。

事業改善の見通しが立った明治18年(1885年)民営化により東京瓦斯会社が設立され、創業時の最高責任者(委員長)に就任。以来明治42年(1909年)に取締役会長を退任するまで、35年の長きに渡り、東京のガス事業を通して社会と暮らしの発展を推し進めました。

<引用終わり>

渋沢が35年トップを務めた「東京ガス」への攻撃には、社会主義者として日本の資本主義を相手に戦ってきた堺の集大成の意味があっただろう。

しかし、堺にも、渋沢にも、残された時間は短かった。

1931(昭和6)年11月11日、渋沢栄一は亡くなる。享年92。亡くなった日には天皇の勅使が遣わされた。

それは、満州事変が9月に起きた直後だった。堺利彦はさっそく大衆党の反戦委員長に就任していた。

そして、渋沢栄一が亡くなった時の行動を、堺利彦略年譜は記している。

「11月、東京市会において子爵渋沢栄一の逝去弔慰金に反対する。」

しかし、これが堺利彦の最後の「仕事」となった。

渋沢が亡くなった月、つまり彼への弔慰金に反対した同じ月、堺は演説中に、演説の内容が乱れる異状が生じる。

そして翌月(12月)、脳溢血を発症して倒れる。

その後は病院と自宅で治療を続けたが、回復せずに1933(昭和8)年1月22日に亡くなった。63歳。

堺利彦がもう少し長生きしていたら、どうなっていたか。

戦争反対を叫び続けるに決まっているから、おそらく、終戦まで牢獄の中で暮らすか、獄死することになっただろう。

堺の見方では、日本の戦争は、渋沢のような資本家の利益のための侵略戦争であり、庶民を苦しめるだけのものだった。その「庶民」は日本人だけではない。堺は、西洋主義者が多かった当時の社会主義者には珍しく、朝鮮や中国に差別観のない国際主義者だった。(LEVY Christine「堺利彦:国際主義の先駆者」)

もしかしたら、盟友・大杉栄のように、取り調べ中に虐殺されたかもしれない。

もしかしたら第2の「大逆事件」が起こり、盟友・幸徳秋水のように、絞首刑になっていたかもしれない。

いずれの運命も、彼は甘受したとは思うが、革命家として、畳の上で死ねただけでも幸いだったかもしれない。そうだとしてもーー

生涯の仇敵、渋沢栄一がNHK大河ドラマの主役となり、お札の顔になる成り行きには、墓の中で歯噛みしているに違いない。


<参考>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?