虚しく響く「だから言っただろう!」 岸田首相襲撃事件
昨日は、天気のせいもあり、陰鬱な気分になる日だった。
岸田首相が無事だったのはよかったが、昨日の襲撃事件で、
「だから言っただろう!」
と言いたかった人は多かっただろう。
そして同時に、こうも言いたかっただろう。
おかしいよね。今になってみんな「こんな風になることを懸念してた」って、去年の7月8月、統一教会叩きの風潮に異を唱えてたの、そんなにいなかったよ。(田中けい氏ツイート)
「いや、私はずっと異を唱えていた」
と言いたい人もいたはずだ。
私もそう言いたかった。
このnoteに書いたものを見てくれればわかる。その頃、毎日のように「おかしい」と、声を枯らして叫んでいた。
でも、今更そう言ったところで虚しい。
しょせん、無名人の声は届かない・・
有名人たちの多くは大勢になびき、テロ犯を称えるような者も少なくなかった。
9か月の間に2件の総理・元総理を狙ったテロが行われたことを、江川氏、石坂氏、宮台氏、前川氏は真剣に考えてほしい。自らの無責任な言論がテロを招く一因になった可能性を思い、真摯な反省がなされることを切に望む。
いや、こういう人たちだけではない。
岸田首相も、昨日の態度は立派だったが、去年のあなたは「あっち側」だった。それが絶望を深めたのだ。
宮台氏といい、岸田首相といい、因果はめぐるというやつだ。
そして江川氏は、オウム真理教事件の原因をつくった責任を、30年たってもまだ理解していない。
ジャニーズ事務所のことといい、安倍首相暗殺以降のことといい、「だから言っただろう」と言いたいことが続いた。
しかし、「だから言っただろう」と言ったところで、何も解決しない。
「社会が悪い」の無責任
昨日のソーシャルメディアの中で、いちばん知恵を感じたのは、以下のツイートだ。
朝日新聞記者の言葉。 「目的は手段を浄化する」 こうやって左翼はテロリズムや人権侵害を肯定してきた。もう懲り懲りだ。(ウハ@ゆっくり政治チャンネル)
報道の世界には「目的が手段を浄化する」という考え方がある、というのは私は初めて聞いた。
「目的が手段を正当化する」という考えが20世紀をめちゃくちゃにした。それは、幾多の戦争や「民族浄化」や「共産主義革命」を正当化し、何億もの人を殺した、悪魔の論理だ。20世紀の惨劇は、究極の「平和」や「平等」という「目的」のために、手段を選ばなかった結果である。
(ジャーナリストはみんな、研修で、プノンペンの虐殺記念館の、撲殺されて穴が空いた、大量のしゃれこうべの山を見学すべきだと思う。いま生きている「ジャーナリスト」のなかにも、そのポルポト革命を賛美した人はいたのだ)
その反省から、少なくとも冷戦終了後のメディアの人間は、みんな「目的は手段を正当化しない」という倫理を持っているものだと思っていた。が、私が甘かった。
「目的」を言うのは簡単だが、「手段」を言うのは難しい。
前にも書いたが、私が新聞社の人間から言われたのは、
「制度を批判するな。社会を批判しろ」
である。
「制度」とは、つまりは「手段」だ。それが重要なのだが、話がややこしくなるので、読者は喜ばない、と教わった。
それよりも、「社会が悪い!」と叫んだほうが、読者が喜ぶ、というわけだ。
私はそういう考えを嫌悪したが、メディアにはその考えが生きていて、人々を「反社会的」にしようとする。
とくにテレビでは、わかりやすい「社会が悪い」系の人が重用される。
江川紹子とサンデー毎日が「追及」を始めるまで、オウム真理教は「反社会的」ではなかった。江川氏とサンデー毎日が彼らを「反社会的」だと言ったら、彼らは本当にそうなった。そのメカニズムを小説「1989年のアウトポスト」に書いた。「社会が悪い」という思想が、彼らにも伝染したのだ。
江川氏の思想は、その意味では一貫している。安倍晋三が殺されたのも「社会が悪い」からだ。
メディアや批評家が「社会が悪い」と言いたがるのは、その断言にいつも説得力があると感じるからだ。だがそれには、説得力というより、疫病のような伝染性がある。
「社会が悪い」のだから「世直し」しなければならない、そのためには「手段は浄化される」となり、社会を破壊する行動が喚起される。
(イデオロギー的目的から、積極的に日本社会を破壊しようとする分子も、メディアや政界の中にいるとは思うが、それはまた別問題。ここでは、大勢がその工作に乗りやすい土壌を問題にしている)
メディアが、この「社会が悪い」という安易なワイルドカードに頼る限り、テロを含めた「伝染病」は広がる。
社会の欠陥は、それをどのような制度によって改善するか、「手段」の議論とともに指摘されるべきなのだが、確かに、それはなかなか難しい。
だから、メディアや、政治家を含むマスコミの有名人は、これからも「社会が悪い」と言い続けるだろうが、「じゃあ、どうすればいいのか」の部分まで説明できているかを常に確認すべきだろう。それがなければただの放談だ。
結局、読者や視聴者、市民の側が、賢くなるしかないのだと思う。
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